刀剣番号:AS25797 刀:白鞘入り(NBTHK 特別保存刀剣) 銘文:美濃国御勝山麓住人藤原永貞 慶應二年八月日 於江戸青山造之 鞘書き:銘 美濃国御勝山麓住人藤原永貞 慶應二年八月日 於江戸青山造之 新々刀大鑑所載 紀州徳川家抱工 同工中、白眉といえる健全な傑作。 長さ 二尺五寸。青山刻。 (弊社では刀剣の出来映えにより、最上作、上々作、上作、普通作の4段階に評価しております。本作は永貞の作品の中でも「上々作」にランクされる傑作です。) ハバキ:金着二重ハバキ 刃長:75.76 cm (2 shaku 5 sun) 反り:1.52 cm 目釘穴:2個 元幅:3.28 cm 先幅:2.15 cm 重ね:0.68 cm 刀身重量:785 g 体配:身幅広く重ね厚く、大切っ先となり、反り適度についた、極めて姿の良い堂々とした体配。 地鉄:小板目肌よく詰んで、地沸がつき、地景が入る精良な地鉄。 刃文:沸出来の互の目乱れ。刃中に金筋が働き、帽子は匂口深く、返りもしっかりと残る。 特徴:『新々刀大鑑』所載。 永貞は美濃国赤坂千手院の末流で、同門にて修行を積んだ。 現在の岐阜県不破郡垂井町表佐の出身で、本姓は松井、名は修。 母方の実家は田村城に近い田村町であった。 松井家は伊勢国の出身と伝えられ、その縁から伊勢の玉丸(玉城)に赴いて作刀することもあった。 玉丸に定住はしなかったが、御勝山に居住したと伝えられる。 歴史的な関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康がこの地に本陣を構えて全軍を指揮し、勝利を収めたことから「御勝山」と呼ばれるようになった。永貞は……
Certificate reading — 銘 美濃國御勝山麓住人藤原永貞 慶應二年八月日於江戸青山造之
在銘 · 文久〜慶応 · 長さ 75.76cm · 反り 1.52cm





Seki (Mino), shinshinto · 美濃 · 1862-1866頃
現在5点販売中
永貞は御勝山麓藤原永貞と銘し、本名を松井治一郎と称した。文化六年、すなわち一八〇九年に美濃国不破郡で松井直三郎の子として生まれ、説明書はその作刀の生涯が三国にまたがったことを伝える。一時は紀州徳川家の御用鍛冶を勤め、万延元年頃には伊勢国田丸に鍛刀し、文久二年頃からは江戸青山に住して作刀を続け、明治二年に六十歳ないし六十一歳で歿したという。銘に繰り返し見える「御勝山」は郷里の表佐の北に位する地を指し、彼はそこから刀工名を採った。年紀のある作はいずれも幕末に属し、慶応元年に江府で精鍛した一刀もそのうちにあって、彼を、校名の由来する古い末関ではなく、新々刀の復古の中に位置づける。
その典型の手は、幕末の工が好んだ豪壮な体配の太刀姿である。身幅広く元先の幅差は目立たず、重ね厚く、反り浅く、中鋒が延びて、全体にがっちりとした堂々たる造込みをなす。この造込みに、大互の目・頭の丸い互の目・小互の目、まま尖りごころの刃を交えた華やかな互の目乱れを焼く。説明書はこれを「華やかに乱れ」る刃と評し、足・葉さかんに入り、匂深く、沸がよくむらなくつき、荒めの沸を交え、総体に砂流し・金筋・長い沸筋が頻りにかかって匂口明るいとする。なかでも一作に常に見える一点を鑑者は特記する。三ツ棟である。ある説明書はこれを「この工の見どころ」[[c:1]]と呼ぶ。
その刃を支える地鉄は、つんだ板目に、時に小板目・杢を交えた地で、地沸厚くつき細かな地景が入る。最も長寸の一作では腰元にやや肌立ちごころの肌合が交じるが、おおむねは緊密でよく鍛えた地の感がある。ここに備前や山城の地に見るような映りはなく、その作の明るさは、むしろ匂の深さと沸の冴えから来る。帽子は下の刃に応じて直ぐまたは浅くのたれて小丸に返り、先を掃きかけ、時に横手を深く焼き込んで返る。一作では物打辺の棟寄りに飛焼・棟焼を見せる。茎はいずれも生ぶで、先を刃上り栗尻に仕立て、大筋違の鑢に化粧を施し、その全名を記す長銘と、裏に年紀および駐鎚の地を切る。
