室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
西暦1394-1428年頃(応永、室町時代初期) 元幅(刃区での幅):約2.30 cm 彫物:表「棒樋」掻通 二重元鎺、上貝は赤銅、下貝は金箔押 黒石目地塗鞘、小さ刀拵





















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Bizen Osafune, Kozori group (Oei-Bizen) · 備前 · 1394-1428頃
藤代 中上作 · 刀剣大鑑 上位23%
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家助は畠田派の備前長船の刀工で、その年紀作は室町時代初頭の応永にわたり、重要文化財の一口は永享八年(一四三六)に及び、説明書は盛光・康光・経家と並べて「応永備前を代表する刀工」[[c:1]]の一人に挙げる。年紀の最も古い作は地味な応永三年(一三九六)の太刀であり、ふだん見かける華やかな作は応永十年代乃至二十年代の年紀を持ち、応永十九年紀の在銘太刀の一口は特別重要刀剣に及び、応永廿一年(一四一四)紀の一口は重要文化財に指定される。その名と系統は、説明書自身が明らかにする問題である。剣書は初代を文永頃の畠田守家の子に遡らせるが、経眼の作に南北朝を遡るものなく、最古は文和頃と鑑せられ、ゆえに遺存の数代は厳密に代別されず畠田派の一連の手として読まれ、古い応永三年の太刀を先代と見るか同人の前期作と見るかは研究課題に委ねられる。
本工の典型は応永備前の乱れである。総じてやや肌立ちごころの板目に、処々小板目・杢・流れ肌を交えた地に地沸・地景つき、これに棒映り乃至鮮明な乱れ映りが立つ。説明書が応永備前の特色の一つに挙げる棒状の映りである。刃文は腰の開いた互の目、すなわち説明書が応永の名工に共通と挙げる腰開きの互の目を主調に、丁子・小丁子・尖り刃を交え、時に小のたれを交える。足・葉頻りに入り、匂出来に小沸ごころ、下半に砂流し・金筋が刃中を走る。帽子は乱れ込んで尖りごころに返り、或いは小丸、時に先に飛焼を交える。
地鉄こそ、極めが本工を応永の筆頭の名から一歩分かつところである。鍛がやや肌立ちごころとなり、匂口がやや締って時にやや沈むとしつつ、説明書はその上手を技術的には盛光・康光に「技術的には遜色がない」[[c:2]]とする。上手の地はよく錬れてうるおいがあり、地沸・地景・乱れ映りを見せ、刃中の働きこそ身上で、特別重要刀剣の太刀について説明書は「この太刀は殊に刃中の働きが見事である」[[c:3]]と記す。彫物は棒樋を掻き、磨上極めには連樋・添樋を伴い、一口の在銘打刀には鎬地に梵字を彫るなど、実用と信仰の彫が繰り返し現れる。
説明書は本工の作を明示して二様に分かつ。典型の応永備前の乱れに対し、「やや穏やかな直刃調の刃文を焼くもの」[[c:4]]を置く。詰んで流れる板目に地沸・地景つき淡く映りごころのある地に中直刃を焼いて小互の目を交え、匂口締りごころに沸つき砂流しかかり、帽子は直ぐに小丸、先掃きかける作である。遺存の作は、生ぶ・在銘・年紀の太刀と、後に本工と極められた大磨上無銘の刀とに分かれ、後者には他名のもとに伝わった末に時代と作風から本工の南北朝後期乃至室町初期の作と読まれたものが少なくなく、古くは真守と極められた一口もその一つである。
畠田家助を分かつところは、説明書が自ら挙げる。腰の開いた互の目と棒映りは、その典型の乱れを鎌倉中期ではなく応永備前の作たらしめ、肌立つ板目と締って沈みごころの匂口は、本工を盛光・康光に並べつつ僅かに分かつ。説明書はその上手の年紀刀の一口を、肌立つ板目・地斑・浅い小のたれに腰の開いた互の目を交えた作柄から「長船政光に類する作柄」[[c:5]]と評する。説明書は応永三年紀の最古の太刀を「小反風の地味なもの」[[c:6]]とし、その名が応永の筆頭ほどには一般に聞えないとしつつ、上手の太刀の存在によって「更に高く評価されてよい」[[c:7]]と判ずる。
