新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。


Echizen (Fukui), the Horikawa-derived line: the second-generation Yamashiro-no-kami Kunikiyo (Shinbei) and the successors of the name · 越前 · 1624-1682頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位49%
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菊紋の下に「一」の字を添え、天和二年八月日の年紀を切った短刀は、二代山城守国清を定める拠り所である。説明はこれを「この短刀は二代国清の作で地刃が冴えて出来がよく、天和二年紀も貴重である」[[c:1]]と記す。二代は「新兵衛と称し、初代の次男である」[[c:2]]。初代は信州の人で堀川国広の門に学び、松平家に仕えて越前福井に移り、寛永四年に山城大掾、翌年に山城守を受領し菊花紋を許された。同名数代について説明は「中でも初代が最も技量が高く、次いで二代が達者である」[[c:3]]と序列を明言する。
明確に二代の作とされるもう一口は幅広の平造脇指で、説明は「山城守国清二代の作」[[c:4]]とし、同作並にこの一門にこうした幅広の平造脇指は少ないとする。小板目に地沸つく鍛えに大互の目を焼いて大きく出入りを見せ、僅かに飛焼交じり、足よく入り、砂流しかかり、匂深く沸よくつく。説明は「地刃の出来が極めて見事であり」[[c:5]]、彫物も珍しく立派で、誰の手になるかは不明ながら「当時の越前彫の典型の一口である」[[c:6]]と評する。袈裟落の金象嵌がある。
菊紋の下に「一」を切る刀三口も二代に寄せて読まれる。説明は初代作に「一」の字を用いたものはなく二代以降の作に切るとし、そのうち二口については天和二年紀の短刀と銘字が相似することから「或は二代作とも思われる」[[c:7]]とする。但し国清の代別、就中初・二代を明確に区分することは「現時点では難しく」[[c:8]]、今後の研究に俟つと慎重である。
これらの刀は説明が「国清の最も得意とした直刃の作域」[[c:9]]と呼ぶ直刃を負う。中直刃が処々浅くのたれごころをおび、小足入り、匂深く小沸厚くつき、処々少しくほつれて小さな湯走りを交え、細かに金筋・砂流しがかかり、匂口が沈みごころとなる。帽子は直ぐに小丸、掃きかける。鍛えは板目に杢あるいは小板目を交えて細かに肌立ち、地沸微塵に厚くつき地景細かに入り、かねが黒みをおびて、説明は「北国がねの特色がよく表示されており」[[c:10]]しかも精良であるとする。
乱れ刃も焼く。「一」を切る刀の一口は小互の目・互の目・尖り互の目を焼いて焼刃の出入り激しく、匂深く小沸厚くつき処々叢沸となり、金筋・砂流しがかかって匂口が沈みごころとなる。説明は「国清は最も得意とした作域が直刃であるものの、本作のような乱れ刃の作風もある」[[c:11]]と記す。
二代の指定作は在銘生ぶ茎の重要刀剣数口で、説明は明確に二代とする二口と、天和二年紀の短刀に照らした菊紋下の「一」の字によって彼を位置づける。作風も銘振りも初代に近いため父子の境は説明自身が開いたままとしており、「一」を切る国清は二代に寄せて読まれつつ確定を求められない作である。
國清の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 山城
現在64点販売中
堀川派は、山城国京都の一条堀川を本拠として、十六世紀末から十七世紀初頭にかけて成立した新刀期の一門である。祖の堀川国広はもと日向飫肥の城主伊東家に仕えた武士で、主家没落の後は諸国を遍歴して鍛刀の技を磨き、足利学校打や美濃大道との合作などにその足跡を銘文へ残した。慶長四年(一五九九)以後は京一条堀川に定住し、多くの俊秀を糾合してこれを育てた。その門からは出羽大掾国路、和泉守国貞(親国貞)、河内守国助、越後守国儔、大隅掾正弘、堀川国安らが輩出する。国広以前の関や末相州の作風を経て、定住後の一門は相州伝、就中、志津や貞宗、左文字の復興を共通の理想に掲げた。慶長新刀の姿に南北朝期の大太刀を磨上げた趣を写し、明寿と並んで新刀の創始を称えられる祖を戴いて、この派は京の鍛冶を改めた起点に立つ。 一門の作風は、地鉄にまず標識を持つ。板目に杢や大板目を交えて肌立つ、いわゆる「ザングリとした」枯れた肌合を呈し、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに頻りに入る。区際より斜めに立つ水影は国広自身の手癖で、正弘や国安、国正にも伝わる。刃は浅いのたれを基調に互の目や尖り刃を交えて沸厚く、金筋や砂流しがかかり、処々に湯走りや飛焼を見せ、匂口が沈みごころとなるのが一派に通じる癖である。刃区を深く焼き込む態も国広に始まり門弟へ及ぶ。この共通の地刃の上に、各工は己の差を置く。国路は肌立ちザングリと枯れた地に厚く荒い沸の志津写しを焼き、浅くのたれ込んで先の尖る三品帽子を見せて、一門中随一の器用人と称された。国安は受領銘を用いず必ず二字に切り、左利きゆえに逆筋違の鑢目を切る唯一の工で、その手は最も祖に近い。正弘は大乱れを焼かず、焼を低く刃取りを抑えて目立つ杢を交え、作風も銘字の藤原の二字に至るまで祖に酷似する。国儔はかえって末関に向かい、頭の丸い互の目と締った匂口に兼之を思わせる美濃の一脈を担った。弘幸は一門ただ一人切り鑢を用い、黒みをおびた鉄に古作大和を想わせる直刃を本領とした。 蒐集家が堀川派を求める理由は、鑑定の勘所と、祖と高弟の格にある。在銘作を主体とし、慶長打は太鏨肩落の大振り二字銘や、日州古屋住から洛陽一条堀川住に至る受領銘を交えるため、銘そのものが工と時を定める手懸りとなる。国広の刀は、ザングリの地、斜めの水影、沈む匂口という手癖を写し物の中にすら宿し、相州伝復興の理想を最も高く体現する。高弟もまた、それぞれの極めの言うところで分かたれる。国路の三品帽子と長い金筋、国安の二字銘と逆鑢、正弘の抑えた焼と目立つ杢、国儔の頭の丸い互の目、弘幸の切り鑢と黒い鉄は、いずれも対手から借りた特徴ではなく己の地刃から引かれた標識である。代表作には伝後水尾天皇御寄進の拵を具して幡枝八幡宮に伝わる奉納太刀があり、伝来は日向伊東家、岡山藩家老伊木家、土佐山内家、大島津家、豊臣秀頼、皇室に及ぶ。最晩年の国広作は弟子の代作代銘と読まれるが、師の監督は厳重で偽物とは全く異なる。そして親国貞と河内守国助は国儔に学んで大坂へ下り、大坂新刀の草創に立った。国貞の嗣は井上真改として、その名を一層名高い世代へと継ぐ。京の堀川に始まった相州伝復興の手は、かくして後世の新刀へと流れていった。 詳しく見る →
京 新刀の源流
新刀の時代は、その大部分が京都で発明された。埋忠明寿の工房が運動を育て、堀川国広が一世代を鍛え、鎚を持たぬ本阿弥家が名刀の意味を司った。
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