村正は室町時代後期の伊勢国を代表する刀工で、桑名の地に在住した。現存する上限の年紀は文亀元年(一五〇一)で、それには「右衛門尉村正」と銘しており、説明書は「通説では文亀を初代、天文を二代、天正を三代としており、その中、二代とされているものが最も技術が優れ、作刀も多く現存し、且つ茎の銘字も流暢で巧みである」と記す。本項はその二代、天文頃の村正であり、指定を受けた作は四十一口を数える。ある刀については「最も上手で世に知られている村正はこれである」とまで評される。俗に正宗の弟子と伝えられた説を、説明書は「俗に正宗の弟子と伝えられたが不当」と退け、実際の同時代の美濃・島田・京の刀工の間に位置づける。なお代別については確固とした説がないと添えるものがあり、古い説明書は永正・天文の年紀を二代に充てる。
その見どころとして説明書が筆頭に挙げるのは表裏の揃いである。すなわち「表裏の刃文が目立って揃うところが村正の特色であり」、「箱がかった刃文や、乱れの谷が刃先に近くなる点も同工の見どころである」という。本作風の刃文は互の目・のたれに箱がかった刃・複式互の目・尖り刃・山形の乱れを交え、乱れの頭が割れ、谷が刃先にせまる。匂口は締りごころに小沸が叢につき、時に沈みごころとなり、砂流しがしきりにかかる。帽子は乱れ込み、または直ぐに小丸、掃きかけて尖りごころとなり、返りは深く、棟焼に続くものもある。
これを載せる姿は、何よりも平造・三ツ棟の短刀と寸延びの小脇指で、身幅広く、反り浅く先反りがつき、フクラの枯れる室町後期の典型であり、内反りの小振りの一群も交じる。刀は寸の詰った先反りの強い打刀で、菖蒲造の作もある。鍛えは板目に流れ肌・柾ごころを交えてやや肌立ち、地沸がつき、白けごころのものが多い。茎は生ぶで下半が目立って細るたなご腹となり、「たなご腹も二代から殊に著しくなる」と記され、太鏨大振りの二字銘を切る。その流暢で力強い銘字そのものが二代の見どころとされ、まれに「勢州桑名住村正作」の長銘がある。指定作四十一口中四十口が在銘である。唯一の無銘は号「揚羽」の脇指で、生ぶ無銘ながら古く銘をすりつぶしたものと読まれて二代と極められ、本阿弥光徳指料と伝える。底銘でかすかに二字銘の残る脇指があり、その裏の金象嵌は大久保忠寛の題字であって極め銘ではない。短刀の一口には後嵌の金短冊銘「夢告」がある。
本則の傍らに作域が分かれる。中直刃・細直刃の穏やかな短刀があり、「来派の作などをねらったもので成功しており、間々同作にはこれがある」と評される。刀では腰元に大互の目や箱がかった刃を焼き、上半を直刃調として下半と上半の焼刃を異にする。また飛焼・棟焼が盛んとなって皆焼風に至る一群があり、同工には珍しいとするものと、まま見られる出来とするものとが併存する。さらに槍が多く、素槍・大身槍・珍しい片鎌十文字槍を合わせて指定作中七口を占め、「槍の製作にも長じていた」ことが知られるとされ、ある大身槍は「蓋し名槍と称すべきである」と賞された。相州小田原鍛冶俊次・俊広との三人合作刀も現存し、資料的価値も高いと評される。
鑑定上の紛れについて説明書は率直である。「一見すると末関の兼定等に紛れる」といい、兼芝の名も挙げ、島田物に似るとし、京の平安城長吉については「平安城長吉と酷似する」とまでいい、何らかの関係があったと思われると添える。これらと分けるのが前述の見どころ、すなわち表裏の揃い、箱がかった刃、刃先にせまる乱れの谷、締りごころの匂口と叢沸、そしてたなご腹の茎と太鏨の銘字である。一門の正重・正眞は同様の作風を示すが、ここでも茎が決め手となり、村正の茎棟が角に切られるのに対して正重は丸く肉がつくとされる。皆焼は同工にあっては時折の作域に止まり、本領はあくまで表裏の揃う乱れ刃にある。
藤代の極めで上々作。二代の指定作は四十一口で、すべて重要刀剣であり、国宝・重要文化財に封ぜられたものはない。しかし銘を減らしたのは歴史そのものである。説明書は「徳川家に祟るとか、持主に祟るなど云う伝説があって、その為に無銘となったものが多い」と記し、現存有銘の刀は比較的に稀であるという。名跡の行方についても説明書は分かれ、「徳川将軍家の忌避にふれてか名跡が絶えている」とするものと、「同銘が相継ぎ新刀に及んでいる」とするものが併存する。指定刀に博物館・神社の所蔵は録されておらず、伝来の列記もなく、記録の上では私蔵の間を伝わってきた。生ぶ茎にたなご腹、太鏨の二字銘を備えた二代村正が市に現れることは稀であり、多くの銘を消したその伝説こそが、遺された有銘作への求めを一層強くしている。