美濃伝は、伝えによれば移住者が開いた。大和手掻系の出と伝えられる兼氏が志津に住し、新しい相州風で鍛えて、後世の鑑定家にその最上作は誰よりも正宗に近いと言わしめている。
【はじめに】 源平合戦を経て、源頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、相模国鎌倉(相州)に幕府を開きました。当時の鎌倉には、新たな支配層となった武士階級の需要に応えるべく、日本各地から名工たちが集結しました。彼らの交流と創意工夫によって、今日「相州伝」として知られる、革新的かつ力強い作風が確立されたのです。この流派からは、日本刀史上最高の名工と謳われる正宗が登場しました。鎌倉時代(1185年〜1333年)は、まさに日本刀の黄金時代と目されています。 この時代には、多くの巨匠が輩出されました。正宗の父、あるいは養父と伝えられる行光。新藤五国光門下で正宗と切磋琢磨した則重。そして正宗の子、あるいは養子とされる貞宗などが挙げられます。また、正宗には「正宗十哲」と呼ばれる優れた門弟たちがおり、その顔ぶれには諸説あるものの、郷義弘や兼氏らは常にその筆頭に数えられています。 相州伝の巨匠による作品は、当時から現代に至るまで至宝として珍重されてきました。歴代の将軍家や大名家に伝来し、今日では美術館や個人コレクションの白眉として、大切に受け継がれています。 【相州伝 短刀】 本作は、14世紀後半(南北朝時代)の相州伝の特徴を顕著に示した、資料的価値の高い優品です。 【刀身造り込み】 茎(なかご):生(うぶ)。無銘。舟形、入山形尻。鑢目は僅かに勝手下がり。茄子瓢(なすひさご)形状の目釘孔。 (解説:製作当時のままの茎で、銘はありません。船の底のような形状に、山形の刃上がりを呈し、左上から右下へ僅かに傾斜した鑢目が施されています。目釘孔は二つの孔が重なった瓢箪のような形をしています。) 姿(すがた):平造り、身幅広く、三ヶ棟(みつむね)。 (解説:鎬のない平らな造り込みで、身幅が広く、棟の断面が台形となった三ヶ棟の仕立てです。)








































美濃伝 · 美濃
現在20点販売中
美濃国直江の地に興った一門で、その名は移住に由来する。元来、志津は美濃の地名であり、ここに大和より正宗の門人たる兼氏が来住して鍛えたことから、地名をとって志津三郎兼氏と呼ばれた。正宗十哲の一に数えられる兼氏は、相州伝を基調としつつ大和手掻の血を負い、尖りごころの互の目に走る乱調をもって美濃伝のいま一つの根をなした工である。その門人たち、兼友・兼信・兼次らは、はじめ志津に作り、後に同国直江に移って鍛えたため、この一門を直江志津と総称する。年代は南北朝の延文・貞治より応安頃に及び、本流は兼氏に発する志津の血を一代を隔てて承けた工の群である。同時代に越中呉服郷の江則重の流れを北陸道より美濃に運んだ為継のごとき手も加わって、相州伝が内陸へ運ばれ美濃の地鉄に根を下ろした姿を、この一門は最もよく伝える。 直江志津を貫くのは、工の差を越えて繰り返される共通の語法である。地鉄は板目に杢を交え、処々流れて柾がかり、肌立ちごころとなって地沸厚くつき、地景がよく入って鉄を縫い、北国の趣濃く黒みをおびる。その地に立つ刃文は、相州伝の影響を負った浅いのたれ・小のたれに、美濃の尖り刃を交えた互の目を連ね、沸は強く深く、砂流しが頻りにかかって長く金筋を伴う。匂口は深く、優品では明るく冴え、激しめの作では迫力を、穏やかな作では穏雅な作位を示す。帽子は乱れ込んで掃きかけ、小丸に返るか焼詰め風となる。同じ型のうちに各工の手が読み分けられ、為継は則重風の湿ったのたれに美濃の鋭い尖りを与えて黒く沸豊かな地に焼き、兼友は頭の丸い互の目を連れて小沸出来に穏やかに焼き、兼次は逆がかった小のたれ調の互の目を匂深く焼く。