指定の記録に残る作群はその作風において一様で、いずれも江戸期円熟の在銘の刀であるから、彼の作は段階よりも一つの完成した作域を全力で示したものとして読まれる。そのなかで鑑者は強さの段階を引く。最も冴えた、「出色」「華やかな」と呼ぶ作は、大互の目・頭の丸い互の目と深い沸をその華麗の極みまで押し進め、より静かな作は同じ要素をより締まった乱れに収める。二作の彫物、表の「八幡大菩薩」の文字と裏の護摩箸は、幕末の作に通う祈願と尚武の趣味に属する。説明書が立ち返る主題は年代や代ではなく類似であり、その手はある名高い隣家に極めて近く、眼は両者の分け方を教えられねばならない。
その隣家とは清麿一門である。説明書は繰り返し、その豪壮な姿、沸深い互の目乱れ、頻りな金筋・砂流しが一見清麿の門に見紛うとし、「清麿一門に見紛う」[[c:2]]の語が再三現れる。そこで鑑者が引く区別は精確で、それこそが彼の鑑定の核をなす。刃中に、清麿一門のよく示す丁子がかった刃や角ばる互の目は見られず、「丁子がかった刃や角ばる互の目などは見られず」[[c:3]]、代わりに大互の目・頭の丸い互の目が目立ち、まま尖った刃が入り、帽子は尖らず先を丸く返す。これらの特色と、頻りな三ツ棟とによって、説明書はその手を、最も似た一門から分かつ。すなわち彼は、清麿の作風を行いつつその門には属さない、独立した幕末の名工であり、紀州徳川家のため、のち江戸でその復古の作域を鍛えた美濃出身の工である。
永貞は指定の記録には稀な名である。その刀は五口が重要刀剣に列し、いずれも在銘で、特別重要刀剣・重要文化財・国宝の各位には及ばない。来歴は一口に記録があり、佐藤義問の手を経た。これらが、私の蒐集家が現実に出会いを望みうる作であって、市場に現れるのは時折、根気を要し、その在銘の刀が出ることは恒常の出物というより一つの見るべき出来事である。鑑者自身の評がその求められる所以を示す。西堀光徳のために作られた慶応元年の刀について、説明書は地刃の出来が極めてよく「代表作と称すべき」[[c:4]]一口とし、別の一作については匂深く、沸むらなくつき、匂口の明るい点が特筆されるとし、最も豪壮な一作については大柄な体配と相俟って迫力が感じられる優品とする。永貞の在銘の刀は、幕末の一つの手に、豪壮な新々刀の姿と、沸の豊かな清麿風の作域を、清麿その人に一歩を残して具えたものである。
永貞の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
美濃伝 · 美濃
現在150点販売中
美濃国の関は、南北朝より室町、新刀期に至るまで日本刀の一大生産地として栄えた鍛冶の地である。その源流は二つに発し、説明書は金重と志津兼氏とを並べて美濃鍛冶の祖とする。金重は『古今銘尽』に法名道阿、越前敦賀の住人と伝えられ、敦賀より関へ越えて住したといい、相州正宗十哲の一に数えられて、沸の厚い穏やかな手を美濃の地鉄に持ち込んだ。兼氏に発する志津の系は、尖り互の目に走る乱調をもって、いま一つの根をなす。この二流が南北朝の美濃伝を形づくり、金行のごとく金重に続く工、室町に入って善定派の兼吉のように大和手掻の血を関に運んだ工が加わって、流れは広がった。室町後期には兼元・兼定の二名を頂点とする末関の隆盛を迎え、孫六兼元の名と和泉守兼定の受領とが、地方の量産地にとどまらぬ関の格を世に示した。大和と相州の二つの源流に、備前を意識した白け映りの地が結ばれて、美濃伝という一個の伝法が立ったのである。 関物を貫くのは、工と系統の差を越えて繰り返される美濃の共通語法である。地鉄は板目に柾を交えてしばしば肌立ち、刃寄りに柾がかり、鎬地は柾に流れる。その地に立つ映りは備前の明るい乱れ映りではなく、淡く白ける美濃鉄の靄のような白け映りで、説明書はこれを終始、備前と作を分かつ見どころとして掲げる。刃文は互の目を主調に尖り刃を交え、兼元にあっては整然と並ぶ尖り刃の三本杉となり、兼定や兼之にあっては頭の丸い互の目とのたれを交えて変化に富む。沸は乾いて締まり、匂口は冴え、足入り、砂流し・細かな金筋が刃中を走る。帽子は乱れ込んで先尖りごころとなり、あるいは丸く地蔵風に返る。