天下統一は大量の市場を閉じ、関の鍛冶は新しい富の在り処へ移った。三品の一門は受領名を得て京に、大道系は諸国の城下町に。美濃は新刀時代の最大の祖先となった。
銘:飛騨守藤原氏房 (慶長年間、江戸時代初期。初代将軍徳川家康公および二代将軍秀忠公の治世) 元幅:約3.33 cm










Owari-Seki (Mino-derived Owari shinto; retained by the Owari Tokugawa) · 尾張 · 1596-1615頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位26%
現在9点販売中
飛騨守藤原氏房は若狭守氏房の子として永禄十年に濃州の関に生まれ、初め河村伊勢千代、後に平十郎と称した。説明書はその経歴を丹念に追う。織田信孝の側小姓に仕え、主君の死後は浪人となり、尾州蟹江城主佐久間正勝の幕下を経て清洲に移り、天正十七年頃より刀匠として活動を始めた。天正十九年、関白豊臣秀次が清洲の領主となると、氏房・政常・信高の三名は聚楽第で謁見を許されて各自の作刀を献上し、氏房は飛騨守を賜わった。この三名は後世、徳川の下に尾張新刀を興した尾張三作に数えられる。慶長十五・六年頃に名古屋へ移って徳川義直の抱工として仕え、寛永八年に備前守氏房へ家督を譲って同年六十五歳で歿した。同名は三代あって初代は飛騨守、二代は備前守、三代は再び飛騨守を受領するが、一派の名声を担うのはその初代、すなわち祖である。
その典型は大らかなのたれで、説明書が得意・本領とする焼である。身幅広く反り浅く大鋒の、いわゆる慶長新刀の典型的姿の刀に、大のたれを主調として互の目・小のたれを交え、足・葉入り、小沸よくつき、処々むら沸・湯走りが刃の調子を破る。同じ大らかな手は薙刀にも通い、寸延びの平造脇指では箱がかったのたれに広がる。あるその脇指を説明書は「同工の本領を遺憾なく発揮した」[[c:1]]刃と評する。慶長十一年紀の刀でも、同じ開いたのたれに互の目を交えた刃を、氏房の特色をよくしめした典型作と呼ぶ。
その焼を支える地鉄は肌立った地である。肌立ちごころの板目、時に大板目あるいはザングリとした地に杢を交え、鎬地は柾に流れて地沸がつく。それは彼の出た美濃関の地鉄であり、最上の在銘刀において説明書はそこに志津風を読み、ある一刀をその「同作中の白眉」とし、「志津風を最もよく現わしている」[[c:2]]作とする。この地の上の帽子は焼深く、のたれ込んで小丸あるいは大丸となり、長く返って掃きかけるが、短刀や数口では突き上げて先尖る美濃三品の手となる。刀は棒樋を掻通し、薙刀は薙刀樋に添樋を彫る一方、説明書が珍しいとする文字や浮彫の彫物は平造の脇指にのみあらわれる。
この一人の手のうちに、説明書はさらに二つの面を引き出す。第一は最も多い、身幅広く反り浅く大鋒の、南北朝期の大磨上を思わせる姿であるが、それを慶長作と定めるのは先反りであると判者は注意し、就中あるものは一見村正の作に見えるとする。第二は稀で、説明書が二度この工には珍しいとする、微塵の地沸の地にほつれ・二重刃・細かな金筋を働かせた明るい中直刃で、帽子は焼深く先尖る。この直刃の刀に判者は相州上工郷・左文字への私淑を読み、鍛えがよく錬れて「相州上工に私淑したような古色の趣」[[c:3]]があるとする。慶長七年の短刀は三品帽子が一見越前康継を思わせるが、のたれの調子が大模様で沸が強くむらにつくところに氏房自身の特色があらわれる。
