刃渡り(長さ) 36.7センチ(南北朝時代の寸伸び短刀) 反り 0.8センチ 元重ね6.2ミリ 先重ね4.1ミリ(平造りのため切先から約66ミリ棟化粧研ぎ流し部で計測) 元幅 33.1ミリ 先幅 27.5ミリ(平造りのため切先から約66ミリ棟化粧研ぎ流し部で計測) 刀身重量318g ハバキ 金着せ 目釘穴 4個 鑢目 桧垣 刃文 小乱れ心の互の目乱れ 湾れ尖り刃飛び焼き入る 小沸出来地沸盛んに付き映り立ち僅かに焼き落とす 小足、金線、金筋、稲妻入る 帽子 匂い崩れ入る火焔帽子 鍛え 板目詰む 寸法、グラムは約でご理解ください。刃渡り・反りなど登録書を映しております。 銘文 なし 鞘書き鑑定 金重 金重の評価額 780万円 説明 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 1/3 2/3 3/3




Mino Seki (founder; with Kaneuji a progenitor of the Mino tradition) · 美濃 · 1340-1346頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在3点販売中
金重は古来相州正宗十哲の一人に数えられ、兼氏と並んで美濃鍛冶の源流に立つ刀工である。説明書は『古今銘尽』を引いて法名を道阿、本国を越前敦賀とし、「法名、道阿。本国越前つるがの住人すぐれたる上手也。関に越て住」[[c:1]]と記して、越前敦賀より関へ越えて美濃に住したと伝える。兼氏とともに美濃の工の源とされ、「兼氏と並んで美濃鍛冶の源流」[[c:2]]となった刀工と呼ばれる。『光山押形』は貞治二年紀の短刀二口を載せてその南北朝の活躍期を定め、確実な在銘作が南北朝を遡らぬことから、説明書は正宗との直接の関係を証ではなく所伝の上に置く。
その手は志津一派と分かたれる美濃伝として読まれ、極めの引く区別は精緻である。志津が尖り互の目に走るのに対し、金重は頭の丸い互の目を連れて穏やかな刃を焼く。説明書はこれを「尖り互の目よりも頭の丸い」[[c:3]]互の目の連れた出来とし、小沸がつき、総体に「志津一派よりも穏やかな感」[[c:4]]のものと評する。その静かな刃へ浅いのたれ、あるいは直刃調の地を敷き、小尖り刃を交え、無銘の刀には片落ち風の互の目を交える。足入り、匂口明るく、刃中を細かに金筋・砂流しが走り、刃縁に湯走り・沸ほつれが寄る。この沸の働きは美濃の鉄に継がれた相州伝であり、説明書はこれを同工の見どころとする。
地鉄こそ終始の見どころである。板目に杢・流れ肌を交えた地は志津よりやや肌立ち、刃寄り柾がかり、地沸厚く地景を頻りに交え、長寸の作には白けが映り状に立つ。鍛えがつめば在銘太刀のごとく小板目となって地沸微塵に厚く、開けばやや肌立って肌が現われる。帽子は刃文に応えて乱れ込み、小丸ないし焼詰めごころに掃きかけ、返りに金筋を交えるものもある。両様の作風を通じて、刃中の一景よりもまずこの地鉄とその肌立ちを、極めは読む。
記録は二つの面に分かれる。一は研究の基準たる、生ぶ茎・二字在銘の平造短刀・脇指数口で、身幅広く重ね薄く、数口は延文・貞治型に寸延び、加えて近年確認された在銘太刀一口は、磨上ながら腰反りを保ち、元から先まで小互の目を連れる。これら在銘の作は一様でなく、穏やかなのたれのものも小互の目の連れたものもあり、説明書は中に皆焼風のものがあって作風の様々であることを記す。短刀の茎元には宗教的な彫物、護摩箸に腰樋、素剣の浮彫、梵字二個、ある脇指には不動信仰の象徴たる四柱の大壇具を彫る。二は記録の大半を占める、大磨上無銘で伝金重と極められた刀・薙刀直しで、南北朝の幅広く堂々たる姿をなし、決め手の一つを欠くところでは時代と一派からその極めを首肯する。在銘太刀について説明書は「在銘の太刀である本作が確認された意」[[c:5]]義の大きさを強調する。それまで同工の長寸は皆無銘極めにとどまっていたからである。
美濃にあって金重を分かつものは、まさに極めの言うところである。志津一派からは穏やかで丸い互の目とやや肌立つ地鉄によって隔てられ、説明書は繰り返しその作が「志津一派の作とは趣を異にし」[[c:6]]つつなお紛れもない南北朝の美濃伝であると首肯する。彼は兼氏に続く者ではなくその傍らの祖であり、穏やかで沸の厚いその手が関の伝統に二つの根の一つを与えた。関の工房はその美濃伝の手を室町へ継ぎ、同国を刀剣生産の一大中心とした。説明書はまた、脇指の極められる二代金重の存在を記し、名は祖の後も続く。
