政権は鎌倉にあったが、美意識はなお京都が定めた。粟田口派の梨子地肌は完璧の代名詞となり、来派は公家にも上級の武家にも大寺にも、堂々たる太刀を納めている。
Ordering Number: AS26424Wakizashi: in Shirasaya (NBTHK Tokubetsu Hozon Token) (Kantei Kozuka Paper)Signature: Kunitoki 國時 (Enju school, 延寿)Gentoku 4 Nen ■(illegible) Gatsu Hi (1332)Sayagaki: Written by Dr. KanzanEnju Kunitoki – Inscription with the Gentoku era name present.Blade length: 1 shaku 1 sun 1 bu (33.6 cm / 13.23 in)A fortunate day in early spring, Showa Hinoto-Mi year (1977)Written by Kansan (with Kaō)Ōwazamono: Chuko-to: Jyo Saku: HigoWe divide 4 sections for each sword as Saijyo Saku, Jyojyo Saku, Jyo Saku and Regular Saku.This sword is ranked as Jyojyo Saku for the smith Enju Kunitoki.Habaki: Gold foil single-layeredBlade Length: 33.4 cm (13.15 in)Curvature: NoneMekugi Hole: 1Width at Base (Motohaba): 2.78 cm (1.09 in)Thickness of rim (Kasane): 0.56 cm (0.22 in)Sword Weight: 220gEra: the end of Kamakura period 1332Shape: slighly wide Sunnobi-Tanto. (long Tanto)Jigane: Itame and Mokume with intense grain pattern with Jinie and intense Utsuri.Hamon: Nioi-deki Suguha and Notare with thick Nioikuchi.Features: The Higo Province Enju school traces its origins to Tarō Kunimura, who is traditionally said to have been a grandson of Rai Kuniyuki of Yamashiro.From the late Kamakura period through the Nanbokuchō period, the school flourished greatly in Higo Province.The workmanship of the Enju school generally resembles that of the Yamashiro Rai tradition; however, it is characterized by the appearance of whitish utsuri, and Hamon to appear slightly subdued.Aoi Art’s Comment: This piece is an extremely rare example, featuring a single mekugi-ana and retaining signature and dates.Historical Background:Longer tantō such as this piece were commonly produced in the Nanbokuchō period.From the mid-Nanbokuchō period onward, there is a tendency for the blade width to become even broader.This work was made in Gentoku 4 (1332), a time of intense conflict between the Kamakura shogunate and Emperor Go-Daigo, and in the following year, 1333, the Kamakura shogunate fell.NBTHK To







