重量刀身のみ760gr 出ました出ました有名ですが作品が少なく貴重な2代奥州仙台住国包の名刀が出ました。初代国包は大和保昌貞宗の後裔と言い、伊達政宗63万石に抱えられ慶長19年伊達政宗の命により23歳で山城国京の越中守正俊の弟子となります、大阪の冬の陣と夏の陣の戦いに京都から馳せ参じ活躍した為に藩主伊達政宗より褒美に政宗直々に政宗の軍扇を拝領します。元和5年に28歳で仙台に帰国。作品は切れ味抜群の為に最上大業物と言う高い評価を受けています。本二代国包も伊達藩藩工として活躍します。本名源三郎、後本郷吉右衛門に名を改めます。慶長17年生(1612年)(414年前)寛文7年(1667年)(359年前)数えの56歳で山城守を受領、本刀は銘振りから寛文2年頃(1662年)(364年前)山城守を受領前の数えで51歳頃の名作です。江戸の大和守安定にも鍛刀を学んだと伝えられ、本人自身も試し切り法を考案しただけに、切れ味抜群の良業物となっています。本刀は伊達藩お抱え鍛冶の為に藩主の求により元は2尺7寸の戦陣用の長刀を作りましたが後世の伊達藩主に繋がる高級武士が自分の差料にしたいが為に自分の剣法に合わせて短くした刀です。家伝の大和保昌伝の刀の姿は鎬が高く元身幅と先身幅との差の有る反りのやや浅い惚れ惚れとする良い刀姿を現し、地金は家伝の大和保昌派の柾目肌に鍛え、地には柾目肌に添って地景や地沸を豊富に付け、刃紋は小沸の付いたのたれ乱れ刃に刃縁に食い違い刃や二重刃を焼き刃縁に添って三日月宗近の様に多くの打ちのけを現し素晴らしく魅力有る刃を焼いています。帽子は上品に小丸に焼いて素晴らしく格調の高い名刀を作っています。国包家は幕末14代目まで続く仙台伊達家の格式の高いお抱え鍛冶です。拵えも黒ロー刻み鞘の付いた鍔は豪華な金覆輪を掛けた藻柄子宗典の武者の図、目貫は赤銅地花の図、縁金具は赤銅地花の図、頭は角を付けた殿中拵えが本2代奥州仙台住国包の名刀に一段と華を添えています。この度古いお数寄者様から昔に高価な価格で買った刀ですが自分達も年を取りましたので2代奥州仙台住国包は世の中に作品少なく貴重な刀ですが、自分達も年を取りましたので後進の方にお安くお譲り下さいとお預かりした為に特別に格安に てご提供いたします是非お楽しみ下さいませ。

































Sendai Kunikane, Mutsu (Sendai Shinto) · Rikuzen · 1644-1670頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位31%
現在2点販売中
二代山城守藤原国包は仙台国包の二代で、慶長十七年(一六一二)に生まれ、正保二年(一六四五)三十四歳で家督を相続し、寛文七年(一六六七)に山城守を受領、同十二年(一六七二)六十一歳で歿した。本工は初代山城大掘国包の嫡子で、初代は大和保昌の末流を称し、仙台の伊達政宗に仕え、その命によって上洛して越中守正俊の門に学び、寛永三年(一六二六)に山城大掘を受領した。国包の名は伊達家お抱えの鍈冶であり、両代を通じてその作域は一つの相伝の手に拠る。すなわち大和保昌伝の柾目鍛えを直刃に焼くもので、説明書はこれを家伝の得意とし、二代を父につぐ直刃の上手とする。
本工の手はまず地鉄に読まれる。頶造・庵棟、反り浅く寛文の中鐶となる刀に、刃長を通して柾目背をよくつめて整え、地沸つき、地景が柾に沿って入る。この柾目の地鉄が保昌の第一の見どころで、他の新刀の一派がほとんど常態としない地鉄であり、その上に第二の見どころが焼かれる。即ち刃縁ほつれて喰違刃を交え二重刃ごころとなる中直刃で、砂流し・金筋が柾目に沿って頻りにかかり、匂深く小沸つき匂口明るく冴える。直刃と柾目が本録のすべての作に現れ、両者の併せが本工を見る最も確かな手である。
