二代山城守藤原国包は仙台国包の二代で、慶長十七年(一六一二)に生まれ、正保二年(一六四五)三十四歳で家督を相続し、寛文七年(一六六七)に山城守を受領、同十二年(一六七二)六十一歳で歿した。本工は初代山城大掘国包の嫡子で、初代は大和保昌の末流を称し、仙台の伊達政宗に仕え、その命によって上洛して越中守正俊の門に学び、寛永三年(一六二六)に山城大掘を受領した。国包の名は伊達家お抱えの鍈冶であり、両代を通じてその作域は一つの相伝の手に拠る。すなわち大和保昌伝の柾目鍛えを直刃に焼くもので、説明書はこれを家伝の得意とし、二代を父につぐ直刃の上手とする。
本工の手はまず地鉄に読まれる。頶造・庵棟、反り浅く寛文の中鐶となる刀に、刃長を通して柾目背をよくつめて整え、地沸つき、地景が柾に沿って入る。この柾目の地鉄が保昌の第一の見どころで、他の新刀の一派がほとんど常態としない地鉄であり、その上に第二の見どころが焼かれる。即ち刃縁ほつれて喰違刃を交え二重刃ごころとなる中直刃で、砂流し・金筋が柾目に沿って頻りにかかり、匂深く小沸つき匂口明るく冴える。直刃と柾目が本録のすべての作に現れ、両者の併せが本工を見る最も確かな手である。
帽子は直ぐに掃きかけて、小丸と同程度に返りのない焼詰めで結ぶ。この相伝の核に加えて、説明書は国包の手に固有の見どころを名指す。即ち区下より立つ水影で、幅広でやや長寸の作では繋がって下半に映り風となる。一口の寛文の刀について説明書は「区下より水影が立っているが、初代同様二代にも見る手くせであり」と記し、併せて茶鈴が単純な化粧になるものもまま見られ、これも彼の見どころとする。同じ幅広の作では裏の柾がやや背立ち、地沸微塵に厚くつき、地景細かに入る。
静かな直刃に対し、説明書は二代に互の目乱れの出来も見られるとする。これらでは中直刃を基調に小互の目と浅いのたれを交え、足が入り刃縁がほつれる。幅広で長寸の一口は直刃が浅く大きく湾れごころとなり、小沸・荒沸を交え二重刃ごころとなる。説明書はこれを直刃を本領とする手の中の例外とし、「家伝の保昌流の柾目鍛を得意とし」、直刃を得意として加えて僅かに互の目乱れも示すとする。本録の小さな作域は二代ではなく初代自身の銘を持ち、号用恵・受領山城大掘を示す。すなわち山城大掘藤原用恵国包と銘する作で、一口は慶安元年(一六四八)の年紀を持ち、同じ保昌の作域ながら初代の調子で読まれ、腰反り高く踏張りつき、柾が背立ちごころに、直刃は小沸出来の中直刃が濡れほつれて砂流しかかる。
寛文新刀の広い世界の中で本工を際立たせるのは一つの派手さではなく、保昌の読みの一貫性である。即ち刃長を通す柾目、その上に焼いた静かな直刃、掃きかける焼詰めの帽子、そして区下の水影である。説明書は本工の位置を初代に対して正直に保つ。一口の二代の刀を実に迫力に富み「殆んど初代に劣らない」出来とし、その柾目の上作には初代に迫るものもあるが、平素の技量は初代に及ばないとする。銘そのものも鑑定の地で、二代の銘字は横に引いた字画が皆打ちおさめが強く「一」の様に引き、「包の字」の中が特有の形となることを説明書は見どころとする。
本工は藤代に上作とされる。その記録は一括して重要刀剣にあり、二代の刀十口が所載され、さらに初代用恵銘の二口が戦前の重要美術品に達する。国宝も重要文化財もなく、出会うことのできるのは指定の重要刀剣の刀であり、それも時を隔てて探しればというもの、全く手の届かぬ名ではない。説明書はよく鍛えて作域に適った作を二代の典型・代表作とし、その一つ、寛新兵衛の差領には寛文十一年(一六七一)の截断金象嵌銘があり、資料的な代表作として貴ぶ。最も静かな柾目の刀を説明書は「上品に静温に仕上げている」と記す。所載の所持者には黒川福三郎と黒川古文化研究所(用恵銘の重要美術品二口を蔵する)、そして板屋胤雄がある。