飛騨守藤原氏房は若狭守氏房の子として永禄十年に濃州の関に生まれ、初め河村伊勢千代、後に平十郎と称した。説明書はその経歴を丹念に追う。織田信孝の側小姓に仕え、主君の死後は浪人となり、尾州蟹江城主佐久間正勝の幕下を経て清洲に移り、天正十七年頃より刀匠として活動を始めた。天正十九年、関白豊臣秀次が清洲の領主となると、氏房・政常・信高の三名は聚楽第で謁見を許されて各自の作刀を献上し、氏房は飛騨守を賜わった。この三名は後世、徳川の下に尾張新刀を興した尾張三作に数えられる。慶長十五・六年頃に名古屋へ移って徳川義直の抱工として仕え、寛永八年に備前守氏房へ家督を譲って同年六十五歳で歿した。同名は三代あって初代は飛騨守、二代は備前守、三代は再び飛騨守を受領するが、一派の名声を担うのはその初代、すなわち祖である。
その典型は大らかなのたれで、説明書が得意・本領とする焼である。身幅広く反り浅く大鋒の、いわゆる慶長新刀の典型的姿の刀に、大のたれを主調として互の目・小のたれを交え、足・葉入り、小沸よくつき、処々むら沸・湯走りが刃の調子を破る。同じ大らかな手は薙刀にも通い、寸延びの平造脇指では箱がかったのたれに広がる。あるその脇指を説明書は「同工の本領を遺憾なく発揮した」刃と評する。慶長十一年紀の刀でも、同じ開いたのたれに互の目を交えた刃を、氏房の特色をよくしめした典型作と呼ぶ。
その焼を支える地鉄は肌立った地である。肌立ちごころの板目、時に大板目あるいはザングリとした地に杢を交え、鎬地は柾に流れて地沸がつく。それは彼の出た美濃関の地鉄であり、最上の在銘刀において説明書はそこに志津風を読み、ある一刀をその「同作中の白眉」とし、「志津風を最もよく現わしている」作とする。この地の上の帽子は焼深く、のたれ込んで小丸あるいは大丸となり、長く返って掃きかけるが、短刀や数口では突き上げて先尖る美濃三品の手となる。刀は棒樋を掻通し、薙刀は薙刀樋に添樋を彫る一方、説明書が珍しいとする文字や浮彫の彫物は平造の脇指にのみあらわれる。
この一人の手のうちに、説明書はさらに二つの面を引き出す。第一は最も多い、身幅広く反り浅く大鋒の、南北朝期の大磨上を思わせる姿であるが、それを慶長作と定めるのは先反りであると判者は注意し、就中あるものは一見村正の作に見えるとする。第二は稀で、説明書が二度この工には珍しいとする、微塵の地沸の地にほつれ・二重刃・細かな金筋を働かせた明るい中直刃で、帽子は焼深く先尖る。この直刃の刀に判者は相州上工郷・左文字への私淑を読み、鍛えがよく錬れて「相州上工に私淑したような古色の趣」があるとする。慶長七年の短刀は三品帽子が一見越前康継を思わせるが、のたれの調子が大模様で沸が強くむらにつくところに氏房自身の特色があらわれる。
彼を際立たせるのは、判者が繰り返し挙げる取り合わせである。出自は関の工で、肌立って柾流れの地鉄、突き上げて先尖る三品帽子、大らかなのたれはいずれもその美濃の根を負う。だが身幅広く力強い慶長新刀の姿、深い沸、直刃に見せる相州への志は、地方の関の手というより徳川に仕えた尾張の上工を示す。大らかに開いたのたれは緊まった美濃の互の目と分かれ、明るく沸深い直刃は同輩の平明な直刃と分かれる。氏房・政常・信高が共に聚楽第に謁見を許され尾張三作として記憶されることは、彼を古き伝統の末ではなく新たな伝統の興りに置く。
収集の観点では、彼は伝説の稀少品というより、よく記録された一派の祖である。藤代の極めは上々作。国宝も重要文化財もなく、その記録は重要刀剣の級を通じ、そこに初代の在銘の、しばしば年紀のある刀・脇指・短刀・薙刀が相応に残り、その内には説明書が貴重とする慶長年紀のものが少なくなく、これらを「飛騨守氏房研究の好資料」と称える。「藤原朝臣」を冠し年紀のある刀は珍しいため、年紀作こそ最も学ぶところの多い作とされる。その作の来歴はあまり記録されず、私蔵と述べるにとどまるが、身幅広く豪壮で、長銘を太く明瞭に切った在銘の初代氏房は時に世に出ることがあり、年紀のある一口は尾張新刀を学ぶ者が最も会いたいと願う作である。