収集の観点では、稀な初期の美濃の名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく重要文化財もなく、その記録はすべて重要刀剣の級を通じ、官の記録に四十五口、大半は大磨上無銘で伝金重と極められた刀、僅かが名の研究を支える貴重な在銘の短刀・脇指と在銘太刀一口である。その作は来歴の確かな旧家・機関に伝わり、京都国立博物館もこれを蔵し、来歴は徳川将軍家に及ぶ。ある在銘短刀は延宝七年、嗣子徳松の誕生を祝して将軍家に献上されたもので、旗本曽我仲祐の手を経た。在銘の作がほとんど残らず長寸は重要刀剣上位でのみ取引されるため、在銘の金重は美濃伝の収集家が望み得るもっとも稀なものの一つであり、世に出ることは稀で、出ればすなわち美濃伝いかに始まったかを語る証となる。
金重の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
美濃伝 · 美濃
現在150点販売中
美濃国の関は、南北朝より室町、新刀期に至るまで日本刀の一大生産地として栄えた鍛冶の地である。その源流は二つに発し、説明書は金重と志津兼氏とを並べて美濃鍛冶の祖とする。金重は『古今銘尽』に法名道阿、越前敦賀の住人と伝えられ、敦賀より関へ越えて住したといい、相州正宗十哲の一に数えられて、沸の厚い穏やかな手を美濃の地鉄に持ち込んだ。兼氏に発する志津の系は、尖り互の目に走る乱調をもって、いま一つの根をなす。この二流が南北朝の美濃伝を形づくり、金行のごとく金重に続く工、室町に入って善定派の兼吉のように大和手掻の血を関に運んだ工が加わって、流れは広がった。室町後期には兼元・兼定の二名を頂点とする末関の隆盛を迎え、孫六兼元の名と和泉守兼定の受領とが、地方の量産地にとどまらぬ関の格を世に示した。大和と相州の二つの源流に、備前を意識した白け映りの地が結ばれて、美濃伝という一個の伝法が立ったのである。 関物を貫くのは、工と系統の差を越えて繰り返される美濃の共通語法である。地鉄は板目に柾を交えてしばしば肌立ち、刃寄りに柾がかり、鎬地は柾に流れる。その地に立つ映りは備前の明るい乱れ映りではなく、淡く白ける美濃鉄の靄のような白け映りで、説明書はこれを終始、備前と作を分かつ見どころとして掲げる。刃文は互の目を主調に尖り刃を交え、兼元にあっては整然と並ぶ尖り刃の三本杉となり、兼定や兼之にあっては頭の丸い互の目とのたれを交えて変化に富む。沸は乾いて締まり、匂口は冴え、足入り、砂流し・細かな金筋が刃中を走る。帽子は乱れ込んで先尖りごころとなり、あるいは丸く地蔵風に返る。これらは関の背骨をなす型であって、工により濃淡を異にする。金重・金行の手は穏やかで地が肌立ち、善定兼吉は大和の血を負って締った直刃と柾がかる板目を見せ、末関の氏房は大らかなのたれに尖り刃を折り込み、兼房は頭の丸い互の目の兼房乱れを得意とする。同じ語法のうちに、それぞれの工の手が読み分けられる。 収集家が関物を求めるのは、その鑑定が手応えを伴う一個の眼の修練だからである。映りが白く沸が乾いて締まる美濃の地刃は、備前の華やかな映りとも、山城の長く澄んだ直刃とも異なり、これを見分けることが関を識る勘所となる。主要工の格は説明書の評にそのまま現れる。孫六兼元は三本杉の創始者として名を成し、和泉守兼定すなわちノサダは、白ける板目に焼いた賑やかな美濃の刃と来国俊風の細直刃の双方を能くして、古刀期に珍しい受領を許され、刀剣書が「すぐれたる上手」と評する当代第一の手とされる。兼之は末関中最もよく練れた鍛えを見せて作域広く、永正・大永のノサダとして賞玩が厚い。これらの名は将軍家・大名家の伝来を負い、ノサダの太刀には武田信虎のために打たれた一口があり、菊花紋を切った刀は皇室との関わりを示し、徳川将軍家への献上を経た金重の短刀も伝わる。末関の氏房一門は清須・名古屋へ移って尾張新刀三祖の一を生み、古い美濃の手が新たな伝統へ移る蝶番に立った。切れ味をもって武用に応えた量産の地でありながら、孫六兼元らの最上手の作は美術的価値においても高く評され、その白け映りと乾いた沸の手を識ることが、美濃伝いかに始まり継がれたかを語る証となる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