彼を際立たせるのは、判者が繰り返し挙げる取り合わせである。出自は関の工で、肌立って柾流れの地鉄、突き上げて先尖る三品帽子、大らかなのたれはいずれもその美濃の根を負う。だが身幅広く力強い慶長新刀の姿、深い沸、直刃に見せる相州への志は、地方の関の手というより徳川に仕えた尾張の上工を示す。大らかに開いたのたれは緊まった美濃の互の目と分かれ、明るく沸深い直刃は同輩の平明な直刃と分かれる。氏房・政常・信高が共に聚楽第に謁見を許され尾張三作として記憶されることは、彼を古き伝統の末ではなく新たな伝統の興りに置く。
収集の観点では、彼は伝説の稀少品というより、よく記録された一派の祖である。藤代の極めは上々作。国宝も重要文化財もなく、その記録は重要刀剣の級を通じ、そこに初代の在銘の、しばしば年紀のある刀・脇指・短刀・薙刀が相応に残り、その内には説明書が貴重とする慶長年紀のものが少なくなく、これらを「飛騨守氏房研究の好資料」[[c:4]]と称える。「藤原朝臣」を冠し年紀のある刀は珍しいため、年紀作こそ最も学ぶところの多い作とされる。その作の来歴はあまり記録されず、私蔵と述べるにとどまるが、身幅広く豪壮で、長銘を太く明瞭に切った在銘の初代氏房は時に世に出ることがあり、年紀のある一口は尾張新刀を学ぶ者が最も会いたいと願う作である。
氏房の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
美濃伝 · 尾張
現在18点販売中
氏房は尾張国に興った一門で、その作は桃山末から江戸初期、いわゆる新古境いの時代に位置づけられる。説示は若狭守氏房・飛騨守氏房を本流の手本として繰り返し挙げ、これに連なる工として、若狭守氏房の次男と伝える越後守氏恒、初代氏房の子と伝える出雲守氏貞らを記す。氏恒は河村平十郎、初銘を氏重とし、元和六年に越後守を受領、明暦二年に尾州名古屋にて歿したと美濃刀大鑑が伝える。氏貞は出雲守を受領し、左近少将あるいは権少将と銘した。一門は美濃を根として尾張に移り、徳川・尾張の地で代々その作風を継いだ。 作風は美濃伝を基調とする。鍛えは板目がつみ、杢や流れ肌を交え、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。刃文は直ぐの焼出しごころを見せたうえ、下半は浅いのたれを基調に小互の目を連れて交え、上半は小のたれに大互の目や尖りごころの互の目を交える。のたれが角がかり、小足・葉が入り、沸がつき、処々荒めの沸を交えてむらづき、金筋・砂流しがかかり、随処に飛焼・棟焼を交えて匂口が幾分沈みごころとなる。帽子は焼深く、三品風に先が尖り、あるいは一枚風となって長く焼き下げ、掃きかける。短刀には平造に草の倶利迦羅や護摩箸に蓮台の彫物を加えるものがあり、師伝をよく踏襲する。大きくのたれた刃に大乱れを焼き、飛焼を交えて皆焼風となる一類もある。見分けは、のたれの角がかりと沸のむらづき、匂口の沈みごころ、そして三品風に先の尖る帽子に求められる。 伝来し指定された作には、越後守氏恒の幅広・大鋒で重ね厚く長寸の豪壮な刀、左近権少将氏貞の天正五年紀を切る彫物入りの短刀、氏貞の皆焼風を示す刀などがある。鑑定の要点は、若狭守及び飛騨守氏房の作柄を髣髴とさせる地刃の総体にあり、肉置き豊かな体配と大模様の刃文が相俟って迫力ある一作風を成す。寡作の工にあっても抜群の出来を示し、長大な姿にして破綻のないところに、この一門の力量がうかがわれる。 詳しく見る →
桃山時代の美濃
天下統一は大量の市場を閉じ、関の鍛冶は新しい富の在り処へ移った。三品の一門は受領名を得て京に、大道系は諸国の城下町に。美濃は新刀時代の最大の祖先となった。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
