美濃の関善定派の刀工兼吉の年紀作のうち、最も早いものは南北朝最末期の康応元年(一三八九)二月紀の脇指であり、最も優れるのは一代を経た応永年間の太刀・短刀である。銘鑑はその系の源を大和に置き、初代を手掻派の手掻包吉と同人またはその子と記して、大和の手が関に運ばれたとする。以後その名は室町時代に同銘数代を重ね、新々刀期にまで及んだが、説明書が挙げるのは応永の作で、数代の中でも「最も優品を残しているのが応永時代の作」とする。本記録の四口、応永九年(一四〇二)・応永十年(一四〇三)・応永二十七年(一四二〇)紀の太刀三口と短刀は、まさにその本領であり、いずれも生ぶ茎・在銘で「濃州住兼吉」あるいは「濃州住人兼吉」と切り、裏に干支の年紀を刻む。
その手は華やかな乱れではなく締った直刃で、末関の律された面である。刃は最も抑えたところでは糸のような糸直刃を焼き、後年の太刀二口には小互の目を僅かに交えて、静かな刃を破る美濃の小刃が覗く。匂口は締りごころに匂勝ちとなって小沸つき、小足入り、刃縁に処々ほつれが現れ、一口の表下半に湯走りかかり、刃中に細かな金筋が入る。説明書はこの抑えた直刃を本工の得意とする作風とし、一口の応永の太刀を「彼の得意とする作風をみせている」とし、短刀の白けた鍛えと締った直刃を「兼吉の得意とする作風がよく窺える」と読む。彼を標すのは誇示ではなく抑制である。
地鉄は大和の血を素直に伝える。小板目あるいは板目を総体に流れさせて刃寄りに「柾がかり」を立て、地沸つき、処々に淡い地景が入る。その地の上に白っぽい「白け映り」が立ち、本記録の全ての作に現れて、同時代備前の明るい乱れ映りと分かれる、大和美濃の靄のような映りである。帽子は殆ど直ぐに小丸に返り、一口は少しのたれて裏は尖りごころに浅く返る。姿はその時代の細身・先反りで、身幅やや狭く、反り深く先反りごころがつき、小鋒あるいは中鋒の寸の延びた太刀姿を、説明書は室町、就中応永頃の特色とする。短刀は平造、重ね厚く僅かに内反り、身幅の割にやや寸延びて、これも応永を堅く示す。
作風は二つの手に分かれ、ここに擁するのはその一つである。文献の伝える初祖の面は康応元年紀の脇指で、説明書はこれを重ねが厚め、鎬やや高く、板目鍛えに直刃を焼き、帽子は掃きかけるなど「いかにも大和気質の強い出来口となっている」と述べる。続く応永の本領がこの四口の手で、同じ大和の下地が今は冷えた美濃の直刃に落ち着いている。年紀はその出来以上に資料的価値をこの一群に与え、応永九年の太刀は経眼の中で康応元年紀の初祖作に次ぎ、応永十年の短刀は委員会の経眼した唯一の応永年紀の短刀で、「短刀には本作以外に経眼せず」とされる。数代にわたり多くの手がこの名を継いだが、全体を支えるのは応永の作である。
関の中で兼吉は比較によってではなく自らの典型によって読まれる。白けた地の下の柾がかる板目と、小互の目を僅かに交えた締った直刃が、説明書のいう本工の見どころである。応永二十六回の太刀は地刃の出来がよく健全とされ、後年の太刀には「本作はすべてが典型的で」、「兼吉の見どころを余すところなく示して」出来がよいと記される。大和に根ざした抑制が、尖り互の目を熱く焼く末関の派手な工と彼を分かち、その静かな柾がかる直刃こそ、応永の関善定兼吉を認める手である。手掻への負い目はその一刀ごとに読め、大和の肌と白い映りが初祖から伝わる。
兼吉の作は藤代の中上作に位し、本記録の四口は重要刀剣の列にあって、いずれも生ぶ・在銘で、彼の名を残す応永の年紀をもつ。これらは頻りに人手に渡る刀ではない。四口のうち来歴が伝わるのは一口、応永二十七回の太刀で、説明書はこれを「藩政時代には筑前黒田家に伝来した一口である」と記し、九州の大名家の一を経ている。この工の在銘・年紀の応永の太刀や短刀に出会えるのは折々のことで、年紀の短刀となれば殊に稀ゆえ、私人の蒐集家が縁を得るのは稀に、根気をもって、多くはこれらが列する重要刀剣の中であろう。その魅力は説明書の称えるところそのままで、関善定派の大和の血が明らかに覗く、よく鍛えた実直な応永の刀であり、その締った刃と白い地は、委員会が本工の最良として立ち返る手の典型である。