延寿 · 肥後 · 1317-1353頃
刀剣大鑑 上位26%
国時は肥後延寿派を代表する上手で、延寿は山城の来の作風を九州に移した一派である。説明書は同派の祖を太郎国村とし、通説に山城来国行の外孫(娘を通じての孫)と伝え、国時を一門を代表する著名工の一人として、国村の子とも弟子とも記す。作は鎌倉時代末葉から南北朝期、肥後菊池郡隈府の地に亘り、年紀ある遺例は南朝年号を有し、正平七年(一三五二)銘の太刀があって、晩年の手を十四世紀半ばに置く。一派は際立った個性が少なく概ね来に類似するため、延寿の作はほぼ一様の手として読める。その中で国時が際立つ理由は二つある。説明書は「比較的現存するものが多く、作柄の平均点も高い」[[c:1]]とし、且つその手は一門の抑えた直刃を誰よりも賑やかに働かせた。
その特色は、尋常に留まらぬ中直刃・細直刃である。説明書が「一派の多くは働きに乏しい直刃を焼いている」[[c:7]]と記すのに対し、国時は直刃を小互の目で連れて崩し、時に小丁子・尖りごころの刃を交え、小足・葉よく入り、刃縁に小沸つき、細かに砂流し・金筋がかかる。佳作では、来に比して幾分沈みごころの匂口が明るく冴える。一派の性が逆へ引くがゆえに、賑やかな一口はかえって例外として映る。ある太刀を説明書は「国時のみならず延寿物としても珍しい乱れ主調の焼刃」[[c:2]]と評し、二重刃・金筋強く帽子が乱れて盛んに掃きかける磨上の刀を「同工のみならず同派の中でも最も働きのある刃取り」[[c:3]]と記す。一口が珍しいとも最も働くとも評されるのは、一派が常々いかに静かに、国時がそれをいかに押し広げたかの証である。
鍛えは一派の遺産をよく示す。板目あるいはつんだ小板目に、総体に流れて刃寄りに柾ごころを帯び、地沸微塵によくつき地景細かに入り、一派の白け映りが地に立つ。この白け映りは説明書が延寿を来から分かつ第一点に挙げるもので、来の京の精良を保ちつつ流れた九州鉄を帯びた地鉄の上に立つ。帽子は多く直ぐに小丸へ結び、先に掃きかけを伴い、時に丸味大きく浅い大丸風に返る。銘は在銘の場合大振りの二字銘で、説明書は一つの書風を繰り返し挙げる。すなわち「国」の字のクニ構えの中右半分を耳形にきるのが、他派にまぎれぬ一門共通の見どころである。
遺例は二様に分かれる。第一は在銘の生ぶで、腰反り深く踏張りある長寸の太刀と、身幅広く寸延びごころで重ね厚い平造の短刀があり、茎先近くに大振りの二字銘を切る。鏨が常より太く力強いものもある。太刀は棒樋を伴い、短刀は刀樋・腰樋を掻く。年紀のある晩年作は「菊池住国時」と延元・正平の年紀を添えた長銘を切り、説明書はこの長銘を時代の下った同名作に当てる。第二は大磨上無銘の刀で、延寿国時と極められ後世の鑑定銘を伴うものが多い。輪反りや京風が一見来を想わせるが、地の流れ・白け映り・沈む匂口より延寿と看取し、総体の作位の高さより国時に絞られる。本阿弥光遜の金象嵌銘・金粉銘で同工を極め、その名と花押を金にきった一口がある。
国時の位置は両隣に照らして最もよく読める。母体の来に対し相違は定まる。説明書は柾ごころ・白け映り・幾分沈みごころの匂口を延寿が山城来派から分かれる点とし、一派を来に比して地刃やや弱しとする。されどその近しさは深く、屈指の短刀の一口を説明書は「来国光に比肩する出来映え」[[c:5]]と評し、延寿の見どころは熟覧して初めて窺える。祖国村に対する相違は国時独自のもので、その直刃は祖の尋常な直刃より遥かに自在に小互の目・小乱れに崩れ、帽子は祖の大丸より直ぐに小丸へ多く結ぶ。一門に個性が少ないがゆえに国時はその代表工かつ最も遺例の多い工とされ、逆に尋常な来の直刃は一見延寿に紛れる。延寿の工は南朝に忠なる菊池氏に属し、年紀ある作はその歴史を南朝年号に刻む。