価格はお問い合わせ
銘:飛騨守藤原氏房 (慶長年間、江戸時代初期。初代将軍徳川家康公および二代将軍秀忠公の治世) 元幅:約3.33 cm










Owari-Seki (Mino-derived Owari shinto; retained by the Owari Tokugawa) · 尾張 · 1596-1615頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位26%
現在9点販売中
飛騨守藤原氏房は若狭守氏房の子として永禄十年に濃州の関に生まれ、初め河村伊勢千代、後に平十郎と称した。説明書はその経歴を丹念に追う。織田信孝の側小姓に仕え、主君の死後は浪人となり、尾州蟹江城主佐久間正勝の幕下を経て清洲に移り、天正十七年頃より刀匠として活動を始めた。天正十九年、関白豊臣秀次が清洲の領主となると、氏房・政常・信高の三名は聚楽第で謁見を許されて各自の作刀を献上し、氏房は飛騨守を賜わった。この三名は後世、徳川の下に尾張新刀を興した尾張三作に数えられる。慶長十五・六年頃に名古屋へ移って徳川義直の抱工として仕え、寛永八年に備前守氏房へ家督を譲って同年六十五歳で歿した。同名は三代あって初代は飛騨守、二代は備前守、三代は再び飛騨守を受領するが、一派の名声を担うのはその初代、すなわち祖である。
その典型は大らかなのたれで、説明書が得意・本領とする焼である。身幅広く反り浅く大鋒の、いわゆる慶長新刀の典型的姿の刀に、大のたれを主調として互の目・小のたれを交え、足・葉入り、小沸よくつき、処々むら沸・湯走りが刃の調子を破る。同じ大らかな手は薙刀にも通い、寸延びの平造脇指では箱がかったのたれに広がる。あるその脇指を説明書は「同工の本領を遺憾なく発揮した」[[c:1]]刃と評する。慶長十一年紀の刀でも、同じ開いたのたれに互の目を交えた刃を、氏房の特色をよくしめした典型作と呼ぶ。
その焼を支える地鉄は肌立った地である。肌立ちごころの板目、時に大板目あるいはザングリとした地に杢を交え、鎬地は柾に流れて地沸がつく。それは彼の出た美濃関の地鉄であり、最上の在銘刀において説明書はそこに志津風を読み、ある一刀をその「同作中の白眉」とし、「志津風を最もよく現わしている」[[c:2]]作とする。この地の上の帽子は焼深く、のたれ込んで小丸あるいは大丸となり、長く返って掃きかけるが、短刀や数口では突き上げて先尖る美濃三品の手となる。刀は棒樋を掻通し、薙刀は薙刀樋に添樋を彫る一方、説明書が珍しいとする文字や浮彫の彫物は平造の脇指にのみあらわれる。
この一人の手のうちに、説明書はさらに二つの面を引き出す。第一は最も多い、身幅広く反り浅く大鋒の、南北朝期の大磨上を思わせる姿であるが、それを慶長作と定めるのは先反りであると判者は注意し、就中あるものは一見村正の作に見えるとする。第二は稀で、説明書が二度この工には珍しいとする、微塵の地沸の地にほつれ・二重刃・細かな金筋を働かせた明るい中直刃で、帽子は焼深く先尖る。この直刃の刀に判者は相州上工郷・左文字への私淑を読み、鍛えがよく錬れて「相州上工に私淑したような古色の趣」[[c:3]]があるとする。慶長七年の短刀は三品帽子が一見越前康継を思わせるが、のたれの調子が大模様で沸が強くむらにつくところに氏房自身の特色があらわれる。
