戦国の関は一つの産業であった。春日神社を氏神と仰ぐ鍛冶たちが、中部日本の軍勢を武装させた。孫六兼元の三本杉と之定の最上作は、量産の町に第一級の技が息づいていたことの証である。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 兼吉は室町初期の美濃国を代表する刀工の一人。大和手掻派の出身。初め包吉と銘したと伝え、南北朝期康応頃を祖とし、以後応永、永享、永�正、大永、天正と続いた。初代の法名に因んで「善定(ぜんじょう)」を屋号としたこの家は、室町幕府六代将軍足利義教が富士山見物で下向の際、その腰の物を鍛えたとの伝承を持つ名流で、美濃刀工の棟梁格として栄えた。


Seki Zensada (Zen-ha), Mino-den · 美濃 · 1394-1428頃
藤代 Chu-jo saku
美濃の関善定派の刀工兼吉の年紀作のうち、最も早いものは南北朝最末期の康応元年(一三八九)二月紀の脇指であり、最も優れるのは一代を経た応永年間の太刀・短刀である。銘鑑はその系の源を大和に置き、初代を手掻派の手掻包吉と同人またはその子と記して、大和の手が関に運ばれたとする。以後その名は室町時代に同銘数代を重ね、新々刀期にまで及んだが、説明書が挙げるのは応永の作で、数代の中でも「最も優品を残しているのが応永時代の作」[[c:1]]とする。本記録の四口、応永九年(一四〇二)・応永十年(一四〇三)・応永二十七年(一四二〇)紀の太刀三口と短刀は、まさにその本領であり、いずれも生ぶ茎・在銘で「濃州住兼吉」あるいは「濃州住人兼吉」と切り、裏に干支の年紀を刻む。
その手は華やかな乱れではなく締った直刃で、末関の律された面である。刃は最も抑えたところでは糸のような糸直刃を焼き、後年の太刀二口には小互の目を僅かに交えて、静かな刃を破る美濃の小刃が覗く。匂口は締りごころに匂勝ちとなって小沸つき、小足入り、刃縁に処々ほつれが現れ、一口の表下半に湯走りかかり、刃中に細かな金筋が入る。説明書はこの抑えた直刃を本工の得意とする作風とし、一口の応永の太刀を「彼の得意とする作風をみせている」[[c:4]]とし、短刀の白けた鍛えと締った直刃を「兼吉の得意とする作風がよく窺える」[[c:5]]と読む。彼を標すのは誇示ではなく抑制である。
地鉄は大和の血を素直に伝える。小板目あるいは板目を総体に流れさせて刃寄りに「柾がかり」を立て、地沸つき、処々に淡い地景が入る。その地の上に白っぽい「白け映り」が立ち、本記録の全ての作に現れて、同時代備前の明るい乱れ映りと分かれる、大和美濃の靄のような映りである。帽子は殆ど直ぐに小丸に返り、一口は少しのたれて裏は尖りごころに浅く返る。姿はその時代の細身・先反りで、身幅やや狭く、反り深く先反りごころがつき、小鋒あるいは中鋒の寸の延びた太刀姿を、説明書は室町、就中応永頃の特色とする。短刀は平造、重ね厚く僅かに内反り、身幅の割にやや寸延びて、これも応永を堅く示す。
作風は二つの手に分かれ、ここに擁するのはその一つである。文献の伝える初祖の面は康応元年紀の脇指で、説明書はこれを重ねが厚め、鎬やや高く、板目鍛えに直刃を焼き、帽子は掃きかけるなど「いかにも大和気質の強い出来口となっている」[[c:6]]と述べる。続く応永の本領がこの四口の手で、同じ大和の下地が今は冷えた美濃の直刃に落ち着いている。年紀はその出来以上に資料的価値をこの一群に与え、応永九年の太刀は経眼の中で康応元年紀の初祖作に次ぎ、応永十年の短刀は委員会の経眼した唯一の応永年紀の短刀で、「短刀には本作以外に経眼せず」[[c:7]]とされる。数代にわたり多くの手がこの名を継いだが、全体を支えるのは応永の作である。
関の中で兼吉は比較によってではなく自らの典型によって読まれる。白けた地の下の柾がかる板目と、小互の目を僅かに交えた締った直刃が、説明書のいう本工の見どころである。応永二十六回の太刀は地刃の出来がよく健全とされ、後年の太刀には「本作はすべてが典型的で」[[c:8]]、「兼吉の見どころを余すところなく示して」[[c:9]]出来がよいと記される。大和に根ざした抑制が、尖り互の目を熱く焼く末関の派手な工と彼を分かち、その静かな柾がかる直刃こそ、応永の関善定兼吉を認める手である。手掻への負い目はその一刀ごとに読め、大和の肌と白い映りが初祖から伝わる。