帽子は直ぐに掃きかけて、小丸と同程度に返りのない焼詰めで結ぶ。この相伝の核に加えて、説明書は国包の手に固有の見どころを名指す。即ち区下より立つ水影で、幅広でやや長寸の作では繋がって下半に映り風となる。一口の寛文の刀について説明書は「区下より水影が立っているが、初代同様二代にも見る手くせであり」[[c:1]]と記し、併せて茶鈴が単純な化粧になるものもまま見られ、これも彼の見どころとする。同じ幅広の作では裏の柾がやや背立ち、地沸微塵に厚くつき、地景細かに入る。
静かな直刃に対し、説明書は二代に互の目乱れの出来も見られるとする。これらでは中直刃を基調に小互の目と浅いのたれを交え、足が入り刃縁がほつれる。幅広で長寸の一口は直刃が浅く大きく湾れごころとなり、小沸・荒沸を交え二重刃ごころとなる。説明書はこれを直刃を本領とする手の中の例外とし、「家伝の保昌流の柾目鍛を得意とし」[[c:2]]、直刃を得意として加えて僅かに互の目乱れも示すとする。本録の小さな作域は二代ではなく初代自身の銘を持ち、号用恵・受領山城大掘を示す。すなわち山城大掘藤原用恵国包と銘する作で、一口は慶安元年(一六四八)の年紀を持ち、同じ保昌の作域ながら初代の調子で読まれ、腰反り高く踏張りつき、柾が背立ちごころに、直刃は小沸出来の中直刃が濡れほつれて砂流しかかる。
寛文新刀の広い世界の中で本工を際立たせるのは一つの派手さではなく、保昌の読みの一貫性である。即ち刃長を通す柾目、その上に焼いた静かな直刃、掃きかける焼詰めの帽子、そして区下の水影である。説明書は本工の位置を初代に対して正直に保つ。一口の二代の刀を実に迫力に富み「殆んど初代に劣らない」[[c:3]]出来とし、その柾目の上作には初代に迫るものもあるが、平素の技量は初代に及ばないとする。銘そのものも鑑定の地で、二代の銘字は横に引いた字画が皆打ちおさめが強く「一」の様に引き、「包の字」の中が特有の形となることを説明書は見どころとする。
本工は藤代に上作とされる。その記録は一括して重要刀剣にあり、二代の刀十口が所載され、さらに初代用恵銘の二口が戦前の重要美術品に達する。国宝も重要文化財もなく、出会うことのできるのは指定の重要刀剣の刀であり、それも時を隔てて探しればというもの、全く手の届かぬ名ではない。説明書はよく鍛えて作域に適った作を二代の典型・代表作とし、その一つ、寛新兵衛の差領には寛文十一年(一六七一)の截断金象嵌銘があり、資料的な代表作として貴ぶ。最も静かな柾目の刀を説明書は「上品に静温に仕上げている」[[c:4]]と記す。所載の所持者には黒川福三郎と黒川古文化研究所(用恵銘の重要美術品二口を蔵する)、そして板屋胤雄がある。
國包の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · Rikuzen
現在12点販売中
仙台国包は、奥州仙台、すなわち陸前の地に興った一門で、伊達家の抱え鍛冶を出自とする。初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、文禄元年、奥州宮城郡国分若林、現在の仙台市に生まれている。説示が伝えるところでは、伊達政宗の抱え鍛冶となったのち、慶長十九年に主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだ。寛永三年に山城大掾を受領し、同十三年に政宗が薨ずると入道して仁沢用恵と称し、正保二年、五十四歳の時に隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲った後も鍛刀を続け、寛文四年に七十三歳で歿している。みずから大和保昌五郎の末流と称した通り、その志すところは終始大和保昌伝にあり、古保昌の作域に迫る域へと達した。家は二代へと継がれ、二代国包は本郷吉右衛門といい、慶長十七年に生まれ、正保二年に家督を相続して、初代歿後の寛文七年に山城守を受領し、寛文十二年、六十一歳で歿している。 