刃長41.25センチ 反り0.85センチ 元幅31.5ミリ 元重ね7.25ミリ 物打幅25.0ミリ 物打重ね5.5ミリ 横手位置幅22.7ミリ 松葉先重ね4.7ミリ 裸身重量441グラム。 江戸前期寛永頃 Production age 『AD1628 ~ 』 昭和41年5月24日 広島県登録 附属 保存刀剣鑑定書、素銅地金鍍金二重はばき、白鞘 初代山城守国清は松平忠昌公の抱え工で名を吉右衛門と言い、三代島田助宗の子として信州松本で生まれました。 初銘は助宗。後に上洛して堀川国広門下に入り、銘を国清へと改めています。 師である國廣没後は越後高田の松平忠昌に仕え、更に忠昌が越前福井に転封の際には、主君に従って同地に移ったと伝えられています。寛永四年山城大掾を受領。菊紋を切ることを許され、翌年に山城守へと転じ、慶安二年に六十歳で没しています。 国清銘は数代の継承が見られますが、中でも初代が上手で位高く、二代国清は初代の子で、作刀は初代同様に直刃の作が多く、肥前刀さながらの作風を示したものがあります。 また、一般的に初代作には「一」の字を使用しているものはなく、二代以降の作に「一」の字が切られています。 この脇指は見幅広く、切先が延びた慶長新刀の名残を感じさせる体配で、師である國廣を思わせるザングリとした地鉄に、匂口明るい直刃を巧みに焼いています。一見単調なる直刃に見えるも、仔細に見ると鼠足が豊かに入り、刃に変化が見られます。 現状古研ぎですが、地刃の観賞には差し支えございません。願わくば然るべき上研磨を施し、特別保存刀剣鑑定を御受審下さい。 ※研磨代参考価格 上研磨123,200円(税込) 各種クレジットカード、ショッピングローンもご利用頂けます。お気軽にお申し付け下さい。
Certificate reading — 銘 山城守藤原国清









Awataguchi (Yamashiro) · 山城 · 1201-1204頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
現在1点販売中
国清は鎌倉時代初頭の山城粟田口派、その名高い六人兄弟の四番目にあたる工である。説明書はその位置を一門のうちに置く。国家の子にして、国友・久国・国安を兄に、有国・国綱を弟にもち、この六人は皆そろって後鳥羽院の御番鍛冶に列したと伝える。本工自身の作は在銘のものが甚だ少なく、ある重要刀剣は端的に「在銘の現存するものは少なく二口を数えるのみ」[[c:1]]と記す。それゆえその名は今日、本工と極められた大磨上無銘の刀の一群と、稀な在銘の太刀とによって主に伝わる。
その手は明るく静かな初期粟田口の作域である。地鉄はよくつんだ小板目で、処々流れごころとなりあるいは大肌を交じえ、地沸厚くつき、最上手には頻りに地景が入る。説明書は鉄をいかにも明るいと評し、処々に淡く乱れ映りが立つとする。その地に対して焼くのは備前の華やかな丁子ではなく、直刃調の小乱れであって、浅くのたれ、小丁子・小互の目・互の目を交じえ、足入り、匂深く匂口明るく、沸よくつき、細かに砂流し・金筋がかかる。帽子は直ぐに小丸あるいは大丸となって返る。
この直刃調の刃中にあって、極めが取り立てて挙げる景色が一つある。物打辺に湯走りがかかって二重刃風の二重の線をなすところで、説明書が複数の大磨上の作に認める見どころである。これは抑えた見どころであって、総じて華やかならず静かな本工の性格にかなうものである。
説明書は国清を最も兄国安に近いものと読む。雲州松平家伝来の在銘の太刀について、その刃を「総じて国安に似ている」[[c:2]]とし、大磨上の刀の一口については、乱れの間のつまった処と匂口のうるみごころが「国安に一脈通じるものがあり」[[c:3]]とする。まさにこの国安への親近が、特色ある明るい粟田口の小板目地の上に置かれて、銘の失われた作の極めを支え、説明書はかかる作を「一見して鎌倉初期の粟田口物と鑑せられる出来である」[[c:4]]と首肯する。本工は一派後年の開花に先立つ初期粟田口本流に立ち、静かな直刃調の小乱れとうるみのある匂口とがその一家の手の印である。
