江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
日本刀販売 | 銀座長州屋 |銘 山城大掾藤原国包 寛永五年八月日 (最上大業物), 1624 Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 山城大国包は、陸奥国宮城郡国分若林(現仙台市)の生まれ。政宗は大和古鍛治保昌末葉と伝える国包を大いに後援し、慶長十九��年に京の名匠越中守正俊に入門させると、国包もその大恩に応えて精進し、大坂夏の陣では伊達陣中にて鍛刀している。柾目肌が力強くしかも美しい国包の刀は刃味も抜群で、最上大業物に位列されている。政宗は国包を特別に遇し、家康が康継に葵紋を許したように自家の紋の一つ九曜紋を下賜している。

Sendai Kunikane (Yamato Hosho-den revival, Mutsu) · Rikuzen · 1624-1644頃
刀剣大鑑 上位14%
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初代国包は、文禄元年(一五九二)に奥州宮城郡国分若林、すなわち仙台城下に本郷源蔵として生まれ、伊達政宗の抱え鍛冶となった。主命によって上洛して越中守正俊の門に学び、寛永三年(一六二六)に山城大掾を受領し、自ら大和保昌五郎の末流と称している。相州伝の板目・杢が流行した新刀初期にあって、国包は生涯を挙げて古郷大和の柾目鍛え・直刃焼きの保昌伝を復興することに費やした。説明書は「作風は一貫して大和保昌伝に終始し」[[c:1]]と記し、指定の記録に載る作はすべて在銘である。
鍛えは柾目肌のよくつんだもので、時に流れごころとなり、地沸が微塵に厚くつき地景頻りに入り、かね冴える。しばしば区下より水影が立ち、説明書はある脇指についてこれを「初代国包の手くせといえる」[[c:2]]と評する。その地に直刃あるいは直刃調、しばしば広直刃を浅くのたれて焼き、匂口は深く明るい。働きは大和のそれで、刃縁総体にほつれ、金筋・砂流しを刃中に交え、喰違刃・二重刃・打のけを交え、小足が入る。
帽子は大和の所作で、直ぐに焼き詰めごころとなり盛んに掃きかける。説明書は古作の保昌に対して本工の及ばぬ点を率直に挙げ、「物打上の変化に乏しいことと、帽子が平凡な点にある」[[c:3]]としつつ、代表作たる年紀の刀の地刃の出来はなお優れていると認める。
標準の作は鎬造の刀で、生ぶ茎の長銘、多くは年紀を添え、鎬高く反り浅く中鋒延びる。寛永四年紀・寛永九年紀の刀は同工研究の好資料である。重要美術品の刀二口は号の用恵を銘に入れ、一口は山城大掾藤原用恵国包と銘して慶安元年の年紀があり、腰反り高く踏張りつき、柾目やや肌立ちごころに小沸出来の中直刃に砂流しかかる。他の一口は用恵国包作と銘し柾目よく通る。より稀な作は平造の脇指で、説明書はその現存が僅少であるとする。これらでは上半に焼幅を広めに取り、沸が厚く処々荒めとなり、湯走り状の飛焼を交え、匂口は沈みごころとなり、彫物は素剣に刀樋・連樋を彫口深く掻き流す。鬼切の脇指について説明書は「初代国包の本領が遺憾なく発揮された」[[c:4]]とする。
明るい柾目と大和の帽子は周囲の相州風の工と本工とを分かち、清らかな地に直刃を抑えて焼く手は、本工が敬慕しながらも物打と帽子で及び得なかった古作の保昌とも本工を分かつ。正保二年(一六四五)に隠居して家督を嫡子吉右衛門、二代山城守国包に譲り、柾目の保昌伝を幕末まで伝える仙台国包の家を興した。
指定の記録は重要文化財一口、戦前の重要美術品四口、特別重要刀剣一口、重要刀剣二十八口、御物一口で、指定を受けた作は三十五口に及び、すべてが在銘である。国宝はない。最上手は生ぶ茎で在銘年紀、宇和島伊達家に伝わった刀で、説明書はこれを「古保昌に優るとも劣らぬ作域」[[c:5]]とし体配堂々たる傑作とする。来歴は伊達家・宇和島伊達家を中心に、皇室や木村貞造ら名のある蔵家にも及ぶ。在銘の初代国包は鎌倉の大家のように手の届かぬものではないが、その作の多くは所蔵されて取引されず、平造の脇指は殊に稀で、健全な年紀作が世に出るのは時折に過ぎない。
國包の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · Rikuzen
現在15点販売中
仙台国包は、奥州仙台、すなわち陸前の地に興った一門で、伊達家の抱え鍛冶を出自とする。初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、文禄元年、奥州宮城郡国分若林、現在の仙台市に生まれている。説示が伝えるところでは、伊達政宗の抱え鍛冶となったのち、慶長十九年に主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだ。寛永三年に山城大掾を受領し、同十三年に政宗が薨ずると入道して仁沢用恵と称し、正保二年、五十四歳の時に隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲った後も鍛刀を続け、寛文四年に七十三歳で歿している。みずから大和保昌五郎の末流と称した通り、その志すところは終始大和保昌伝にあり、古保昌の作域に迫る域へと達した。家は二代へと継がれ、二代国包は本郷吉右衛門といい、慶長十七年に生まれ、正保二年に家督を相続して、初代歿後の寛文七年に山城守を受領し、寛文十二年、六十一歳で歿している。 説示が一門の作に共通して挙げる語法は、鎬が高く、鎬幅が身幅の割に広い造込みに、柾目を鍛え、直刃を主調とする一点に収斂する。地鉄は柾目肌がよくつみ、ときに流れごころとなって、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、かねが冴える。刃文は中直刃あるいは広直刃を基調に浅くのたれ、小互の目や小足を交え、匂深く沸がよくつき、刃縁には打のけ・ほつれ・喰違刃・二重刃が交じり、金筋・砂流しがよくかかって、帽子は直ぐに焼き詰める。これらは初代が理想とした古作大和保昌の作域を仙台の地に再現したものであり、刀身に施された素剣や二筋違の彫物にも、古作大和物の特色がうかがわれる。代の判別については、二代もまた家伝の大和保昌伝を得意として中には初代に迫るものもあるが、互の目乱れの出来が見られる点が説示に記される。なお、区下より水影の立つ態は初代・二代ともに見られる手くせであり、二代には茎鑢が単純な化粧になるものもまま見受けられると説示は伝える。 鑑定の要点は、柾目の強い鍛えと、直刃に絡むほつれ・喰違刃・二重刃、そして焼き詰める帽子という大和保昌風の総体にあり、区下の水影や、銘字の「藤」の草冠が寛永九年二月以降に離れて切られるといった銘振りの変化が、製作期を測る手掛かりとして説示に示される。代表作としては、宇和島伊達家に伝来した山城大掾藤原国包銘の一口があり、伊達家の家紋たる九曜紋を茎に切った脇指も伝わって、伊達家との縁の深さを物語る。受領銘に比して作の少ない用恵銘や、山野加右衛門の截断銘を有する作は、資料的に貴重なものとして扱われている。仙台国包は、相州伝の盛行した新刀初期にあって、あえて柾目鍛えの大和保昌伝を一貫して追い、古保昌に優るとも劣らぬ作域を東北の地に確立した一門として位置づけられる。 詳しく見る →
江戸時代
江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
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