兼吉の作は藤代の中上作に位し、本記録の四口は重要刀剣の列にあって、いずれも生ぶ・在銘で、彼の名を残す応永の年紀をもつ。これらは頻りに人手に渡る刀ではない。四口のうち来歴が伝わるのは一口、応永二十七回の太刀で、説明書はこれを「藩政時代には筑前黒田家に伝来した一口である」[[c:10]]と記し、九州の大名家の一を経ている。この工の在銘・年紀の応永の太刀や短刀に出会えるのは折々のことで、年紀の短刀となれば殊に稀ゆえ、私人の蒐集家が縁を得るのは稀に、根気をもって、多くはこれらが列する重要刀剣の中であろう。その魅力は説明書の称えるところそのままで、関善定派の大和の血が明らかに覗く、よく鍛えた実直な応永の刀であり、その締った刃と白い地は、委員会が本工の最良として立ち返る手の典型である。
兼吉の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
美濃伝 · 美濃
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美濃国の関は、南北朝より室町、新刀期に至るまで日本刀の一大生産地として栄えた鍛冶の地である。その源流は二つに発し、説明書は金重と志津兼氏とを並べて美濃鍛冶の祖とする。金重は『古今銘尽』に法名道阿、越前敦賀の住人と伝えられ、敦賀より関へ越えて住したといい、相州正宗十哲の一に数えられて、沸の厚い穏やかな手を美濃の地鉄に持ち込んだ。兼氏に発する志津の系は、尖り互の目に走る乱調をもって、いま一つの根をなす。この二流が南北朝の美濃伝を形づくり、金行のごとく金重に続く工、室町に入って善定派の兼吉のように大和手掻の血を関に運んだ工が加わって、流れは広がった。室町後期には兼元・兼定の二名を頂点とする末関の隆盛を迎え、孫六兼元の名と和泉守兼定の受領とが、地方の量産地にとどまらぬ関の格を世に示した。大和と相州の二つの源流に、備前を意識した白け映りの地が結ばれて、美濃伝という一個の伝法が立ったのである。 関物を貫くのは、工と系統の差を越えて繰り返される美濃の共通語法である。地鉄は板目に柾を交えてしばしば肌立ち、刃寄りに柾がかり、鎬地は柾に流れる。その地に立つ映りは備前の明るい乱れ映りではなく、淡く白ける美濃鉄の靄のような白け映りで、説明書はこれを終始、備前と作を分かつ見どころとして掲げる。刃文は互の目を主調に尖り刃を交え、兼元にあっては整然と並ぶ尖り刃の三本杉となり、兼定や兼之にあっては頭の丸い互の目とのたれを交えて変化に富む。沸は乾いて締まり、匂口は冴え、足入り、砂流し・細かな金筋が刃中を走る。帽子は乱れ込んで先尖りごころとなり、あるいは丸く地蔵風に返る。これらは関の背骨をなす型であって、工により濃淡を異にする。金重・金行の手は穏やかで地が肌立ち、善定兼吉は大和の血を負って締った直刃と柾がかる板目を見せ、末関の氏房は大らかなのたれに尖り刃を折り込み、兼房は頭の丸い互の目の兼房乱れを得意とする。同じ語法のうちに、それぞれの工の手が読み分けられる。 収集家が関物を求めるのは、その鑑定が手応えを伴う一個の眼の修練だからである。映りが白く沸が乾いて締まる美濃の地刃は、備前の華やかな映りとも、山城の長く澄んだ直刃とも異なり、これを見分けることが関を識る勘所となる。主要工の格は説明書の評にそのまま現れる。孫六兼元は三本杉の創始者として名を成し、和泉守兼定すなわちノサダは、白ける板目に焼いた賑やかな美濃の刃と来国俊風の細直刃の双方を能くして、古刀期に珍しい受領を許され、刀剣書が「すぐれたる上手」と評する当代第一の手とされる。兼之は末関中最もよく練れた鍛えを見せて作域広く、永正・大永のノサダとして賞玩が厚い。これらの名は将軍家・大名家の伝来を負い、ノサダの太刀には武田信虎のために打たれた一口があり、菊花紋を切った刀は皇室との関わりを示し、徳川将軍家への献上を経た金重の短刀も伝わる。末関の氏房一門は清須・名古屋へ移って尾張新刀三祖の一を生み、古い美濃の手が新たな伝統へ移る蝶番に立った。切れ味をもって武用に応えた量産の地でありながら、孫六兼元らの最上手の作は美術的価値においても高く評され、その白け映りと乾いた沸の手を識ることが、美濃伝いかに始まり継がれたかを語る証となる。 詳しく見る →
室町時代の美濃
戦国の関は一つの産業であった。春日神社を氏神と仰ぐ鍛冶たちが、中部日本の軍勢を武装させた。孫六兼元の三本杉と之定の最上作は、量産の町に第一級の技が息づいていたことの証である。
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