説示が一門の作に共通して挙げる語法は、鎬が高く、鎬幅が身幅の割に広い造込みに、柾目を鍛え、直刃を主調とする一点に収斂する。地鉄は柾目肌がよくつみ、ときに流れごころとなって、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、かねが冴える。刃文は中直刃あるいは広直刃を基調に浅くのたれ、小互の目や小足を交え、匂深く沸がよくつき、刃縁には打のけ・ほつれ・喰違刃・二重刃が交じり、金筋・砂流しがよくかかって、帽子は直ぐに焼き詰める。これらは初代が理想とした古作大和保昌の作域を仙台の地に再現したものであり、刀身に施された素剣や二筋違の彫物にも、古作大和物の特色がうかがわれる。代の判別については、二代もまた家伝の大和保昌伝を得意として中には初代に迫るものもあるが、互の目乱れの出来が見られる点が説示に記される。なお、区下より水影の立つ態は初代・二代ともに見られる手くせであり、二代には茎鑢が単純な化粧になるものもまま見受けられると説示は伝える。 鑑定の要点は、柾目の強い鍛えと、直刃に絡むほつれ・喰違刃・二重刃、そして焼き詰める帽子という大和保昌風の総体にあり、区下の水影や、銘字の「藤」の草冠が寛永九年二月以降に離れて切られるといった銘振りの変化が、製作期を測る手掛かりとして説示に示される。代表作としては、宇和島伊達家に伝来した山城大掾藤原国包銘の一口があり、伊達家の家紋たる九曜紋を茎に切った脇指も伝わって、伊達家との縁の深さを物語る。受領銘に比して作の少ない用恵銘や、山野加右衛門の截断銘を有する作は、資料的に貴重なものとして扱われている。仙台国包は、相州伝の盛行した新刀初期にあって、あえて柾目鍛えの大和保昌伝を一貫して追い、古保昌に優るとも劣らぬ作域を東北の地に確立した一門として位置づけられる。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様ご都合による返品の場合はお客様ご負担となります。ご了承くださいませ。弊社の誤送、商品不良等による返品の場合は弊社にて負担いたします。
重量刀身のみ760gr 出ました出ました有名ですが作品が少なく貴重な2代奥州仙台住国包の名刀が出ました。初代国包は大和保昌貞宗の後裔と言い、伊達政宗63万石に抱えられ慶長19年伊達政宗の命により23歳で山城国京の越中守正俊の弟子となります、大阪の冬の陣と夏の陣の戦いに京都から馳せ参じ活躍した為に藩主伊達政宗より褒美に政宗直々に政宗の軍扇を拝領します。元和5年に28歳で仙台に帰国。作品は切れ味抜群の為に最上大業物と言う高い評価を受けています。本二代国包も伊達藩藩工として活躍します。本名源三郎、後本郷吉右衛門に名を改めます。慶長17年生(1612年)(414年前)寛文7年(1667年)(359年前)数えの56歳で山城守を受領、本刀は銘振りから寛文2年頃(1662年)(364年前)山城守を受領前の数えで51歳頃の名作です。江戸の大和守安定にも鍛刀を学んだと伝えられ、本人自身も試し切り法を考案しただけに、切れ味抜群の良業物となっています。本刀は伊達藩お抱え鍛冶の為に藩主の求により元は2尺7寸の戦陣用の長刀を作りましたが後世の伊達藩主に繋がる高級武士が自分の差料にしたいが為に自分の剣法に合わせて短くした刀です。家伝の大和保昌伝の刀の姿は鎬が高く元身幅と先身幅との差の有る反りのやや浅い惚れ惚れとする良い刀姿を現し、地金は家伝の大和保昌派の柾目肌に鍛え、地には柾目肌に添って地景や地沸を豊富に付け、刃紋は小沸の付いたのたれ乱れ刃に刃縁に食い違い刃や二重刃を焼き刃縁に添って三日月宗近の様に多くの打ちのけを現し素晴らしく魅力有る刃を焼いています。帽子は上品に小丸に焼いて素晴らしく格調の高い名刀を作っています。国包家は幕末14代目まで続く仙台伊達家の格式の高いお抱え鍛冶です。拵えも黒ロー刻み鞘の付いた鍔は豪華な金覆輪を掛けた藻柄子宗典の武者の図、目貫は赤銅地花の図、縁金具は赤銅地花の図、頭は角を付けた殿中拵えが本2代奥州仙台住国包の名刀に一段と華を添えています。この度古いお数寄者様から昔に高価な価格で買った刀ですが自分達も年を取りましたので2代奥州仙台住国包は世の中に作品少なく貴重な刀ですが、自分達も年を取りましたので後進の方にお安くお譲り下さいとお預かりした為に特別に格安に てご提供いたします是非お楽しみ下さいませ。

