国時の声望は厚い指定の記録に伴う。特別重要刀剣・重要刀剣の級に三十口、うち特別重要六口を数え、さらに重要文化財に一口を戴き、『刀工大鑑』にも高い評価を得る。延寿一門の中でも公の記録に最も多く名を遺す工の一人である。その作に録された来歴は幕末の高家に及ぶ。水戸徳川家伝来の太刀、紀州徳川家伝来の太刀、湊川神社蔵の短刀があり、また閑院宮家を経て、幕末の和宮、すなわち「静寛院宮の遺物」として著名な短刀がある。一口は重要文化財の級に永く封ぜられて取引されることはない。残りは、一派の静かな直刃と国時の遺例の比較的多きゆえ、その特別重要・重要の作が篤志の蒐集家の眼前に時に現れる。最も稀な鎌倉の大家よりは見出しやすいが、市販の在庫ではなく指定された文化財としてである。在銘生ぶの太刀や身幅広き在銘の短刀は、市に現れれば一個の画期であり、録された伝来の多くは蔵せられて取引されることはない。
國時の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
山城伝 · 肥後
現在15点販売中
肥後国菊池郡隈府の地に興った延寿派は、京の来の作風を九州へ移した一門である。その祖を太郎国村とし、通説に大和千手院派の弘村の子で来国行の娘聟となり、その外孫として来の工房に学んだと伝える。延寿の名はその来の一字に通うとされ、一門の出自を山城の血脈に結ぶ。国村のまわりには国時・国泰・国資・国吉・国信・国友・国綱らの上手がほぼ時を同じくして輩出し、鎌倉時代末葉から南北朝期にかけて菊池郡の地に大いに繁栄した。延寿の工は南朝に忠なる菊池氏に属し、年紀ある作には正平・延元など南朝の年号を刻むものがあって、一門の活動とその歴史を地に結びつけている。 延寿の作は概ね来派に類似し、各工に際立った個性が少ないため、一門は個々の手よりも一団として読まれる。その共通の語法は地鉄に最もよく現れる。鍛えは小板目がよくつんで詰み、杢を交え刃寄りに流れて柾ごころを帯び、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。その上に立つのが一門第一の見どころたる白け映りで、明るく冴える来の地鉄とは異なる、冷たく霞んだ映りである。刃文は中直刃あるいは細直刃を本体とし、小互の目・小足を交え、しばしば二重刃を見せ、匂口は幾分沈みごころとなって穏やかに焼く。帽子は来が小丸に締めて返るのに対し、先の丸味がやや大きい大丸となって返り浅く、先に掃きかけるものが多い。これらの柾ごころ・白け映り・沈みごころの匂口・穏やかな刃中の働き・丸味の大きい大丸帽子が、来に似てやや異なる延寿の見どころであり、真の来から一門を分かつ要となる。本間は延寿を「来に似てやや異なる」[[c:2]]とし、その直刃の刃中の働きを来一派の直刃よりも淋しいと記す。その淋しく冷えた趣こそ一派の眼目である。 延寿の鑑定の勘所は、なべてこの来との別にある。輪反りや京風が一見来を想わせても、地の流れ・白け映り・沈む匂口より延寿と看取し、来に比して地刃やや弱しとされる。一門に個性が少ないがゆえに、主要工はその一様の中から程度の差によって絞られる。祖国村は細身で元先の幅差が顕著、反り高く小鋒に結ぶ独特の姿態をもって無銘の延寿を己に引き寄せる。国時は遺例が比較的多く作柄の平均点も高い代表工で、一門の抑えた直刃を誰よりも賑やかに働かせる。国泰は地刃の沸が一門の中で最も強くつき、佳作は明るく冴える。国資は刃中の働きが最も豊かで、寸延びの作に火焰風の帽子という一門に類のない働きを示す。国吉は地刃の冴えにおいて延寿の弱点を脱した垢抜けた手を遺し、国信は遺例こそ少ないが刃に沿う二重刃を殊に鮮明に見せる。これらの諸工はいずれも国の字を冠し、その「国」構の右半を耳形に切る銘振りを共有して他派にまぎれず、藤代に上々作以上の格を得る。伝来も地方工としては厚く、来歴の確かな作が黒田家・徳川家・伊達家・上杉家・細川家などの旧家を経、林原美術館・出光美術館・徳川美術館・佐野美術館をはじめとする機関に蔵される。在銘生ぶの太刀や身幅広い在銘の短刀は遺るものが少なく、多くは大磨上無銘の極めとして伝わるため、肥後の山城風を手に取りうる機会はおのずから限られている。 詳しく見る →
鎌倉時代の山城
政権は鎌倉にあったが、美意識はなお京都が定めた。粟田口派の梨子地肌は完璧の代名詞となり、来派は公家にも上級の武家にも大寺にも、堂々たる太刀を納めている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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