南北朝の戦乱は、山城の精緻を支えた公家社会を疲弊させた。来派最後の巨匠たちをもって古典の系譜は閉じ、長谷部と信国が新しい相州風を都に持ち込んでいる。





































Nobukuni (Yamashiro, Ryōkai lineage) · 山城 · 1383-1392頃
刀剣大鑑 上位14%
現在1点販売中
南北朝末期の信国は、本会自身の代数で山城信国の二代にあたり、その年紀作は永徳・至徳・明徳に及ぶ。説明書は一派をこう整理する。延文・貞治の初代は了戒系の京鍛冶で、「相州貞宗にも学んだと伝えている」[[c:1]]。その後、南北朝末期に「代替りの信国」があり、室町初期に左衛門尉・式部丞の応永信国が続く。「銘鑑」の建武の祖は、その年紀の作が残らないため退けられる。本群の無銘数口も、まさにこの位置、すなわち「南北朝中期の初代と応永信国との間に位置する信国」[[c:3]]と極められている。
作域は三様である。二様は初代から受け継ぐ。第一は小沸出来の品のよい直刃で、匂口締まりごころに冴え、細かなほつれと淡い二重刃を交え、短刀・小脇指・剣によく見える。至徳二年紀の短刀について説明書は、典雅な直刃出来で「先祖の来の風をよく継承した」[[c:4]]ものとし、明徳元年紀の太刀も同様に読む。第二は、本群で最も多く出会う、互の目を交えた小のたれで、沸を厚く敷き、砂流し・金筋・目立つ湯走りを交える。説明書はこの二様を、京物の伝統を示す直刃と貞宗風を受け継ぐのたれとして併せて名指す。
第三の作域は本工自身のもので、この代に数を増す太刀とともに現れる。小のたれ・尖り刃・丁子風の頭を交えた賑やかな互の目調の乱れで、その見どころは繰り返し名指される。すなわち「互の目が二箇宛連れたものを腰の低い小のたれの刃で繋ぐ」[[c:5]]もので、矢筈状の態をなす。永徳年紀の太刀は、互の目が二つ並ぶ特色ある刃文を見せ、「この時期の信国の特色をよく示した作」[[c:6]]とされる。最も動勢に富む作では棟焼・飛焼・湯走りを交え、帽子は乱れ込みに掃きかける。
いずれの刃にも、地鉄は肌立ち柾に流れる板目で、地沸厚く地景頻りに入り、一派が受け継ぐ相州伝の痕を宿す。彫物もこれに伴い、梵字・倶利迦羅・素剣・護摩箸、八幡大菩薩の神号が本群に繰り返され、説明書はこれを「御家芸とも言うべき彫物は流石に上手」[[c:7]]と評する。銘にもこの代の小さな癖があり、年紀を作者銘よりずっと下に切る。説明書はこれを「年紀を下の方に切るのは此の期の信国の手癖のようである」[[c:8]]と記す。
説明書は本工を前後いずれとも区別する。初代に対しては、初代の在銘作が短刀・小脇指に限られるため、年紀ある南北朝末期の太刀・薙刀が好資料として貴ばれる。応永信国に対しては、南北朝末期の手が乱れをより草書風に崩すとし、これを両代を分かつ拠りどころとする。名が共有されたことにも率直で、「南北朝時代にも同銘数工あったと見られる」[[c:9]]とし、明徳三年紀の太刀には、同年の二字銘信国とは別人の源左衛門尉信国銘のものがある。
その記録は特別重要刀剣二口、重要刀剣二十九口、両級を併せて三十一口で、戦前の重要美術品を含み、数口に本阿弥光忠の折紙が附く。国宝・重要文化財はない。所在の知れるかぎり、短刀一口がベルリンのサムライ美術館に蔵され、来歴には久松松平家、太田家、一口には皇室が記録される。指定の文化財として封じられた作はなく、在銘の作は時に私蔵へ渡るが、それは稀であり、年紀ある彫物の太刀が南北朝末期の信国の手で世に出るとき、それは一つの画期である。
信國の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
山城伝 · 山城
現在33点販売中