刃渡り(長さ) 36.7センチ(南北朝時代の寸伸び短刀) 反り 0.8センチ 元重ね6.2ミリ 先重ね4.1ミリ(平造りのため切先から約66ミリ棟化粧研ぎ流し部で計測) 元幅 33.1ミリ 先幅 27.5ミリ(平造りのため切先から約66ミリ棟化粧研ぎ流し部で計測) 刀身重量318g ハバキ 金着せ 目釘穴 4個 鑢目 桧垣 刃文 小乱れ心の互の目乱れ 湾れ尖り刃飛び焼き入る 小沸出来地沸盛んに付き映り立ち僅かに焼き落とす 小足、金線、金筋、稲妻入る 帽子 匂い崩れ入る火焔帽子 鍛え 板目詰む 寸法、グラムは約でご理解ください。刃渡り・反りなど登録書を映しております。 銘文 なし 鞘書き鑑定 金重 金重の評価額 780万円 説明 ↓ここに画像が表示されます。(通信環境により数十秒ほどかかる場合もございます。) 1/3 2/3 3/3




Mino Seki (founder; with Kaneuji a progenitor of the Mino tradition) · 美濃 · 1340-1346頃
藤代 Jo-jo saku · 刀剣大鑑 上位14%
現在3点販売中
金重は古来相州正宗十哲の一人に数えられ、兼氏と並んで美濃鍛冶の源流に立つ刀工である。説明書は『古今銘尽』を引いて法名を道阿、本国を越前敦賀とし、「法名、道阿。本国越前つるがの住人すぐれたる上手也。関に越て住」[[c:1]]と記して、越前敦賀より関へ越えて美濃に住したと伝える。兼氏とともに美濃の工の源とされ、「兼氏と並んで美濃鍛冶の源流」[[c:2]]となった刀工と呼ばれる。『光山押形』は貞治二年紀の短刀二口を載せてその南北朝の活躍期を定め、確実な在銘作が南北朝を遡らぬことから、説明書は正宗との直接の関係を証ではなく所伝の上に置く。
その手は志津一派と分かたれる美濃伝として読まれ、極めの引く区別は精緻である。志津が尖り互の目に走るのに対し、金重は頭の丸い互の目を連れて穏やかな刃を焼く。説明書はこれを「尖り互の目よりも頭の丸い」[[c:3]]互の目の連れた出来とし、小沸がつき、総体に「志津一派よりも穏やかな感」[[c:4]]のものと評する。その静かな刃へ浅いのたれ、あるいは直刃調の地を敷き、小尖り刃を交え、無銘の刀には片落ち風の互の目を交える。足入り、匂口明るく、刃中を細かに金筋・砂流しが走り、刃縁に湯走り・沸ほつれが寄る。この沸の働きは美濃の鉄に継がれた相州伝であり、説明書はこれを同工の見どころとする。
地鉄こそ終始の見どころである。板目に杢・流れ肌を交えた地は志津よりやや肌立ち、刃寄り柾がかり、地沸厚く地景を頻りに交え、長寸の作には白けが映り状に立つ。鍛えがつめば在銘太刀のごとく小板目となって地沸微塵に厚く、開けばやや肌立って肌が現われる。帽子は刃文に応えて乱れ込み、小丸ないし焼詰めごころに掃きかけ、返りに金筋を交えるものもある。両様の作風を通じて、刃中の一景よりもまずこの地鉄とその肌立ちを、極めは読む。
記録は二つの面に分かれる。一は研究の基準たる、生ぶ茎・二字在銘の平造短刀・脇指数口で、身幅広く重ね薄く、数口は延文・貞治型に寸延び、加えて近年確認された在銘太刀一口は、磨上ながら腰反りを保ち、元から先まで小互の目を連れる。これら在銘の作は一様でなく、穏やかなのたれのものも小互の目の連れたものもあり、説明書は中に皆焼風のものがあって作風の様々であることを記す。短刀の茎元には宗教的な彫物、護摩箸に腰樋、素剣の浮彫、梵字二個、ある脇指には不動信仰の象徴たる四柱の大壇具を彫る。二は記録の大半を占める、大磨上無銘で伝金重と極められた刀・薙刀直しで、南北朝の幅広く堂々たる姿をなし、決め手の一つを欠くところでは時代と一派からその極めを首肯する。在銘太刀について説明書は「在銘の太刀である本作が確認された意」[[c:5]]義の大きさを強調する。それまで同工の長寸は皆無銘極めにとどまっていたからである。
美濃にあって金重を分かつものは、まさに極めの言うところである。志津一派からは穏やかで丸い互の目とやや肌立つ地鉄によって隔てられ、説明書は繰り返しその作が「志津一派の作とは趣を異にし」[[c:6]]つつなお紛れもない南北朝の美濃伝であると首肯する。彼は兼氏に続く者ではなくその傍らの祖であり、穏やかで沸の厚いその手が関の伝統に二つの根の一つを与えた。関の工房はその美濃伝の手を室町へ継ぎ、同国を刀剣生産の一大中心とした。説明書はまた、脇指の極められる二代金重の存在を記し、名は祖の後も続く。