大和・相州・美濃を融合したこの地刃が一門の背骨であり、師たる兼氏その人と比べれば、より穏やかで実直に、また地肌の冴えにおいて控えめに収まる点が、門流の手を分かつ。 鑑定にあっては、まず黒ずむ板目に地沸厚く沸出来で匂口の沈む地刃をもって直江志津と読み、本流に直刃がないことを否定の見どころとする。次に、より大きく揺れるのたれ乱れと頭の丸い互の目の連れる態をもって、これを志津・金重の手から、また下る末関の同名工から分かつ。主要工の格は説明書の評にそのまま現れ、為継は江則重に直結する黒い沸の手として藤代の上工に列し、兼友は鍛えの質によって上々作に位置づけられて、いずれも国宝・重要文化財を持たぬ南北朝の名である。現存の大半は作風から極められた大磨上無銘の刀であり、在銘・年紀作は極めて稀で、説明書はこれを頗る貴重とし、無銘極めにこそよい出来が多いと率直に評する。為継には応安年紀の作、兼友・兼次には在銘の短刀が伝承の拠り所として立つ。所伝は乏しいながら確かで、熱田神宮に伝わる作や、戦前の蒐集を経て今に伝わる短刀が記録される。極められた無銘の一刀が市に現れるのは折にふれ、忍耐をもってのことであって、在銘・年紀の作はそれとは別格の、名を定める証として遇される。 詳しく見る →
美濃伝は、伝えによれば移住者が開いた。大和手掻系の出と伝えられる兼氏が志津に住し、新しい相州風で鍛えて、後世の鑑定家にその最上作は誰よりも正宗に近いと言わしめている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトReturns accepted on items ordered from the site when an item does not appear to be as depicted and described; buyer must notify via email within 7 days of receipt. Refund covers purchase price minus shipping, bank fees, and currency conversion. Sales on items paid in terms are final, as are sales of items personally inspected.
【はじめに】 源平合戦を経て、源頼朝は征夷大将軍に任ぜられ、相模国鎌倉(相州)に幕府を開きました。当時の鎌倉には、新たな支配層となった武士階級の需要に応えるべく、日本各地から名工たちが集結しました。彼らの交流と創意工夫によって、今日「相州伝」として知られる、革新的かつ力強い作風が確立されたのです。この流派からは、日本刀史上最高の名工と謳われる正宗が登場しました。鎌倉時代(1185年〜1333年)は、まさに日本刀の黄金時代と目されています。 この時代には、多くの巨匠が輩出されました。正宗の父、あるいは養父と伝えられる行光。新藤五国光門下で正宗と切磋琢磨した則重。そして正宗の子、あるいは養子とされる貞宗などが挙げられます。また、正宗には「正宗十哲」と呼ばれる優れた門弟たちがおり、その顔ぶれには諸説あるものの、郷義弘や兼氏らは常にその筆頭に数えられています。 相州伝の巨匠による作品は、当時から現代に至るまで至宝として珍重されてきました。歴代の将軍家や大名家に伝来し、今日では美術館や個人コレクションの白眉として、大切に受け継がれています。 【相州伝 短刀】 本作は、14世紀後半(南北朝時代)の相州伝の特徴を顕著に示した、資料的価値の高い優品です。 【刀身造り込み】 茎(なかご):生(うぶ)。無銘。舟形、入山形尻。鑢目は僅かに勝手下がり。茄子瓢(なすひさご)形状の目釘孔。 (解説:製作当時のままの茎で、銘はありません。船の底のような形状に、山形の刃上がりを呈し、左上から右下へ僅かに傾斜した鑢目が施されています。目釘孔は二つの孔が重なった瓢箪のような形をしています。) 姿(すがた):平造り、身幅広く、三ヶ棟(みつむね)。 (解説:鎬のない平らな造り込みで、身幅が広く、棟の断面が台形となった三ヶ棟の仕立てです。)








