収集の観点では、国清は稀な初期粟田口の名であり、藤代の格付けは最上作にあたる。国宝はなく、その記録は重要文化財一口(青山家伝来の在銘太刀)に、雲州松平家伝来の戦前の重要美術品在銘太刀、および重要刀剣・特別重要刀剣に及ぶ大磨上無銘の刀の一群を加え、指定を受けた作は併せて五口に過ぎない。特別重要刀剣の刀は播州姫路酒井家に伝わり、説明書はこれを出来優れた一口とし、「殊に刃中のひかり輝く沸は見事である」[[c:5]]と評する。所在の知れる作は福山美術館に蔵され、その来歴は大名家・皇室の旧蔵を通じる。記録に残る作が僅かでその多くが長く伝えられている以上、在銘の国清が世に出ることは稀であり、在銘の太刀にせよ極めの刀にせよ、私蔵の一口は初期山城を蒐める者にとって注目すべき出会いである。
國清の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
山城伝 · 山城
現在5点販売中
かねに潤いがあってよく冴える、という一語が、この一門の解説に幾度も立ち返る。よく約んだ小板目を極くつめて地沸を微塵に厚く均しく敷き、細かな地景を入れて沸映りを立てる手は、古来「梨子地肌」と称され、本流派の名を負う精錬の極みである。山城国粟田口、すなわち京都から近江へ通じる街道筋に居を構えた鍛冶の集まりであり、その地に鍛冶が住したことは鎌倉初頭の説話集『宇治拾遺物語』にも見える。祖は国家といい、その子に国友・久国・国安・国清・有国・国綱の六人兄弟があって、いずれも揃って名を成した。長兄国友をはじめ、久国・国安らは後鳥羽院の番鍛冶、すなわち院に月番で仕えた工に召され、活躍期は承久(一二一九〜二二)の頃にあたる。末弟国綱は後に北条氏の招きで鎌倉へ下向し、相州鍛冶草創の一人に数えられる。長兄国友の子則国を経て、左兵衛尉国吉、その子または弟子の藤四郎吉光へと、御番鍛冶の世代から短刀の名手の世代へと一門は続き、別流の新藤五国光は相州伝の事実上の創始者として行光・正宗・則重を育てた。 作域の核は、備前の華やかな丁子の対極にある、静かで抑えた直刃にある。よく約んだ小板目に地沸を厚くつけた精美な地の上へ、小沸出来の細直刃ないし直刃調の小乱れを匂深く焼き、小互の目・小丁子・小足・葉を交え、金筋・砂流しを細かにかける。匂口は締りごころに明るく冴え、帽子は穏やかな小丸に返り、しばしば掃きかけを伴う。表裏には護摩箸・素剣・梵字を彫り、その護摩箸は間隔狭く棟に寄せて彫るのが一門共通の手癖である。同じ作風の中にも工ごとの標識が宿る。久国は兄弟の中で最も沸が強く、国友・国安は匂口がうるみ、国安は連れごころの小互の目に押し詰まった小乱れを守って一派の乱れの手を担い、則国は国吉・吉光に通じつつ比較的沸が強い。国吉・吉光に至って刃は明るい直刃へ傾き、二重刃や帽子下の沸の喰下がりがその手癖となる。来時代へ下るにつれ穏雅な細直刃の比重が増す一方、国綱のみは板目が肌立って刃沸の目立つ剛壮な異風を見せ、来たるべき相模の力強い作風へ傾く。 鑑定の拠りどころは明快である。梨子地状の精美な小板目地、潤って冴えるかね、締まって明るい直刃調の刃に細かくかかる金筋・砂流し、これらが揃えば初期粟田口と鑑せられる。各工は解説中の物差しによって分かたれる。久国は格調の高さで、国安は安の字の崩しと連れごころの小互の目で、国清は兄国安への親近で、則国は子国吉に近い国の字で読まれる。そして一門を貫く対比は来派との別である。粟田口の地刃の沸は来物より一段と厚く強く感じられ、寸法の割に身幅狭く重ね厚い造込みは来にまず見ない。位置づけの頂点には、相模国の新藤五国光と並ぶ短刀の名人吉光が立ち、江戸期には正宗・江と共に天下三作の筆頭に挙げられた。流暢な二字銘そのものが鑑識の対象である。代表作の重みは伝来に表れ、名物鬼丸国綱は天下五剣の一つとして皇室に納まり、一期一振藤四郎は太閤秀吉の蔵刀、陸奥新藤五は奥州伊達家重代として伝わる。山城の精錬な沸の直刃は来の名工が汲んだ源であり、ひいては新藤五国光から相州伝へと展開する源流でもあって、本流派は日本刀の地鉄の最高峰を示すとともに、後世の二大潮流の発端に立つ。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお求めになられた商品とは異なる商品をお届けしてしまった場合や、表記内容と現物とに大きな隔たりなどがあった場合を除き、基本的に返品はお受けいたしません。返品をご要望の場合は、商品到着後3日以内に御連絡の上ご返送下さい。
