江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
江戸時代初期、伊達家抱え工、仙台国包の重要美術品、指定作品。 初代国包は文禄元年に生まれ伊達政宗の抱え鍛冶となり、その命により京の越中守正俊の門に学んだとされている。国包は相州伝の盛行した新刀初期に於いて、大和保昌伝の作域を目指し、その技量は、ほぼ古保昌の域に迫っている。伝説に彼は大和保昌五郎の末流と云われており、当時他に類をみないこの古典的作風が政宗に好まれたのであろうか。その一門は以降明治に至るまで十四代に渡り伊達家の抱え工として活躍した名門である。 本作は鎬が高く、鎬幅の広い体配に、地鉄、純然たる柾目肌に地沸が細かに厚くつき、地景がよく入った鍛えに、刃文、直刃調にのたれ、金筋・砂流しを交え、刃縁が細かにほつれ、帽子、焼きつめるなど彼が理想とした大和保昌伝の作域を示しいる。常々の作に比べ上品な体配に、元から先迄、一切の破綻なく完璧に整えられた匂口、洗練された地鉄の潤いはまさに鎌倉時代保昌伝の名品を見るかの如くであり、その作域の高さは同作の常の作品とは一線を画している。まさに晩年の国包が古作保昌伝の神髄に迫った事を証明する同作傑出の一振りであり、流石国の重要美術品に認定される作品の格の違いに敬服させられる名刀である。 ※京都国立博物館 「特別展 京のかたな」展示のため貸出中 平成30年9月29日より11月25日まで。







販売店の記載のまま
仙台國包 · Rikuzen · 1624-1644頃
刀剣大鑑 上位14%
現在1点販売中
初代国包は、文禄元年(一五九二)に奥州宮城郡国分若林、すなわち仙台城下に本郷源蔵として生まれ、伊達政宗の抱え鍛冶となった。主命によって上洛して越中守正俊の門に学び、寛永三年(一六二六)に山城大掾を受領し、自ら大和保昌五郎の末流と称している。相州伝の板目・杢が流行した新刀初期にあって、国包は生涯を挙げて古郷大和の柾目鍛え・直刃焼きの保昌伝を復興することに費やした。説明書は「作風は一貫して大和保昌伝に終始し」[[c:1]]と記し、指定の記録に載る作はすべて在銘である。
鍛えは柾目肌のよくつんだもので、時に流れごころとなり、地沸が微塵に厚くつき地景頻りに入り、かね冴える。しばしば区下より水影が立ち、説明書はある脇指についてこれを「初代国包の手くせといえる」[[c:2]]と評する。その地に直刃あるいは直刃調、しばしば広直刃を浅くのたれて焼き、匂口は深く明るい。働きは大和のそれで、刃縁総体にほつれ、金筋・砂流しを刃中に交え、喰違刃・二重刃・打のけを交え、小足が入る。
帽子は大和の所作で、直ぐに焼き詰めごころとなり盛んに掃きかける。説明書は古作の保昌に対して本工の及ばぬ点を率直に挙げ、「物打上の変化に乏しいことと、帽子が平凡な点にある」[[c:3]]としつつ、代表作たる年紀の刀の地刃の出来はなお優れていると認める。
標準の作は鎬造の刀で、生ぶ茎の長銘、多くは年紀を添え、鎬高く反り浅く中鋒延びる。寛永四年紀・寛永九年紀の刀は同工研究の好資料である。重要美術品の刀二口は号の用恵を銘に入れ、一口は山城大掾藤原用恵国包と銘して慶安元年の年紀があり、腰反り高く踏張りつき、柾目やや肌立ちごころに小沸出来の中直刃浅く湾れて砂流しかかる。他の一口は用恵国包作と銘し柾目よく通る。より稀な作は平造の脇指で、説明書はその現存が僅少であるとする。これらでは上半に焼幅を広めに取り、沸が厚く処々荒めとなり、湯走り状の飛焼を交え、匂口は沈みごころとなり、彫物は素剣に刀樋・連樋を彫口深く掻き流す。鬼切の脇指について説明書は「初代国包の本領が遺憾なく発揮された」[[c:4]]とする。
明るい柾目と大和の帽子は周囲の相州風の工と本工とを分かち、清らかな地に直刃を抑えて焼く手は、本工が敬慕しながらも物打と帽子で及び得なかった古作の保昌とも本工を分かつ。正保二年(一六四五)に隠居して家督を嫡子吉右衛門、二代山城守国包に譲り、柾目の保昌伝を幕末まで伝える仙台国包の家を興した。
指定の記録は重要文化財一口、戦前の重要美術品四口、特別重要刀剣一口、重要刀剣二十八口、本間による御物台帳に所載の一口で、指定を受けた作は三十五口に及び、すべてが在銘である。国宝はない。最上手は生ぶ茎で在銘年紀、宇和島伊達家に伝わった刀で、説明書はこれを「古保昌に優るとも劣らぬ作域」[[c:5]]とし体配堂々たる傑作とする。来歴は伊達家・宇和島伊達家を中心に、木村貞造ら名のある蔵家にも及ぶ。在銘の初代国包は鎌倉の大家のように手の届かぬものではないが、その作の多くは所蔵されて取引されず、平造の脇指は殊に稀で、健全な年紀作が世に出るのは時折に過ぎない。