収集の観点では、本工は通り名というより資料の名である。藤代の極めは中上作。国宝はなく、その記録は重要文化財に及び、応永廿一年紀と永享八年紀の在銘太刀二口が指定を受け、その目録は板目に乱れ、板目に小乱れとする。特別重要刀剣・重要刀剣の級には九口がある。その作は来歴の確かな所蔵に伝わり、応永十九年紀の太刀は加賀前田家を経て林原美術館が蔵し、重要文化財の一口は春日大社に伝わり、磨上の刀の一口は池田勝入の陣刀であったものを後の所有者が磨上げたものである。それらの多くは伝持されて市場に出るものではないため、在銘年紀の畠田家助が世に出ることは稀であり、時に過ぎない。説明書はかかる一口を「資料的価値の高い一口」[[c:8]]とする。
家助の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在20点販売中
小反は、南北朝時代末期から室町時代初期にかけて備前長船の地に働いた一群の刀工を、血脈ではなく除外によって括った呼称である。すなわち兼光一門、長義、元重、大宮一門といった当時の長船の主立った系統のいずれにも直接の師弟関係を結ばぬ周縁の手を、まとめて一名のもとに集めたものであり、その名の意味するところは今日なお漠然としていると本会は率直に記す。秀光、家助、成家、家守、師光、守助らがこれに数えられ、銘鑑はおのおのを数代に立てて初代を鎌倉後期から建武・暦応の頃に置くが、確たる初代作を経眼せず、現存の有銘作はおおむね文和・貞治から永徳・明徳を経て応永一桁代に及ぶ。それゆえ各遺例は一手に確定的に帰すよりも、作風と年紀によって読まれるのを常とする。師光が倫光の子にして応永備前の盛光の父と伝えられ、家助が畠田派を承けて応永備前の一角をなすように、この一群は長船嫡流の華やかな本流とその次代の応永備前との間に、静かな周縁の地帯をなして横たわる。 この一派を貫く手は小模様の乱れである。兼光一門が太く円い互の目を焼くのに対し、小反の工はおおむね同じ趣を小さくこずんだ刃に収め、小のたれを本位として小互の目を連れごころに焼き、これに尖り刃、角ばる刃、腰の開いた互の目を交え、処々逆ごころを見せて、総じて小さくこずむ。足・葉よく入り、匂を主調にわずかに小沸つき、金筋・砂流しが細かに働き、丁子を交えてもなお控えめにとどまる。地鉄は板目に杢を交えて流れごころとなり、肌やや立って地沸細かにつき、地景が黒く沈み、時に地斑を交え、その上に淡い、あるいは鮮明な乱れ映りが立つ。短刀・平造の作では棒映り、直ぐ状の映りとなるものも見え、いずれにせよこの映りが、同時代の相州風の手から一派を分かち、備前の地に繋ぎ止める最も確かな標となる。帽子は刃文に従って乱れ込み尖りごころに掃きかけ、あるいは小丸に結ぶ。棒樋を掻き、梵字、護摩箸、倶利迦羅などを彫る作もある。一派の常を越えて、師光の至徳の太刀のように腰の開いた互の目に高低を見せて華やかに乱れ、応永備前を予兆させる作もあり、家守の応永の太刀のごとく重ね厚く先反りを加えて次代の姿に近づくものもある。 収集の観点から小反の物が求められるのは、何よりそれが資料として明瞭であるからである。鑑定の勘所は二つの敷居を分かつことにある。一つは兼光本流との別で、模様の小さくこずむ点と、やや控えめな作位とによってこれを読み、いま一つは応永備前との別で、腰の開いた互の目と棒映りのうちに次代の萌芽を見ながら、なお南北朝の古調の姿と抑えた焼きにとどまる点をもって分かつ。主要な工の格はおのずから別れ、師光は上々作に位し、秀光、家助、成家、守助、家守らは中上作の位を占める。在銘の作はおおむね生ぶで年紀を備えた太刀として遺り、成家のように大磨上無銘の刀によって主に知られる工もあるが、いずれの場合も、年紀の確かな南北朝の備前として頗る貴重とされる。伝来は概して薄いが確かで、黒田家、加賀前田家、庄内酒井家、皇室の手を経た作や、林原美術館、東京国立博物館、京都国立博物館、春日大社に伝わる作が知られ、その多くは伝持されて市場に現れることは稀である。在銘有年紀の小反物が世に出るのは折に触れてに過ぎず、根気を要するが、現れればそれは、長船派が南北朝の世をいかに閉じ、応永の再興へといかに身を運んだかを、一年一年読みうる確かな文書となる。 詳しく見る →
室町時代の備前
室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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