刃長41.25センチ 反り0.85センチ 元幅31.5ミリ 元重ね7.25ミリ 物打幅25.0ミリ 物打重ね5.5ミリ 横手位置幅22.7ミリ 松葉先重ね4.7ミリ 裸身重量441グラム。 江戸前期寛永頃 Production age 『AD1628 ~ 』 昭和41年5月24日 広島県登録 附属 保存刀剣鑑定書、素銅地金鍍金二重はばき、白鞘 初代山城守国清は松平忠昌公の抱え工で名を吉右衛門と言い、三代島田助宗の子として信州松本で生まれました。 初銘は助宗。後に上洛して堀川国広門下に入り、銘を国清へと改めています。 師である國廣没後は越後高田の松平忠昌に仕え、更に忠昌が越前福井に転封の際には、主君に従って同地に移ったと伝えられています。寛永四年山城大掾を受領。菊紋を切ることを許され、翌年に山城守へと転じ、慶安二年に六十歳で没しています。 国清銘は数代の継承が見られますが、中でも初代が上手で位高く、二代国清は初代の子で、作刀は初代同様に直刃の作が多く、肥前刀さながらの作風を示したものがあります。 また、一般的に初代作には「一」の字を使用しているものはなく、二代以降の作に「一」の字が切られています。 この脇指は見幅広く、切先が延びた慶長新刀の名残を感じさせる体配で、師である國廣を思わせるザングリとした地鉄に、匂口明るい直刃を巧みに焼いています。一見単調なる直刃に見えるも、仔細に見ると鼠足が豊かに入り、刃に変化が見られます。 現状古研ぎですが、地刃の観賞には差し支えございません。願わくば然るべき上研磨を施し、特別保存刀剣鑑定を御受審下さい。 ※研磨代参考価格 上研磨123,200円(税込) 各種クレジットカード、ショッピングローンもご利用頂けます。お気軽にお申し付け下さい。
Certificate reading — 銘 山城守藤原国清









Awataguchi (Yamashiro) · 山城 · 1201-1204頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
現在1点販売中
国清は鎌倉時代初頭の山城粟田口派、その名高い六人兄弟の四番目にあたる工である。説明書はその位置を一門のうちに置く。国家の子にして、国友・久国・国安を兄に、有国・国綱を弟にもち、この六人は皆そろって後鳥羽院の御番鍛冶に列したと伝える。本工自身の作は在銘のものが甚だ少なく、ある重要刀剣は端的に「在銘の現存するものは少なく二口を数えるのみ」[[c:1]]と記す。それゆえその名は今日、本工と極められた大磨上無銘の刀の一群と、稀な在銘の太刀とによって主に伝わる。
その手は明るく静かな初期粟田口の作域である。地鉄はよくつんだ小板目で、処々流れごころとなりあるいは大肌を交じえ、地沸厚くつき、最上手には頻りに地景が入る。説明書は鉄をいかにも明るいと評し、処々に淡く乱れ映りが立つとする。その地に対して焼くのは備前の華やかな丁子ではなく、直刃調の小乱れであって、浅くのたれ、小丁子・小互の目・互の目を交じえ、足入り、匂深く匂口明るく、沸よくつき、細かに砂流し・金筋がかかる。帽子は直ぐに小丸あるいは大丸となって返る。
この直刃調の刃中にあって、極めが取り立てて挙げる景色が一つある。物打辺に湯走りがかかって二重刃風の二重の線をなすところで、説明書が複数の大磨上の作に認める見どころである。これは抑えた見どころであって、総じて華やかならず静かな本工の性格にかなうものである。
説明書は国清を最も兄国安に近いものと読む。雲州松平家伝来の在銘の太刀について、その刃を「総じて国安に似ている」[[c:2]]とし、大磨上の刀の一口については、乱れの間のつまった処と匂口のうるみごころが「国安に一脈通じるものがあり」[[c:3]]とする。まさにこの国安への親近が、特色ある明るい粟田口の小板目地の上に置かれて、銘の失われた作の極めを支え、説明書はかかる作を「一見して鎌倉初期の粟田口物と鑑せられる出来である」[[c:4]]と首肯する。本工は一派後年の開花に先立つ初期粟田口本流に立ち、静かな直刃調の小乱れとうるみのある匂口とがその一家の手の印である。
