天下統一は大量の市場を閉じ、関の鍛冶は新しい富の在り処へ移った。三品の一門は受領名を得て京に、大道系は諸国の城下町に。美濃は新刀時代の最大の祖先となった。
飛騨守氏房作(尾張三作・上作) 日本美術刀剣保存協会 特別保存刀剣 流派:尾張 時代:江戸時代初期(慶長頃:1596-1615年) 鑑定:日本美術刀剣保存協会(NBTHK)特別保存刀剣 銘:飛騨守氏房作 刀工大鑑評価:500万円 藤代氏評価:上作 種別:短刀 長さ:28.5 cm(九寸四分) 姿:平造り 反り:僅かに内反り 棟:庵棟 重ね:5 mm 元幅:2.8 cm 茎の状態:生茎 茎形状:標準、栗尻 目釘穴:二個(一個埋め) 鑢目:筋違 刃文:小沸出来の直刃、明るく冴えた匂口が均一に広がる 帽子:僅かにのたれ込み、中丸に返る 鍛え:板目肌に地沸つく 彫物:護摩箸、腰樋 【解説】 尾張三作の一人に数えられる名工、飛騨守氏房による大振りの優美な短刀です。 氏は若狭守氏房の嫡男として生まれ、相模守政常、伯耆守信高と共に「尾張三作」と称される名声を確立しました。 飛騨守氏房は永禄10年(1567年)に生まれ、天正5年(1577年)には織田信長の三男・信孝の小姓として仕えました。天正11年(1583年)に信孝が自害した後は浪人となりましたが、父である若狭守氏房に師事して作刀の道を歩みます。父の没後は初代信高の門下で学び、文禄元年(1592年)に飛騨守を受領しました。 慶長15年(1610年)の名古屋城完成に伴い同地へ移住し、寛永8年(1631年)に隠居するまで尾張鍛冶の重鎮として活躍しました。藤代氏の評価では「上作」、刀工大鑑では「500万円」の評価を受け、山田浅右衛門による「業物」にも列せられる実力派です。 本作は研磨状態も極めて良好で、疵欠点はありません。表裏に施された護摩箸と腰樋の彫りも実に見事です。尾張三作の一人、飛騨守氏房の在銘上作短刀。金箔押二重表徳利、白鞘入り。特別保存刀剣鑑定書が付属いたします。
Certificate reading — 銘 飛騨守氏房作











Owari-Seki (Mino-derived Owari shinto; retained by the Owari Tokugawa) · 尾張 · 1596-1615頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位26%
現在5点販売中
飛騨守藤原氏房は若狭守氏房の子として濃州関に生まれ、初め河村伊勢千代、後に平十郎と称した。説明書の多くは永禄十年の生まれとし、一書は天文十年とする。説明書はその経歴を丹念に追う。織田信孝の側小姓に仕え、主君の死後は浪人となり、尾州の佐久間正勝の幕下を経て清洲に移り、天正十七年頃より作刀を始めた。天正十九年、関白秀次が清洲の領主となると、氏房・政常・信高の三名は聚楽第で謁見を許されて各自の作刀を献上し、氏房は飛騨守を賜わった。慶長十五、六年頃に名古屋へ移って徳川義直の抱工となり、寛永八年に備前守氏房へ家督を譲って同年六十五歳で没した。同名は三代あって、初代は飛騨守、二代は備前守、三代は同じく飛騨守を受領し、本コードはその初代である。
本領は大らかなのたれである。身幅広く反り浅く大鋒の、説明書が「慶長新刀の典型的姿」[[c:1]]と呼ぶ刀に、大のたれを主調として互の目・小のたれを交え、足・葉入り、小沸よくつき、処々むら沸・湯走りを交える。同じ大らかな手は薙刀にも、寸延びの平造脇指にも及ぶ。説明書はその脇指の一口を「同工の本領を遺憾なく発揮した」[[c:2]]作とし、慶長十一年紀の刀でも、互の目交じりの大らかなのたれを典型作と見る。
この大らかな作の地鉄は多く肌立ちごころで、板目に時に大板目あるいはザングリとした地を見せ、杢を交え、鎬地は柾に流れ、地沸つく。しかし最上の刀は鍛えを異にする。そのうち二口は小板目肌よくつんで地沸つき、その上に小乱れあるいは小のたれに互の目・尖り刃を交える。説明書は一口を同作中の白眉とし、美濃本国の「志津風を最もよく現わしている」[[c:3]]と評し、他の一口も同作中の優品で美濃の志津風をよく現わすとする。帽子は焼深く、のたれ込んで小丸あるいは大丸となり、長く返って掃きかける。短刀その他数口では突き上げて先尖り、三品風の帽子となる。