収集の観点では、稀な初期の美濃の名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく重要文化財もなく、その記録はすべて重要刀剣の級を通じ、官の記録に四十五口、大半は大磨上無銘で伝金重と極められた刀、僅かが名の研究を支える貴重な在銘の短刀・脇指と在銘太刀一口である。その作は来歴の確かな旧家・機関に伝わり、京都国立博物館もこれを蔵し、来歴は徳川将軍家に及ぶ。ある在銘短刀は延宝七年、嗣子徳松の誕生を祝して将軍家に献上されたもので、旗本曽我仲祐の手を経た。在銘の作がほとんど残らず長寸は重要刀剣上位でのみ取引されるため、在銘の金重は美濃伝の収集家が望み得るもっとも稀なものの一つであり、世に出ることは稀で、出ればすなわち美濃伝いかに始まったかを語る証となる。
金重の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
美濃伝 · 美濃
現在150点販売中
美濃国の関は、南北朝より室町、新刀期に至るまで日本刀の一大生産地として栄えた鍛冶の地である。その源流は二つに発し、説明書は金重と志津兼氏とを並べて美濃鍛冶の祖とする。金重は『古今銘尽』に法名道阿、越前敦賀の住人と伝えられ、敦賀より関へ越えて住したといい、相州正宗十哲の一に数えられて、沸の厚い穏やかな手を美濃の地鉄に持ち込んだ。兼氏に発する志津の系は、尖り互の目に走る乱調をもって、いま一つの根をなす。この二流が南北朝の美濃伝を形づくり、金行のごとく金重に続く工、室町に入って善定派の兼吉のように大和手掻の血を関に運んだ工が加わって、流れは広がった。室町後期には兼元・兼定の二名を頂点とする末関の隆盛を迎え、孫六兼元の名と和泉守兼定の受領とが、地方の量産地にとどまらぬ関の格を世に示した。大和と相州の二つの源流に、備前を意識した白け映りの地が結ばれて、美濃伝という一個の伝法が立ったのである。 関物を貫くのは、工と系統の差を越えて繰り返される美濃の共通語法である。地鉄は板目に柾を交えてしばしば肌立ち、刃寄りに柾がかり、鎬地は柾に流れる。その地に立つ映りは備前の明るい乱れ映りではなく、淡く白ける美濃鉄の靄のような白け映りで、説明書はこれを終始、備前と作を分かつ見どころとして掲げる。刃文は互の目を主調に尖り刃を交え、兼元にあっては整然と並ぶ尖り刃の三本杉となり、兼定や兼之にあっては頭の丸い互の目とのたれを交えて変化に富む。沸は乾いて締まり、匂口は冴え、足入り、砂流し・細かな金筋が刃中を走る。帽子は乱れ込んで先尖りごころとなり、あるいは丸く地蔵風に返る。これらは関の背骨をなす型であって、工により濃淡を異にする。金重・金行の手は穏やかで地が肌立ち、善定兼吉は大和の血を負って締った直刃と柾がかる板目を見せ、末関の氏房は大らかなのたれに尖り刃を折り込み、兼房は頭の丸い互の目の兼房乱れを得意とする。同じ語法のうちに、それぞれの工の手が読み分けられる。 収集家が関物を求めるのは、その鑑定が手応えを伴う一個の眼の修練だからである。映りが白く沸が乾いて締まる美濃の地刃は、備前の華やかな映りとも、山城の長く澄んだ直刃とも異なり、これを見分けることが関を識る勘所となる。主要工の格は説明書の評にそのまま現れる。孫六兼元は三本杉の創始者として名を成し、和泉守兼定すなわちノサダは、白ける板目に焼いた賑やかな美濃の刃と来国俊風の細直刃の双方を能くして、古刀期に珍しい受領を許され、刀剣書が「すぐれたる上手」と評する当代第一の手とされる。兼之は末関中最もよく練れた鍛えを見せて作域広く、永正・大永のノサダとして賞玩が厚い。これらの名は将軍家・大名家の伝来を負い、ノサダの太刀には武田信虎のために打たれた一口があり、菊花紋を切った刀は皇室との関わりを示し、徳川将軍家への献上を経た金重の短刀も伝わる。末関の氏房一門は清須・名古屋へ移って尾張新刀三祖の一を生み、古い美濃の手が新たな伝統へ移る蝶番に立った。切れ味をもって武用に応えた量産の地でありながら、孫六兼元らの最上手の作は美術的価値においても高く評され、その白け映りと乾いた沸の手を識ることが、美濃伝いかに始まり継がれたかを語る証となる。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。