これらは関の背骨をなす型であって、工により濃淡を異にする。金重・金行の手は穏やかで地が肌立ち、善定兼吉は大和の血を負って締った直刃と柾がかる板目を見せ、末関の氏房は大らかなのたれに尖り刃を折り込み、兼房は頭の丸い互の目の兼房乱れを得意とする。同じ語法のうちに、それぞれの工の手が読み分けられる。 収集家が関物を求めるのは、その鑑定が手応えを伴う一個の眼の修練だからである。映りが白く沸が乾いて締まる美濃の地刃は、備前の華やかな映りとも、山城の長く澄んだ直刃とも異なり、これを見分けることが関を識る勘所となる。主要工の格は説明書の評にそのまま現れる。孫六兼元は三本杉の創始者として名を成し、和泉守兼定すなわちノサダは、白ける板目に焼いた賑やかな美濃の刃と来国俊風の細直刃の双方を能くして、古刀期に珍しい受領を許され、刀剣書が「すぐれたる上手」と評する当代第一の手とされる。兼之は末関中最もよく練れた鍛えを見せて作域広く、永正・大永のノサダとして賞玩が厚い。これらの名は将軍家・大名家の伝来を負い、ノサダの太刀には武田信虎のために打たれた一口があり、菊花紋を切った刀は皇室との関わりを示し、徳川将軍家への献上を経た金重の短刀も伝わる。末関の氏房一門は清須・名古屋へ移って尾張新刀三祖の一を生み、古い美濃の手が新たな伝統へ移る蝶番に立った。切れ味をもって武用に応えた量産の地でありながら、孫六兼元らの最上手の作は美術的価値においても高く評され、その白け映りと乾いた沸の手を識ることが、美濃伝いかに始まり継がれたかを語る証となる。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト返品をご希望の場合、お客様が受領されてから3日以内にお知らせください。この期間を過ぎますとキャンセルはお受けできかねますので何卒ご了承ください。なお当社へのご返送は、5営業日以内の発送をお願いしております。なおキャンセルは販売した当時の状態がそのまま保持されている事が条件となりますのでお取り扱いには十分ご注意下さい。
刀剣番号:AS25797 刀:白鞘入り(NBTHK 特別保存刀剣) 銘文:美濃国御勝山麓住人藤原永貞 慶應二年八月日 於江戸青山造之 鞘書き:銘 美濃国御勝山麓住人藤原永貞 慶應二年八月日 於江戸青山造之 新々刀大鑑所載 紀州徳川家抱工 同工中、白眉といえる健全な傑作。 長さ 二尺五寸。青山刻。 (弊社では刀剣の出来映えにより、最上作、上々作、上作、普通作の4段階に評価しております。本作は永貞の作品の中でも「上々作」にランクされる傑作です。) ハバキ:金着二重ハバキ 刃長:75.76 cm (2 shaku 5 sun) 反り:1.52 cm 目釘穴:2個 元幅:3.28 cm 先幅:2.15 cm 重ね:0.68 cm 刀身重量:785 g 体配:身幅広く重ね厚く、大切っ先となり、反り適度についた、極めて姿の良い堂々とした体配。 地鉄:小板目肌よく詰んで、地沸がつき、地景が入る精良な地鉄。 刃文:沸出来の互の目乱れ。刃中に金筋が働き、帽子は匂口深く、返りもしっかりと残る。 特徴:『新々刀大鑑』所載。 永貞は美濃国赤坂千手院の末流で、同門にて修行を積んだ。 現在の岐阜県不破郡垂井町表佐の出身で、本姓は松井、名は修。 母方の実家は田村城に近い田村町であった。 松井家は伊勢国の出身と伝えられ、その縁から伊勢の玉丸(玉城)に赴いて作刀することもあった。 玉丸に定住はしなかったが、御勝山に居住したと伝えられる。 歴史的な関ヶ原の戦いにおいて、徳川家康がこの地に本陣を構えて全軍を指揮し、勝利を収めたことから「御勝山」と呼ばれるようになった。永貞は……
Certificate reading — 銘 美濃國御勝山麓住人藤原永貞 慶應二年八月日於江戸青山造之
在銘 · 文久〜慶応 · 長さ 75.76cm · 反り 1.52cm





Seki (Mino), shinshinto · 美濃 · 1862-1866頃
現在5点販売中
