大森英秀は「龍雨斎大森英秀」と号を冠して銘を切り、明和七年(一七七〇)六月の年紀を添えた樊噲図鐔によって、江戸中期の金工としてその位置を定められる。説明は、英秀を横谷宗珉の弟子大森英昌の甥とし、通称を喜惣次という。英昌に師事して大森派の二代目となり、のち養子となったとする記述も、英昌の子で「父に優る上手である」とする記述もある。諸書はこれを「一派に興隆をもたらした名人である」とし、大森派は「横谷門の中でも大きな一派として繁栄した」と記す。
説明はほぼ毎回、英秀自身の創意として二つを挙げる。一つは「大森波と呼ばれる立体的な波濤図を創案し」とされる大森波であり、一つは塵紙象嵌とも梨子地象嵌とも呼ばれる、蒔絵を思わせる金平象嵌の技法で、これによって雅な趣を高めたという。大森波をあらわした縁頭について説明は「鋤出彫で彫られた逆巻く波濤には高低があって誠に力強く」と評し、群千鳥の目貫と合わせて「英秀の本領が充分に発揮された力作」とする。
彫法は赤銅魚子地に高彫色絵で、獅子・動物・鳥類・花卉・人物図を好んで彫る。緋色銅を効果的に用い、目貫は金無垢地や四分一地の容彫とする。鉄地鋤出高彫の鬼鍾馗図鐔では奈良派の作風を参考にするなど構図と鏨法に工夫のあとがあり、説明は「流石に英秀の力量は抜群であり」と記す。画題の筆頭は牡丹獅子で、大小鐔については「同じ横谷派の流れである柳川派の作と見誤るほど華麗な作である」とし、龍雨斎銘の鐔については全面から「華麗」「迫力」という言葉が浮かぶと評する。ほかに樊噲、宇治川先陣、御幣猿、普賢文殊菩薩、猛禽と猿猴などがあり、木挽町狩野の栄川院典信の下絵による牡丹図縁頭もある。
英秀はまた彦根藩主井伊家のために、橘紋を金色絵で散らした一作金具の拵を手がけた。細太刀拵について説明は「江戸時代大名所要の儀仗太刀の作者の明確な遺例として貴重であり」とし、黒蠟色塗鞘の大小拵は式正に適った裃指とされる。
指定を受けた作は十五点で、うち二点が特別重要刀装具、十三点が重要刀装具であり、いずれも在銘である。特別重要刀装具は明和七年紀の樊噲図鐔と井伊家伝来の細太刀拵である。国宝・重要文化財はない。伝来は彦根の井伊家と伊予の久松松平家が記録され、現所蔵者の記録はない。牡丹獅子や大森波の作が世に出ることは時折に限られ、年紀や龍雨斎銘のあるものはさらに稀である。