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美濃国直江の地に興った一門で、その名は移住に由来する。元来、志津は美濃の地名であり、ここに大和より正宗の門人たる兼氏が来住して鍛えたことから、地名をとって志津三郎兼氏と呼ばれた。正宗十哲の一に数えられる兼氏は、相州伝を基調としつつ大和手掻の血を負い、尖りごころの互の目に走る乱調をもって美濃伝のいま一つの根をなした工である。その門人たち、兼友・兼信・兼次らは、はじめ志津に作り、後に同国直江に移って鍛えたため、この一門を直江志津と総称する。年代は南北朝の延文・貞治より応安頃に及び、本流は兼氏に発する志津の血を一代を隔てて承けた工の群である。同時代に越中呉服郷の江則重の流れを北陸道より美濃に運んだ為継のごとき手も加わって、相州伝が内陸へ運ばれ美濃の地鉄に根を下ろした姿を、この一門は最もよく伝える。 直江志津を貫くのは、工の差を越えて繰り返される共通の語法である。地鉄は板目に杢を交え、処々流れて柾がかり、肌立ちごころとなって地沸厚くつき、地景がよく入って鉄を縫い、北国の趣濃く黒みをおびる。その地に立つ刃文は、相州伝の影響を負った浅いのたれ・小のたれに、美濃の尖り刃を交えた互の目を連ね、沸は強く深く、砂流しが頻りにかかって長く金筋を伴う。匂口は深く、優品では明るく冴え、激しめの作では迫力を、穏やかな作では穏雅な作位を示す。帽子は乱れ込んで掃きかけ、小丸に返るか焼詰め風となる。同じ型のうちに各工の手が読み分けられ、為継は則重風の湿ったのたれに美濃の鋭い尖りを与えて黒く沸豊かな地に焼き、兼友は頭の丸い互の目を連れて小沸出来に穏やかに焼き、兼次は逆がかった小のたれ調の互の目を匂深く焼く。大和・相州・美濃を融合したこの地刃が一門の背骨であり、師たる兼氏その人と比べれば、より穏やかで実直に、また地肌の冴えにおいて控えめに収まる点が、門流の手を分かつ。 鑑定にあっては、まず黒ずむ板目に地沸厚く沸出来で匂口の沈む地刃をもって直江志津と読み、本流に直刃がないことを否定の見どころとする。次に、より大きく揺れるのたれ乱れと頭の丸い互の目の連れる態をもって、これを志津・金重の手から、また下る末関の同名工から分かつ。主要工の格は説明書の評にそのまま現れ、為継は江則重に直結する黒い沸の手として藤代の上工に列し、兼友は鍛えの質によって上々作に位置づけられて、いずれも国宝・重要文化財を持たぬ南北朝の名である。現存の大半は作風から極められた大磨上無銘の刀であり、在銘・年紀作は極めて稀で、説明書はこれを頗る貴重とし、無銘極めにこそよい出来が多いと率直に評する。為継には応安年紀の作、兼友・兼次には在銘の短刀が伝承の拠り所として立つ。所伝は乏しいながら確かで、熱田神宮に伝わる作や、戦前の蒐集を経て今に伝わる短刀が記録される。極められた無銘の一刀が市に現れるのは折にふれ、忍耐をもってのことであって、在銘・年紀の作はそれとは別格の、名を定める証として遇される。 詳しく見る →
美濃伝は、伝えによれば移住者が開いた。大和手掻系の出と伝えられる兼氏が志津に住し、新しい相州風で鍛えて、後世の鑑定家にその最上作は誰よりも正宗に近いと言わしめている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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