彼を際立たせるのは、判者が繰り返し挙げる取り合わせである。出自は関の工で、肌立って柾流れの地鉄、突き上げて先尖る三品帽子、大らかなのたれはいずれもその美濃の根を負う。だが身幅広く力強い慶長新刀の姿、深い沸、直刃に見せる相州への志は、地方の関の手というより徳川に仕えた尾張の上工を示す。大らかに開いたのたれは緊まった美濃の互の目と分かれ、明るく沸深い直刃は同輩の平明な直刃と分かれる。氏房・政常・信高が共に聚楽第に謁見を許され尾張三作として記憶されることは、彼を古き伝統の末ではなく新たな伝統の興りに置く。
収集の観点では、彼は伝説の稀少品というより、よく記録された一派の祖である。藤代の極めは上々作。国宝も重要文化財もなく、その記録は重要刀剣の級を通じ、そこに初代の在銘の、しばしば年紀のある刀・脇指・短刀・薙刀が相応に残り、その内には説明書が貴重とする慶長年紀のものが少なくなく、これらを「飛騨守氏房研究の好資料」[[c:4]]と称える。「藤原朝臣」を冠し年紀のある刀は珍しいため、年紀作こそ最も学ぶところの多い作とされる。その作の来歴はあまり記録されず、私蔵と述べるにとどまるが、身幅広く豪壮で、長銘を太く明瞭に切った在銘の初代氏房は時に世に出ることがあり、年紀のある一口は尾張新刀を学ぶ者が最も会いたいと願う作である。
氏房の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
美濃伝 · 尾張
現在18点販売中
氏房は尾張国に興った一門で、その作は桃山末から江戸初期、いわゆる新古境いの時代に位置づけられる。説示は若狭守氏房・飛騨守氏房を本流の手本として繰り返し挙げ、これに連なる工として、若狭守氏房の次男と伝える越後守氏恒、初代氏房の子と伝える出雲守氏貞らを記す。氏恒は河村平十郎、初銘を氏重とし、元和六年に越後守を受領、明暦二年に尾州名古屋にて歿したと美濃刀大鑑が伝える。氏貞は出雲守を受領し、左近少将あるいは権少将と銘した。一門は美濃を根として尾張に移り、徳川・尾張の地で代々その作風を継いだ。 作風は美濃伝を基調とする。鍛えは板目がつみ、杢や流れ肌を交え、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。刃文は直ぐの焼出しごころを見せたうえ、下半は浅いのたれを基調に小互の目を連れて交え、上半は小のたれに大互の目や尖りごころの互の目を交える。のたれが角がかり、小足・葉が入り、沸がつき、処々荒めの沸を交えてむらづき、金筋・砂流しがかかり、随処に飛焼・棟焼を交えて匂口が幾分沈みごころとなる。帽子は焼深く、三品風に先が尖り、あるいは一枚風となって長く焼き下げ、掃きかける。短刀には平造に草の倶利迦羅や護摩箸に蓮台の彫物を加えるものがあり、師伝をよく踏襲する。大きくのたれた刃に大乱れを焼き、飛焼を交えて皆焼風となる一類もある。見分けは、のたれの角がかりと沸のむらづき、匂口の沈みごころ、そして三品風に先の尖る帽子に求められる。 伝来し指定された作には、越後守氏恒の幅広・大鋒で重ね厚く長寸の豪壮な刀、左近権少将氏貞の天正五年紀を切る彫物入りの短刀、氏貞の皆焼風を示す刀などがある。鑑定の要点は、若狭守及び飛騨守氏房の作柄を髣髴とさせる地刃の総体にあり、肉置き豊かな体配と大模様の刃文が相俟って迫力ある一作風を成す。寡作の工にあっても抜群の出来を示し、長大な姿にして破綻のないところに、この一門の力量がうかがわれる。 詳しく見る →
桃山時代の美濃
天下統一は大量の市場を閉じ、関の鍛冶は新しい富の在り処へ移った。三品の一門は受領名を得て京に、大道系は諸国の城下町に。美濃は新刀時代の最大の祖先となった。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
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