Sendai Kunikane, Mutsu (Sendai Shinto) · Rikuzen · 1644-1670頃
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二代山城守藤原国包は仙台国包の二代で、慶長十七年(一六一二)に生まれ、正保二年(一六四五)三十四歳で家督を相続し、寛文七年(一六六七)に山城守を受領、同十二年(一六七二)六十一歳で歿した。本工は初代山城大掘国包の嫡子で、初代は大和保昌の末流を称し、仙台の伊達政宗に仕え、その命によって上洛して越中守正俊の門に学び、寛永三年(一六二六)に山城大掘を受領した。国包の名は伊達家お抱えの鍈冶であり、両代を通じてその作域は一つの相伝の手に拠る。すなわち大和保昌伝の柾目鍛えを直刃に焼くもので、説明書はこれを家伝の得意とし、二代を父につぐ直刃の上手とする。
本工の手はまず地鉄に読まれる。頶造・庵棟、反り浅く寛文の中鐶となる刀に、刃長を通して柾目背をよくつめて整え、地沸つき、地景が柾に沿って入る。この柾目の地鉄が保昌の第一の見どころで、他の新刀の一派がほとんど常態としない地鉄であり、その上に第二の見どころが焼かれる。即ち刃縁ほつれて喰違刃を交え二重刃ごころとなる中直刃で、砂流し・金筋が柾目に沿って頻りにかかり、匂深く小沸つき匂口明るく冴える。直刃と柾目が本録のすべての作に現れ、両者の併せが本工を見る最も確かな手である。
帽子は直ぐに掃きかけて、小丸と同程度に返りのない焼詰めで結ぶ。この相伝の核に加えて、説明書は国包の手に固有の見どころを名指す。即ち区下より立つ水影で、幅広でやや長寸の作では繋がって下半に映り風となる。一口の寛文の刀について説明書は「区下より水影が立っているが、初代同様二代にも見る手くせであり」[[c:1]]と記し、併せて茶鈴が単純な化粧になるものもまま見られ、これも彼の見どころとする。同じ幅広の作では裏の柾がやや背立ち、地沸微塵に厚くつき、地景細かに入る。
静かな直刃に対し、説明書は二代に互の目乱れの出来も見られるとする。これらでは中直刃を基調に小互の目と浅いのたれを交え、足が入り刃縁がほつれる。幅広で長寸の一口は直刃が浅く大きく湾れごころとなり、小沸・荒沸を交え二重刃ごころとなる。説明書はこれを直刃を本領とする手の中の例外とし、「家伝の保昌流の柾目鍛を得意とし」[[c:2]]、直刃を得意として加えて僅かに互の目乱れも示すとする。本録の小さな作域は二代ではなく初代自身の銘を持ち、号用恵・受領山城大掘を示す。すなわち山城大掘藤原用恵国包と銘する作で、一口は慶安元年(一六四八)の年紀を持ち、同じ保昌の作域ながら初代の調子で読まれ、腰反り高く踏張りつき、柾が背立ちごころに、直刃は小沸出来の中直刃が濡れほつれて砂流しかかる。
寛文新刀の広い世界の中で本工を際立たせるのは一つの派手さではなく、保昌の読みの一貫性である。即ち刃長を通す柾目、その上に焼いた静かな直刃、掃きかける焼詰めの帽子、そして区下の水影である。説明書は本工の位置を初代に対して正直に保つ。一口の二代の刀を実に迫力に富み「殆んど初代に劣らない」[[c:3]]出来とし、その柾目の上作には初代に迫るものもあるが、平素の技量は初代に及ばないとする。銘そのものも鑑定の地で、二代の銘字は横に引いた字画が皆打ちおさめが強く「一」の様に引き、「包の字」の中が特有の形となることを説明書は見どころとする。