永貞は御勝山麓藤原永貞と銘し、本名を松井治一郎と称した。文化六年、すなわち一八〇九年に美濃国不破郡で松井直三郎の子として生まれ、説明書はその作刀の生涯が三国にまたがったことを伝える。一時は紀州徳川家の御用鍛冶を勤め、万延元年頃には伊勢国田丸に鍛刀し、文久二年頃からは江戸青山に住して作刀を続け、明治二年に六十歳ないし六十一歳で歿したという。銘に繰り返し見える「御勝山」は郷里の表佐の北に位する地を指し、彼はそこから刀工名を採った。年紀のある作はいずれも幕末に属し、慶応元年に江府で精鍛した一刀もそのうちにあって、彼を、校名の由来する古い末関ではなく、新々刀の復古の中に位置づける。
その典型の手は、幕末の工が好んだ豪壮な体配の太刀姿である。身幅広く元先の幅差は目立たず、重ね厚く、反り浅く、中鋒が延びて、全体にがっちりとした堂々たる造込みをなす。この造込みに、大互の目・頭の丸い互の目・小互の目、まま尖りごころの刃を交えた華やかな互の目乱れを焼く。説明書はこれを「華やかに乱れ」る刃と評し、足・葉さかんに入り、匂深く、沸がよくむらなくつき、荒めの沸を交え、総体に砂流し・金筋・長い沸筋が頻りにかかって匂口明るいとする。なかでも一作に常に見える一点を鑑者は特記する。三ツ棟である。ある説明書はこれを「この工の見どころ」[[c:1]]と呼ぶ。
その刃を支える地鉄は、つんだ板目に、時に小板目・杢を交えた地で、地沸厚くつき細かな地景が入る。最も長寸の一作では腰元にやや肌立ちごころの肌合が交じるが、おおむねは緊密でよく鍛えた地の感がある。ここに備前や山城の地に見るような映りはなく、その作の明るさは、むしろ匂の深さと沸の冴えから来る。帽子は下の刃に応じて直ぐまたは浅くのたれて小丸に返り、先を掃きかけ、時に横手を深く焼き込んで返る。一作では物打辺の棟寄りに飛焼・棟焼を見せる。茎はいずれも生ぶで、先を刃上り栗尻に仕立て、大筋違の鑢に化粧を施し、その全名を記す長銘と、裏に年紀および駐鎚の地を切る。
指定の記録に残る作群はその作風において一様で、いずれも江戸期円熟の在銘の刀であるから、彼の作は段階よりも一つの完成した作域を全力で示したものとして読まれる。そのなかで鑑者は強さの段階を引く。最も冴えた、「出色」「華やかな」と呼ぶ作は、大互の目・頭の丸い互の目と深い沸をその華麗の極みまで押し進め、より静かな作は同じ要素をより締まった乱れに収める。二作の彫物、表の「八幡大菩薩」の文字と裏の護摩箸は、幕末の作に通う祈願と尚武の趣味に属する。説明書が立ち返る主題は年代や代ではなく類似であり、その手はある名高い隣家に極めて近く、眼は両者の分け方を教えられねばならない。
その隣家とは清麿一門である。説明書は繰り返し、その豪壮な姿、沸深い互の目乱れ、頻りな金筋・砂流しが一見清麿の門に見紛うとし、「清麿一門に見紛う」[[c:2]]の語が再三現れる。そこで鑑者が引く区別は精確で、それこそが彼の鑑定の核をなす。刃中に、清麿一門のよく示す丁子がかった刃や角ばる互の目は見られず、「丁子がかった刃や角ばる互の目などは見られず」[[c:3]]、代わりに大互の目・頭の丸い互の目が目立ち、まま尖った刃が入り、帽子は尖らず先を丸く返す。これらの特色と、頻りな三ツ棟とによって、説明書はその手を、最も似た一門から分かつ。すなわち彼は、清麿の作風を行いつつその門には属さない、独立した幕末の名工であり、紀州徳川家のため、のち江戸でその復古の作域を鍛えた美濃出身の工である。
永貞は指定の記録には稀な名である。その刀は五口が重要刀剣に列し、いずれも在銘で、特別重要刀剣・重要文化財・国宝の各位には及ばない。来歴は一口に記録があり、佐藤義問の手を経た。これらが、私の蒐集家が現実に出会いを望みうる作であって、市場に現れるのは時折、根気を要し、その在銘の刀が出ることは恒常の出物というより一つの見るべき出来事である。鑑者自身の評がその求められる所以を示す。西堀光徳のために作られた慶応元年の刀について、説明書は地刃の出来が極めてよく「代表作と称すべき」[[c:4]]一口とし、別の一作については匂深く、沸むらなくつき、匂口の明るい点が特筆されるとし、最も豪壮な一作については大柄な体配と相俟って迫力が感じられる優品とする。永貞の在銘の刀は、幕末の一つの手に、豪壮な新々刀の姿と、沸の豊かな清麿風の作域を、清麿その人に一歩を残して具えたものである。
