
















江戸
在銘
町彫 · Edo
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大森英秀は「龍雨斎大森英秀」と号を冠して銘を切り、明和七年(一七七〇)六月の年紀を添えた樊噲図鐔によって、江戸中期の金工としてその位置を定められる。説明は、英秀を横谷宗珉の弟子大森英昌の甥とし、通称を喜惣次という。英昌に師事して大森派の二代目となり、のち養子となったとする記述も、英昌の子で「父に優る上手である」[[c:1]]とする記述もある。諸書はこれを「一派に興隆をもたらした名人である」[[c:2]]とし、大森派は「横谷門の中でも大きな一派として繁栄した」[[c:3]]と記す。
説明はほぼ毎回、英秀自身の創意として二つを挙げる。一つは「大森波と呼ばれる立体的な波濤図を創案し」[[c:4]]とされる大森波であり、一つは塵紙象嵌とも梨子地象嵌とも呼ばれる、蒔絵を思わせる金平象嵌の技法で、これによって雅な趣を高めたという。大森波をあらわした縁頭について説明は「鋤出彫で彫られた逆巻く波濤には高低があって誠に力強く」[[c:5]]と評し、群千鳥の目貫と合わせて「英秀の本領が充分に発揮された力作」[[c:6]]とする。
彫法は赤銅魚子地に高彫色絵で、獅子・動物・鳥類・花卉・人物図を好んで彫る。緋色銅を効果的に用い、目貫は金無垢地や四分一地の容彫とする。鉄地鋤出高彫の鬼鍾馗図鐔では奈良派の作風を参考にするなど構図と鏨法に工夫のあとがあり、説明は「流石に英秀の力量は抜群であり」[[c:7]]と記す。画題の筆頭は牡丹獅子で、大小鐔については「同じ横谷派の流れである柳川派の作と見誤るほど華麗な作である」[[c:8]]とし、龍雨斎銘の鐔については全面から「華麗」「迫力」という言葉が浮かぶと評する。ほかに樊噲、宇治川先陣、御幣猿、普賢文殊菩薩、猛禽と猿猴などがあり、木挽町狩野の栄川院典信の下絵による牡丹図縁頭もある。
英秀はまた彦根藩主井伊家のために、橘紋を金色絵で散らした一作金具の拵を手がけた。細太刀拵について説明は「江戸時代大名所要の儀仗太刀の作者の明確な遺例として貴重であり」[[c:9]]とし、黒蠟色塗鞘の大小拵は式正に適った裃指とされる。
指定を受けた作は十五点で、うち二点が特別重要刀装具、十三点が重要刀装具であり、いずれも在銘である。特別重要刀装具は明和七年紀の樊噲図鐔と井伊家伝来の細太刀拵である。国宝・重要文化財はない。伝来は彦根の井伊家と伊予の久松松平家が記録され、現所蔵者の記録はない。牡丹獅子や大森波の作が世に出ることは時折に限られ、年紀や龍雨斎銘のあるものはさらに稀である。
英秀の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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町彫 · Edo
現在16点販売中
大森派は、江戸に興った町彫の名門である。祖は横谷宗珉の門人大森英昌であり、十八世紀前半、享保の頃に江戸で一家を成した。英昌の甥で通称を喜惣次という英秀(号龍雨斎)は、英昌に師事してその跡を継ぎ、横谷派の中でも有力な一派を築いて活躍し、審査説明において繰り返し「一派に興隆をもたらした名人」[[c:2]]と称される。英秀在銘の樊噲図鐔に「明和庚寅六月吉日」[[c:3]]の年紀が刻されることは、その円熟期の活動を明示する好資料である。家督はその後、秀永を経て英秀の五男英満へと受け継がれ、門人の秀知が「東都隅田川辺」と製作地を明記するように、一門の本拠は終始江戸の地にあって幕末に至るまで栄えた。 一派の作風の根幹は、赤銅魚子地に高彫を施し、金・銀・四分一・素銅・緋色銅等の象嵌色絵を加える彫法にあり、獅子・動物・鳥類・花卉・人物図を好んで彫った。とりわけ英秀は、大森浪と呼ばれる独特の立体的な波濤図を創案し、金消技法の砂子象嵌、あるいは塵紙象嵌とも梨子地象嵌とも呼ばれる蒔絵を想起させる金平象嵌の技法をあみだして雅な趣を高めており、これこそが大森派の眼目である。画題は牡丹獅子、旭日波濤に猛禽、竹に虎、波濤魚尽、宇治川先陣、鴻門の会の樊噲、七福神鶴亀など和漢にわたり、武家に好まれた故事・武者絵を、力強くも細緻な高彫と鮮やかな色絵で描き切るところに「大森流の重厚な高彫」[[c:4]]の本領が示される。代を下った英満は、父祖の彫法を守りながらも時流の変化を受け入れて工夫を凝らしながら一門を繁栄に導き、鉄石目地に鋤出高彫を施した白鷺図大小鐔では狩野洞白愛信の下絵に拠るなど、当時の絵師との交流をも窺わせる。また英満門人の満辰が師銘をもって代作した例も知られ、隆盛した工房制作の実態を今日に伝えている。 大森派の彫技は大名の儀仗にも用いられ、彦根藩主井伊家伝来の金平目地鞘橘紋金具細太刀拵は、英秀一作の金具に井伊家の橘紋を高彫金色絵で配した整緻にして豪華な作であり、江戸時代大名所用の儀仗太刀の作者の明確な遺例として貴重とされる。門流もまた広く、龍鱗齋大森定兵衛と称した秀知は『江都金工銘譜』に「英秀ノ一弟子也」と記される腕達者であり、水戸分家守山藩士の遅塚久則は英秀に彫金を師事し、『夏雄彫金談』に「賞翫すべき彫法なり。色絵丁寧にして極彩風の仕方なり」[[c:5]]と評される細密濃麗な象嵌をもって独歩の域に達した。浜野政隨の没後に英秀の門に入った堀江興成は、後に阿波蜂須賀家の抱え工となって一門の子弟を多く養成し、その嫡子興吉に技を伝えた。さらに英秀と秀知に学んだ泉秀寿の存在も知られ、大森の彫法は幕末の町彫金工に広く波及した。立体的な波濤表現と豊麗な高彫色絵を旨とするその様式は、横谷派中屈指の有力な一流として、刀装具史に確固たる地位を占めている。 詳しく見る →