本工は藤代に上作とされる。その記録は一括して重要刀剣にあり、二代の刀十口が所載され、さらに初代用恵銘の二口が戦前の重要美術品に達する。国宝も重要文化財もなく、出会うことのできるのは指定の重要刀剣の刀であり、それも時を隔てて探しればというもの、全く手の届かぬ名ではない。説明書はよく鍛えて作域に適った作を二代の典型・代表作とし、その一つ、寛新兵衛の差領には寛文十一年(一六七一)の截断金象嵌銘があり、資料的な代表作として貴ぶ。最も静かな柾目の刀を説明書は「上品に静温に仕上げている」[[c:4]]と記す。所載の所持者には黒川福三郎と黒川古文化研究所(用恵銘の重要美術品二口を蔵する)、そして板屋胤雄がある。
國包の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · Rikuzen
現在12点販売中
仙台国包は、奥州仙台、すなわち陸前の地に興った一門で、伊達家の抱え鍛冶を出自とする。初代国包は本郷氏で、初め源蔵、のち吉之允といい、文禄元年、奥州宮城郡国分若林、現在の仙台市に生まれている。説示が伝えるところでは、伊達政宗の抱え鍛冶となったのち、慶長十九年に主命によって上洛し、越中守正俊の門に学んだ。寛永三年に山城大掾を受領し、同十三年に政宗が薨ずると入道して仁沢用恵と称し、正保二年、五十四歳の時に隠居して家督を二代嫡子吉右衛門に譲った後も鍛刀を続け、寛文四年に七十三歳で歿している。みずから大和保昌五郎の末流と称した通り、その志すところは終始大和保昌伝にあり、古保昌の作域に迫る域へと達した。家は二代へと継がれ、二代国包は本郷吉右衛門といい、慶長十七年に生まれ、正保二年に家督を相続して、初代歿後の寛文七年に山城守を受領し、寛文十二年、六十一歳で歿している。 説示が一門の作に共通して挙げる語法は、鎬が高く、鎬幅が身幅の割に広い造込みに、柾目を鍛え、直刃を主調とする一点に収斂する。地鉄は柾目肌がよくつみ、ときに流れごころとなって、地沸が微塵に厚くつき、地景が細かによく入り、かねが冴える。刃文は中直刃あるいは広直刃を基調に浅くのたれ、小互の目や小足を交え、匂深く沸がよくつき、刃縁には打のけ・ほつれ・喰違刃・二重刃が交じり、金筋・砂流しがよくかかって、帽子は直ぐに焼き詰める。これらは初代が理想とした古作大和保昌の作域を仙台の地に再現したものであり、刀身に施された素剣や二筋違の彫物にも、古作大和物の特色がうかがわれる。代の判別については、二代もまた家伝の大和保昌伝を得意として中には初代に迫るものもあるが、互の目乱れの出来が見られる点が説示に記される。なお、区下より水影の立つ態は初代・二代ともに見られる手くせであり、二代には茎鑢が単純な化粧になるものもまま見受けられると説示は伝える。 鑑定の要点は、柾目の強い鍛えと、直刃に絡むほつれ・喰違刃・二重刃、そして焼き詰める帽子という大和保昌風の総体にあり、区下の水影や、銘字の「藤」の草冠が寛永九年二月以降に離れて切られるといった銘振りの変化が、製作期を測る手掛かりとして説示に示される。代表作としては、宇和島伊達家に伝来した山城大掾藤原国包銘の一口があり、伊達家の家紋たる九曜紋を茎に切った脇指も伝わって、伊達家との縁の深さを物語る。受領銘に比して作の少ない用恵銘や、山野加右衛門の截断銘を有する作は、資料的に貴重なものとして扱われている。仙台国包は、相州伝の盛行した新刀初期にあって、あえて柾目鍛えの大和保昌伝を一貫して追い、古保昌に優るとも劣らぬ作域を東北の地に確立した一門として位置づけられる。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトお客様ご都合による返品の場合はお客様ご負担となります。ご了承くださいませ。弊社の誤送、商品不良等による返品の場合は弊社にて負担いたします。