初代国包は、文禄元年(一五九二)に奥州宮城郡国分若林、すなわち仙台城下に本郷源蔵として生まれ、伊達政宗の抱え鍛冶となった。主命によって上洛して越中守正俊の門に学び、寛永三年(一六二六)に山城大掾を受領し、自ら大和保昌五郎の末流と称している。相州伝の板目・杢が流行した新刀初期にあって、国包は生涯を挙げて古郷大和の柾目鍛え・直刃焼きの保昌伝を復興することに費やした。説明書は「作風は一貫して大和保昌伝に終始し」と記し、指定の記録に載る作はすべて在銘である。
鍛えは柾目肌のよくつんだもので、時に流れごころとなり、地沸が微塵に厚くつき地景頻りに入り、かね冴える。しばしば区下より水影が立ち、説明書はある脇指についてこれを「初代国包の手くせといえる」と評する。その地に直刃あるいは直刃調、しばしば広直刃を浅くのたれて焼き、匂口は深く明るい。働きは大和のそれで、刃縁総体にほつれ、金筋・砂流しを刃中に交え、喰違刃・二重刃・打のけを交え、小足が入る。
帽子は大和の所作で、直ぐに焼き詰めごころとなり盛んに掃きかける。説明書は古作の保昌に対して本工の及ばぬ点を率直に挙げ、「物打上の変化に乏しいことと、帽子が平凡な点にある」としつつ、代表作たる年紀の刀の地刃の出来はなお優れていると認める。
標準の作は鎬造の刀で、生ぶ茎の長銘、多くは年紀を添え、鎬高く反り浅く中鋒延びる。寛永四年紀・寛永九年紀の刀は同工研究の好資料である。重要美術品の刀二口は号の用恵を銘に入れ、一口は山城大掾藤原用恵国包と銘して慶安元年の年紀があり、腰反り高く踏張りつき、柾目やや肌立ちごころに小沸出来の中直刃浅く湾れて砂流しかかる。他の一口は用恵国包作と銘し柾目よく通る。より稀な作は平造の脇指で、説明書はその現存が僅少であるとする。これらでは上半に焼幅を広めに取り、沸が厚く処々荒めとなり、湯走り状の飛焼を交え、匂口は沈みごころとなり、彫物は素剣に刀樋・連樋を彫口深く掻き流す。鬼切の脇指について説明書は「初代国包の本領が遺憾なく発揮された」とする。
明るい柾目と大和の帽子は周囲の相州風の工と本工とを分かち、清らかな地に直刃を抑えて焼く手は、本工が敬慕しながらも物打と帽子で及び得なかった古作の保昌とも本工を分かつ。正保二年(一六四五)に隠居して家督を嫡子吉右衛門、二代山城守国包に譲り、柾目の保昌伝を幕末まで伝える仙台国包の家を興した。
指定の記録は重要文化財一口、戦前の重要美術品四口、特別重要刀剣一口、重要刀剣二十八口、本間による御物台帳に所載の一口で、指定を受けた作は三十五口に及び、すべてが在銘である。国宝はない。最上手は生ぶ茎で在銘年紀、宇和島伊達家に伝わった刀で、説明書はこれを「古保昌に優るとも劣らぬ作域」とし体配堂々たる傑作とする。来歴は伊達家・宇和島伊達家を中心に、木村貞造ら名のある蔵家にも及ぶ。在銘の初代国包は鎌倉の大家のように手の届かぬものではないが、その作の多くは所蔵されて取引されず、平造の脇指は殊に稀で、健全な年紀作が世に出るのは時折に過ぎない。