説明

直江志津とは志津兼氏の一派が、南北朝期の応安前後に養老山麓の志津村から直江村へ移住した刀工群で、兼俊や兼友、兼次、兼延などが有名。志津兼氏は大和手掻系の鍛冶で、相州伝を会得して大和伝と相州伝を融合。後に美濃志津へ移り、関の金重と共に美濃伝の創始と言われている。尚、直江村は度重なる河川の氾濫により、室町初期には関や赤坂へ移住を余儀なくされたという。 本作は相州伝の強い地刃を楽しめる優刀。浅い反りは元来長寸の太刀を磨上げたためで、元幅と先幅の差も少なく豪壮な姿。小乱れの互の目刃文には金筋や沸筋多く働いて動きがあり、飛焼きが随所に見られる。地鉄は板目に杢目が混じった相伝風で、帽子は乱れこんで稲妻走り掃掛け気味。茎は大磨上ながら錆色良く樋が掻き流されている。直江志津は三尺近い太刀が多いとされ、その殆どが磨上げられて短刀以外の在銘品はまず見かけない。特別保存刀剣鑑定書附。 鞘書:伝志津 長一尺七寸八分有 昭和四十五年八月吉日 岳泉鑑誌 落款(大塚岳泉)

無銘 直江志津
Tokuho

無銘 直江志津

脇差

¥880,000

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仕様

長さ

53.9 cm

反り

0.6 cm

元幅

3 cm

先幅

2.5 cm

流派について

Naoe Shizu School直江志津派

1 重要美術品149 重要刀剣

美濃国直江の地に興った一門で、その名は移住に由来する。元来、志津は美濃の地名であり、ここに大和より正宗の門人たる兼氏が来住して鍛えたことから、地名をとって志津三郎兼氏と呼ばれた。正宗十哲の一に数えられる兼氏は、相州伝を基調としつつ大和手掻の血を負い、尖りごころの互の目に走る乱調をもって美濃伝のいま一つの根をなした工である。その門人たち、兼友・兼信・兼次らは、はじめ志津に作り、後に同国直江に移って鍛えたため、この一門を直江志津と総称する。年代は南北朝の延文・貞治より応安頃に及び、本流は兼氏に発する志津の血を一代を隔てて承けた工の群である。同時代に越中呉服郷の江則重の流れを北陸道より美濃に運んだ為継のごとき手も加わって、相州伝が内陸へ運ばれ美濃の地鉄に根を下ろした姿を、この一門は最もよく伝える。 直江志津を貫くのは、工の差を越えて繰り返される共通の語法である。地鉄は板目に杢を交え、処々流れて柾がかり、肌立ちごころとなって地沸厚くつき、地景がよく入って鉄を縫い、北国の趣濃く黒みをおびる。その地に立つ刃文は、相州伝の影響を負った浅いのたれ・小のたれに、美濃の尖り刃を交えた互の目を連ね、沸は強く深く、砂流しが頻りにかかって長く金筋を伴う。匂口は深く、優品では明るく冴え、激しめの作では迫力を、穏やかな作では穏雅な作位を示す。帽子は乱れ込んで掃きかけ、小丸に返るか焼詰め風となる。同じ型のうちに各工の手が読み分けられ、為継は則重風の湿ったのたれに美濃の鋭い尖りを与えて黒く沸豊かな地に焼き、兼友は頭の丸い互の目を連れて小沸出来に穏やかに焼き、兼次は逆がかった小のたれ調の互の目を匂深く焼く。大和・相州・美濃を融合したこの地刃が一門の背骨であり、師たる兼氏その人と比べれば、より穏やかで実直に、また地肌の冴えにおいて控えめに収まる点が、門流の手を分かつ。 鑑定にあっては、まず黒ずむ板目に地沸厚く沸出来で匂口の沈む地刃をもって直江志津と読み、本流に直刃がないことを否定の見どころとする。次に、より大きく揺れるのたれ乱れと頭の丸い互の目の連れる態をもって、これを志津・金重の手から、また下る末関の同名工から分かつ。主要工の格は説明書の評にそのまま現れ、為継は江則重に直結する黒い沸の手として藤代の上工に列し、兼友は鍛えの質によって上々作に位置づけられて、いずれも国宝・重要文化財を持たぬ南北朝の名である。現存の大半は作風から極められた大磨上無銘の刀であり、在銘・年紀作は極めて稀で、説明書はこれを頗る貴重とし、無銘極めにこそよい出来が多いと率直に評する。為継には応安年紀の作、兼友・兼次には在銘の短刀が伝承の拠り所として立つ。所伝は乏しいながら確かで、熱田神宮に伝わる作や、戦前の蒐集を経て今に伝わる短刀が記録される。極められた無銘の一刀が市に現れるのは折にふれ、忍耐をもってのことであって、在銘・年紀の作はそれとは別格の、名を定める証として遇される。

刀剣商

十拳

tokka.biz

¥880,000

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