永貞の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
美濃伝 · 美濃
現在150点販売中
美濃国の関は、南北朝より室町、新刀期に至るまで日本刀の一大生産地として栄えた鍛冶の地である。その源流は二つに発し、説明書は金重と志津兼氏とを並べて美濃鍛冶の祖とする。金重は『古今銘尽』に法名道阿、越前敦賀の住人と伝えられ、敦賀より関へ越えて住したといい、相州正宗十哲の一に数えられて、沸の厚い穏やかな手を美濃の地鉄に持ち込んだ。兼氏に発する志津の系は、尖り互の目に走る乱調をもって、いま一つの根をなす。この二流が南北朝の美濃伝を形づくり、金行のごとく金重に続く工、室町に入って善定派の兼吉のように大和手掻の血を関に運んだ工が加わって、流れは広がった。室町後期には兼元・兼定の二名を頂点とする末関の隆盛を迎え、孫六兼元の名と和泉守兼定の受領とが、地方の量産地にとどまらぬ関の格を世に示した。大和と相州の二つの源流に、備前を意識した白け映りの地が結ばれて、美濃伝という一個の伝法が立ったのである。 関物を貫くのは、工と系統の差を越えて繰り返される美濃の共通語法である。地鉄は板目に柾を交えてしばしば肌立ち、刃寄りに柾がかり、鎬地は柾に流れる。その地に立つ映りは備前の明るい乱れ映りではなく、淡く白ける美濃鉄の靄のような白け映りで、説明書はこれを終始、備前と作を分かつ見どころとして掲げる。刃文は互の目を主調に尖り刃を交え、兼元にあっては整然と並ぶ尖り刃の三本杉となり、兼定や兼之にあっては頭の丸い互の目とのたれを交えて変化に富む。沸は乾いて締まり、匂口は冴え、足入り、砂流し・細かな金筋が刃中を走る。帽子は乱れ込んで先尖りごころとなり、あるいは丸く地蔵風に返る。これらは関の背骨をなす型であって、工により濃淡を異にする。金重・金行の手は穏やかで地が肌立ち、善定兼吉は大和の血を負って締った直刃と柾がかる板目を見せ、末関の氏房は大らかなのたれに尖り刃を折り込み、兼房は頭の丸い互の目の兼房乱れを得意とする。同じ語法のうちに、それぞれの工の手が読み分けられる。 収集家が関物を求めるのは、その鑑定が手応えを伴う一個の眼の修練だからである。映りが白く沸が乾いて締まる美濃の地刃は、備前の華やかな映りとも、山城の長く澄んだ直刃とも異なり、これを見分けることが関を識る勘所となる。主要工の格は説明書の評にそのまま現れる。孫六兼元は三本杉の創始者として名を成し、和泉守兼定すなわちノサダは、白ける板目に焼いた賑やかな美濃の刃と来国俊風の細直刃の双方を能くして、古刀期に珍しい受領を許され、刀剣書が「すぐれたる上手」と評する当代第一の手とされる。兼之は末関中最もよく練れた鍛えを見せて作域広く、永正・大永のノサダとして賞玩が厚い。これらの名は将軍家・大名家の伝来を負い、ノサダの太刀には武田信虎のために打たれた一口があり、菊花紋を切った刀は皇室との関わりを示し、徳川将軍家への献上を経た金重の短刀も伝わる。末関の氏房一門は清須・名古屋へ移って尾張新刀三祖の一を生み、古い美濃の手が新たな伝統へ移る蝶番に立った。切れ味をもって武用に応えた量産の地でありながら、孫六兼元らの最上手の作は美術的価値においても高く評され、その白け映りと乾いた沸の手を識ることが、美濃伝いかに始まり継がれたかを語る証となる。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト返品をご希望の場合、お客様が受領されてから3日以内にお知らせください。この期間を過ぎますとキャンセルはお受けできかねますので何卒ご了承ください。なお当社へのご返送は、5営業日以内の発送をお願いしております。なおキャンセルは販売した当時の状態がそのまま保持されている事が条件となりますのでお取り扱いには十分ご注意下さい。