國包の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · Rikuzen
現在10点販売中
仙台国包は、奥州仙台、すなわち陸前の地に興った一門で、伊達家の抱え鍛冶を出自とする。初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、文禄元年、奥州宮城郡国分若林、現在の仙台市に生まれている。説示が伝えるところでは、伊達政宗の抱え鍛冶となったのち、慶長十九年に主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだ。寛永三年に山城大掾を受領し、同十三年に政宗が薨ずると入道して仁沢用恵と称し、正保二年、五十四歳の時に隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲った後も鍛刀を続け、寛文四年に七十三歳で歿している。みずから大和保昌五郎の末流と称した通り、その志すところは終始大和保昌伝にあり、古保昌の作域に迫る域へと達した。家は二代へと継がれ、二代国包は本郷吉右衛門といい、慶長十七年に生まれ、正保二年に家督を相続して、初代歿後の寛文七年に山城守を受領し、寛文十二年、六十一歳で歿している。 説示が一門の作に共通して挙げる語法は、鎬が高く、鎬幅が身幅の割に広い造込みに、柾目を鍛え、直刃を主調とする一点に収斂する。地鉄は柾目肌がよくつみ、ときに流れごころとなって、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、かねが冴える。刃文は中直刃あるいは広直刃を基調に浅くのたれ、小互の目や小足を交え、匂深く沸がよくつき、刃縁には打のけ・ほつれ・喰違刃・二重刃が交じり、金筋・砂流しがよくかかって、帽子は直ぐに焼き詰める。これらは初代が理想とした古作大和保昌の作域を仙台の地に再現したものであり、刀身に施された素剣や二筋違の彫物にも、古作大和物の特色がうかがわれる。代の判別については、二代もまた家伝の大和保昌伝を得意として中には初代に迫るものもあるが、互の目乱れの出来が見られる点が説示に記される。なお、区下より水影の立つ態は初代・二代ともに見られる手くせであり、二代には茎鑢が単純な化粧になるものもまま見受けられると説示は伝える。 鑑定の要点は、柾目の強い鍛えと、直刃に絡むほつれ・喰違刃・二重刃、そして焼き詰める帽子という大和保昌風の総体にあり、区下の水影や、銘字の「藤」の草冠が寛永九年二月以降に離れて切られるといった銘振りの変化が、製作期を測る手掛かりとして説示に示される。代表作としては、宇和島伊達家に伝来した山城大掾藤原国包銘の一口があり、伊達家の家紋たる九曜紋を茎に切った脇指も伝わって、伊達家との縁の深さを物語る。受領銘に比して作の少ない用恵銘や、山野加右衛門の截断銘を有する作は、資料的に貴重なものとして扱われている。仙台国包は、相州伝の盛行した新刀初期にあって、あえて柾目鍛えの大和保昌伝を一貫して追い、古保昌に優るとも劣らぬ作域を東北の地に確立した一門として位置づけられる。 詳しく見る →
江戸時代
江戸は刀の目利きの時代である。本阿弥の鑑定、1719年の享保名物帳、盛んな刀剣書が、戦で抜かれることのなくなった刀を学問の対象へと変えていった。
国(政府)がその高い美術的・歴史的価値を認めて認定した刀剣で、重要刀剣に相当する格を持ちます。輸出が制限され、重要美術品は日本国内にとどめられ、国外へ持ち出されると認定を失います。
重要美術品の認定は、世界恐慌下で日本の貴重な文化財が海外へ流出するのを防ぐために制定された、昭和8年(1933年)の「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」に始まります。当時はまだ民間所有品を対象とする重要文化財・国宝の制度が整っておらず、文部大臣の認定によって国宝に準ずるもの(准国宝)として国外への持ち出しを禁じました。制度の終了までに約8,300件が認定され、うち刀剣は約1,000口でした。昭和25年(1950年)の文化財保護法に引き継がれ、価値の高いものは重要文化財へ昇格し、その他は重要美術品の認定を保持しています。以後、新たな認定は行われていません。
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