収集の観点では、国清は稀な初期粟田口の名であり、藤代の格付けは最上作にあたる。国宝はなく、その記録は重要文化財一口(青山家伝来の在銘太刀)に、雲州松平家伝来の戦前の重要美術品在銘太刀、および重要刀剣・特別重要刀剣に及ぶ大磨上無銘の刀の一群を加え、指定を受けた作は併せて五口に過ぎない。特別重要刀剣の刀は播州姫路酒井家に伝わり、説明書はこれを出来優れた一口とし、「殊に刃中のひかり輝く沸は見事である」[[c:5]]と評する。所在の知れる作は福山美術館に蔵され、その来歴は大名家・皇室の旧蔵を通じる。記録に残る作が僅かでその多くが長く伝えられている以上、在銘の国清が世に出ることは稀であり、在銘の太刀にせよ極めの刀にせよ、私蔵の一口は初期山城を蒐める者にとって注目すべき出会いである。
國清の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
山城伝 · 山城
現在5点販売中
かねに潤いがあってよく冴える、という一語が、この一門の解説に幾度も立ち返る。よく約んだ小板目を極くつめて地沸を微塵に厚く均しく敷き、細かな地景を入れて沸映りを立てる手は、古来「梨子地肌」と称され、本流派の名を負う精錬の極みである。山城国粟田口、すなわち京都から近江へ通じる街道筋に居を構えた鍛冶の集まりであり、その地に鍛冶が住したことは鎌倉初頭の説話集『宇治拾遺物語』にも見える。祖は国家といい、その子に国友・久国・国安・国清・有国・国綱の六人兄弟があって、いずれも揃って名を成した。長兄国友をはじめ、久国・国安らは後鳥羽院の番鍛冶、すなわち院に月番で仕えた工に召され、活躍期は承久(一二一九〜二二)の頃にあたる。末弟国綱は後に北条氏の招きで鎌倉へ下向し、相州鍛冶草創の一人に数えられる。長兄国友の子則国を経て、左兵衛尉国吉、その子または弟子の藤四郎吉光へと、御番鍛冶の世代から短刀の名手の世代へと一門は続き、別流の新藤五国光は相州伝の事実上の創始者として行光・正宗・則重を育てた。 作域の核は、備前の華やかな丁子の対極にある、静かで抑えた直刃にある。よく約んだ小板目に地沸を厚くつけた精美な地の上へ、小沸出来の細直刃ないし直刃調の小乱れを匂深く焼き、小互の目・小丁子・小足・葉を交え、金筋・砂流しを細かにかける。匂口は締りごころに明るく冴え、帽子は穏やかな小丸に返り、しばしば掃きかけを伴う。表裏には護摩箸・素剣・梵字を彫り、その護摩箸は間隔狭く棟に寄せて彫るのが一門共通の手癖である。同じ作風の中にも工ごとの標識が宿る。久国は兄弟の中で最も沸が強く、国友・国安は匂口がうるみ、国安は連れごころの小互の目に押し詰まった小乱れを守って一派の乱れの手を担い、則国は国吉・吉光に通じつつ比較的沸が強い。国吉・吉光に至って刃は明るい直刃へ傾き、二重刃や帽子下の沸の喰下がりがその手癖となる。来時代へ下るにつれ穏雅な細直刃の比重が増す一方、国綱のみは板目が肌立って刃沸の目立つ剛壮な異風を見せ、来たるべき相模の力強い作風へ傾く。 鑑定の拠りどころは明快である。梨子地状の精美な小板目地、潤って冴えるかね、締まって明るい直刃調の刃に細かくかかる金筋・砂流し、これらが揃えば初期粟田口と鑑せられる。各工は解説中の物差しによって分かたれる。久国は格調の高さで、国安は安の字の崩しと連れごころの小互の目で、国清は兄国安への親近で、則国は子国吉に近い国の字で読まれる。そして一門を貫く対比は来派との別である。粟田口の地刃の沸は来物より一段と厚く強く感じられ、寸法の割に身幅狭く重ね厚い造込みは来にまず見ない。位置づけの頂点には、相模国の新藤五国光と並ぶ短刀の名人吉光が立ち、江戸期には正宗・江と共に天下三作の筆頭に挙げられた。流暢な二字銘そのものが鑑識の対象である。代表作の重みは伝来に表れ、名物鬼丸国綱は天下五剣の一つとして皇室に納まり、一期一振藤四郎は太閤秀吉の蔵刀、陸奥新藤五は奥州伊達家重代として伝わる。山城の精錬な沸の直刃は来の名工が汲んだ源であり、ひいては新藤五国光から相州伝へと展開する源流でもあって、本流派は日本刀の地鉄の最高峰を示すとともに、後世の二大潮流の発端に立つ。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお求めになられた商品とは異なる商品をお届けしてしまった場合や、表記内容と現物とに大きな隔たりなどがあった場合を除き、基本的に返品はお受けいたしません。返品をご要望の場合は、商品到着後3日以内に御連絡の上ご返送下さい。