一つの手の中に、説明書はさらに二つの面を引き出す。第一は最も多い作で、身幅広く反り浅く大鋒の、南北朝期の大磨上を思わせる姿であるが、説明書は先反りとなる点に慶長作の証を見る。その中には一見村正などの作に見えるものもあるとする。第二は稀な作で、説明書は二度にわたり同工としては珍しいとする。中直刃を基調に小互の目交じり、小足盛んに入り、ほつれ、刃中の働き豊富で、鍛えよく錬れ、帽子は焼深く尖る。説明書はこれに相州上工、就中郷や左文字への私淑を読み、「相州上工に私淑したような古色の趣」[[c:4]]を感じるとする。慶長七年紀の短刀は三品帽子風に一見越前康継を思わせるが、のたれの大模様で沸の強くむらにつく点に氏房の特色が窺われるとされる。
本工を分かつのは、判者が繰り返し立ち返る組み合わせである。出自は関の工であり、肌立ち流れて鎬地に柾の出る地鉄、三品風の尖る帽子、最上の刀に見る志津風は、いずれもその美濃の根を示す。一方、身幅広く力強い慶長新刀の姿、深い沸、直刃の作に見る相州への志向は、徳川に仕えた尾張の工を示す。彫物は刀の棒樋・薙刀の薙刀樋のほかは少なく、ある寸延びの平造の一口に文字と達磨の浮彫を彫るものを説明書は珍しいとする。
収集の上では、伝説の稀品というよりも記録のよく残る初代である。藤代は上作とする。国宝・重要文化財はなく、記録は重要刀剣の格を通じ、十六口が指定され、すべて在銘で、初代の刀・脇指・短刀・薙刀を含む。数口に慶長の年紀があり、説明書はこれを「飛騨守氏房研究の好資料」[[c:5]]とし、「藤原朝臣」銘は少ないと記す。伝来の記録は乏しく、個人の所蔵と言うほかない。長銘を大振りに切った初代の在銘の氏房は折に触れて市場に現れ、年紀入りの一口は尾張新刀を学ぶ者が最も出会いを望む作である。
氏房の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
美濃伝 · 尾張
現在15点販売中
氏房は尾張国に興った一門で、その作は桃山末から江戸初期、いわゆる新古境いの時代に位置づけられる。説示は若狭守氏房・飛騨守氏房を本流の手本として繰り返し挙げ、これに連なる工として、若狭守氏房の次男と伝える越後守氏恒、初代氏房の子と伝える出雲守氏貞らを記す。氏恒は河村平十郎、初銘を氏重とし、元和六年に越後守を受領、明暦二年に尾州名古屋にて歿したと美濃刀大鑑が伝える。氏貞は出雲守を受領し、左近少将あるいは権少将と銘した。一門は美濃を根として尾張に移り、徳川・尾張の地で代々その作風を継いだ。 作風は美濃伝を基調とする。鍛えは板目がつみ、杢や流れ肌を交え、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。刃文は直ぐの焼出しごころを見せたうえ、下半は浅いのたれを基調に小互の目を連れて交え、上半は小のたれに大互の目や尖りごころの互の目を交える。のたれが角がかり、小足・葉が入り、沸がつき、処々荒めの沸を交えてむらづき、金筋・砂流しがかかり、随処に飛焼・棟焼を交えて匂口が幾分沈みごころとなる。帽子は焼深く、三品風に先が尖り、あるいは一枚風となって長く焼き下げ、掃きかける。短刀には平造に草の倶利迦羅や護摩箸に蓮台の彫物を加えるものがあり、師伝をよく踏襲する。大きくのたれた刃に大乱れを焼き、飛焼を交えて皆焼風となる一類もある。見分けは、のたれの角がかりと沸のむらづき、匂口の沈みごころ、そして三品風に先の尖る帽子に求められる。 伝来し指定された作には、越後守氏恒の幅広・大鋒で重ね厚く長寸の豪壮な刀、左近権少将氏貞の天正五年紀を切る彫物入りの短刀、氏貞の皆焼風を示す刀などがある。鑑定の要点は、若狭守及び飛騨守氏房の作柄を髣髴とさせる地刃の総体にあり、肉置き豊かな体配と大模様の刃文が相俟って迫力ある一作風を成す。寡作の工にあっても抜群の出来を示し、長大な姿にして破綻のないところに、この一門の力量がうかがわれる。 詳しく見る →
桃山時代の美濃
天下統一は大量の市場を閉じ、関の鍛冶は新しい富の在り処へ移った。三品の一門は受領名を得て京に、大道系は諸国の城下町に。美濃は新刀時代の最大の祖先となった。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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