信国派は山城国京都に興った名門で、その流れは南北朝時代に遡る。一派の祖と仰がれる信国は了戒系の京鍛冶で、血脈の上では来の伝統を承けながら、修業の上では相州貞宗の門に入って貞宗三哲の一人に数えられた。来の系譜と相州伝という二つの根がこの一門の作のすべてを導く。銘鑑は祖を建武に置くが、説明書はこれを繰り返し退ける。建武年間の作は残らず、現存最古の延文・貞治の年紀作が貞宗に直結することから、本会は延文・貞治の工をもって初代と見做す。南北朝の末期には永徳・至徳・明徳の代替りの信国が続き、同銘数工があったと見られる。室町初期には左衛門尉・式部丞を冠する応永信国が栄え、これを通常三代と数える。一派は後に豊前へ、さらに筑前へ移り、慶長の頃より明治初年まで福岡藩黒田家の抱え鍛冶として吉貞・吉政・吉次・吉包・重包の代々を出し、新々刀期まで栄えた。 一派に通う語法は、まず地鉄に現れる。鍛えは杢を交えた板目で、刃寄りに流れて柾となりやや肌立ち、地沸を厚くとり地景が頻りに入り、よくつんだ作には淡い沸映りが立つ。刃寄りに流れる鍛えは了戒系の所伝を首肯せしめる証とされ、厚い地沸と頻りの地景は貞宗に学んだ相州伝の痕跡として読まれる。刃文は文様の如何を問わず沸で焼かれ、砂流し・金筋が絶えず働き、匂口は明るい。その作域は二様を基とする。一つは来派の伝統を示した直刃で、中直刃・細直刃に小沸つき、細かにほつれ喰違刃・二重刃ごころを交えて京物の格調を伝える。いま一つは貞宗風ののたれ乱れで、小のたれに互の目・小互の目を交え、足・葉入り、沸厚く明るく、刃縁にほつれ湯走りがかかり、最も多く出会う作域をなす。帽子はのたれ込みまたは乱れ込んで小丸となり掃きかける。御家芸とも言うべき濃密な彫物も貞宗譲りで、梵字・素剣・護摩箸・三鈷剣・倶利迦羅を重ね彫りにし、刀身に八幡大菩薩の神号を切る作もあって、彫物によって一門を見分けうる。代を下ると差異が明瞭となる。南北朝末期の後代は一派に初めて太刀を生み、二様に加えて互の目主調の乱れ刃を新たに見せ、互の目が二つ宛連れたものを腰の低い小のたれで繋ぐ矢筈状の刃を見どころとする。応永信国は左衛門尉が「国」の字のクニ構えの中を左字に作る点を大きな鑑別点とし、直刃と互の目乱れの双方に冴えた沸を宿す。筑前に移った吉包・重包は相州伝の志向と、流れ肌の乱れ映りを伴う一派の丁子乱れとを高い技倆で並べ持ち、重包は名物写しの名手として石堂風に紛う華やかな丁子を、地沸・地景・刃中の沸の顕著さによって石堂と分かった。 鑑定の勘所は明快である。刃寄りに流れる柾がかった肌、厚い地沸と頻りの地景、沸で焼いた直刃と貞宗風ののたれ乱れ、重ね彫りの宗教彫物が一門を束ね、相州の同門とも後世の備前丁子とも分かつ拠りどころとなる。無銘極めも代の弁別も延文三年紀の作との照合によって決せられ、後代は連れ互の目と矢筈刃で、応永信国は逆字の銘で、筑前の工は流れ肌の乱れ映りで読み分けられる。藤代の極めは初代信国を上々作とし、後代から応永信国まで京古刀の上位に列し、筑前の吉包・重包は地方新刀の堅実な工として上作の評を得る。在銘作は祖において短刀・小脇指に限られて稀であり、それゆえ年紀のある後代の太刀・薙刀は何よりの好資料として貴ばれる。伝来は大名家と社寺に厚く、黒田家・浅野家・山内家・佐竹家らの蔵刀に加え、本願寺名物や富士山本宮浅間大社に奉納された式部丞の脇指がある。上位指定の多くは公私の蔵に秘められて市に現れず、在銘の信国が世に出ること自体が稀であって、現れた時は南北朝以来の山城物の蒐集で特筆すべき機会となる。 詳しく見る →
南北朝時代の山城
南北朝の戦乱は、山城の精緻を支えた公家社会を疲弊させた。来派最後の巨匠たちをもって古典の系譜は閉じ、長谷部と信国が新しい相州風を都に持ち込んでいる。
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