肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
拵の詳細は末尾に記載しております。 【解説】 本作は、元和三年(1617年)肥前国に生まれた、初代肥前国行廣による見事な脇指です。九州に位置する肥前国は、新刀期(1596-1764年)において最も腕が良く、名高い刀工を数多く輩出した地として知られています。肥前刀はその卓越した切味、手持ちの良さ、そして堅牢さから当時より珍重されてきました。 行廣の現存する最古の作は、寛永十六年(1639年)、彼が22歳の時のものです。慶安元年(1648年)に出羽大掾を受領し、後の寛文三年(1663年)には出羽守へと昇進しました。慶安三年(1650年)には長崎へ赴き、薬師寺種永・久次らに阿蘭陀鍛え(オランダ鍛え)の法を学んだと伝えられています。また、則吉に備前一文字の伝法を学んだとされ、本作の銘にもその証である「一」の字が切られています。 銘:一文字出羽守行廣 長さ:55.7cm(一尺八寸三分強) 本作は寛文年間(1661-1673年)の製作で、寛文四年(1664年)八月二十八日に山野永久によって執行された「二ツ胴・三ツ胴」の金象嵌截断銘が施されています。1663年の出羽守受領と1664年の截断銘から、本作の製作年次は1663年または1664年と特定できます。 刀身は現在、二十年以上枯らした朴の木を用いた新作の白鞘に収められており、田野辺道宏先生(探山)による詳細な鞘書きがございます。また、過去50年から75年ほど使用されていた旧白鞘には、元日本美術刀剣保存協会(日美刀協)理事・審査員であった村上孝介(剣掃)氏の鞘書きがあり、現在は保存のため繋ぎ(木刀)を差して保管しております。 本刀は日美刀協(NBTHK)の「特別保存刀剣」に指定されており、縁頭、目貫、および鍔の各装具もそれぞれ「保存刀装具」の鑑定を受けております。さらに、前所有者のもとで2016年にシカゴで行われたNTHK-NPO(日本刀剣保存工芸機構)の鑑定において、100点満点中78点の高得点を記録した鑑定書も付属いたします。 元日本美術刀剣保存協会・刀剣博物館副館長である田野辺道宏先生は、鞘書きにおいて本作を次のように評されています。 「身幅広く力強い姿を呈し、鍛えは小板目つんで小糠肌となり、刃文は互の目、矢筈、丁子を交え、緩やかな湾れを以て連なる。沸深く、谷の部分では匂口が広くベルト状となる。帽子は直ぐに小丸へ返り、匂口明るく冴え、同工の教科書的な作域を示すとともに、出来栄え極めて優れた傑作である。」 行廣は晩年、長瀬の地で鍋島左京に仕え、天和三年(1683年)五月二十七日、六十六歳で没しました。彼の家系はその後1900年代まで続く名門であり、一族には実兄である初代肥前国正広、養父の吉信、そして祖父である初代肥前国忠吉といった名工が名を連ねています。
Certificate reading — 銘 一文字出羽守行広(金象嵌)寛文四年八月廿八日 山野加右衛門六十七歳永久(花押)二ッ胴三ッ胴截断








































Hizen (waki-Hizen / Soba-Hizen, Saga) · 肥前 · 1639-1683頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位23%
現在8点販売中
初代出羽守行広は元和三年、橋本吉信の次男として生まれ、通称を九郎兵衛という。兄に河内大掾正広がおり、すなわち初代忠吉の孫にあたる。佐賀にあって本家ではなく、説明書が傍肥前と呼ぶ肥前一門の傍系で作刀した。正保五年に出羽大掾を受領し、寛文三年に出羽守に転じ、天和二年に六十六歳で歿している。行広の名は数代に及び、説明書はこの点に慎重で、ある刀について「同名数代、これは初代作である」[[c:1]]と記す。
肥前一門のなかで、その作風は何よりも華やかな丁子によって知られ、古い説明書は端的に「作風は一門中でもとくに華やかな丁子を焼く」[[c:2]]とする。優品の刀では焼幅広く、丁子乱れに互の目・角ばる刃・頭の丸い互の目・矢筈風の刃などを交え、処々箱がかり、大きく華やかに乱れる。足長くさかんに入り、匂深く、沸厚くつく。総体に砂流し長くかかり金筋入り、匂口明るい。説明書は「竪長の足長丁子乱れは、初代行広にまま見るところであり、同工の特色が表示されている」[[c:3]]とする。出色の二口については常の作よりも金筋・砂流しが目立つとし、うち一口には湯走り風の飛焼にも趣ある風情が顕現されているとする。
地鉄は肥前のそれで、よくつんだ小板目に地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入り、説明書は数口について精美な米糠肌とする。ある刀については、地がねがやや黒みを帯びる点と乱れの元が直ぐに焼出し風となる点とを併せ、「傍肥前の見どころの一つとして捉えてよい」[[c:4]]とする。もう一口の刀にも元に直ぐの焼出しがある。帽子は直ぐに小丸、作によっては大丸となり、しばしば掃きかけ、時に深く返る。
丁子と並んで、一門伝統の直刃をも能くした。薙刀は小板目のよくつんだ肌に伝統的な直刃を焼き、匂口明るく冴える。ある刀は米糠肌に直刃調の刃を焼き、元に腰刃をおもわせる角ばるのたれを交える。匂深く小沸厚くつく広直刃の刀について、説明書は同工としては比較的珍しい直刃の作例としつつ「本家の直刃に見紛う出来映え」[[c:5]]とする。ある脇指は、上を直刃・腰元を互の目とする肥前刀の常とは逆に、上半を丁子に互の目、下半を直刃調の浅いのたれとし、同派の中で珍しい作柄とされるが、上半はなお彼の得意とした乱れ刃である。
刃文とは別の一筋が阿蘭陀鍛である。慶安三年に長崎におもむき、阿蘭陀鍛冶久次および薬師寺種永について阿蘭陀鍛えを学んだといい、これは要するに南蛮鉄の処理の方法であって、以後「阿蘭陀鍛作」と添銘をしたものが多く見られる。茎に「一」の字を切ることを常とし、稀に「肥前一文字」と切ったものもある。その一口には阿蘭陀鍛の添銘がなく、説明書は阿蘭陀鍛でないためであろうとする。比較において最も近いのは兄その人で、大きく華やかに乱れた互の目乱れの刀について説明書は「一見すれば、むしろ兄の正広の作柄を思わせるものである」[[c:6]]とし、別の一口を殆んど正広の傑作を思わせるとする。実子の二代出羽守行広は初銘を行永と切り藤馬丞と号し、初代の没した二年後の貞享元年に出羽守を受領した。
指定を受けた作は重要刀剣十五口で、それ以上の位のものはなく、藤代は上作とする。年紀作は少ない。寛文八年紀の刀は五十一歳の作で阿蘭陀鍛の添銘を帯び、説明書は「寛文八年紀も貴重な資料である」[[c:7]]とする。延宝六年紀の長寸の刀は大神宮への奉納刀で、長寸の大作ながら地刃に破綻がない。現在の所蔵者は記録されていない。在銘の重要刀剣は時に市場に現れるが、指定刀の多くと同じく、売買されるより所蔵され続けることの方がはるかに多い。
行廣の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新刀 · 肥前
現在132点販売中
肥前派は、肥前佐賀の城下を中心に興った新刀期の一流であり、その祖は橋本新左衛門と称した初代忠吉である。資料によれば、初代は鍋島家の抱え工として、慶長元年に藩命により彫工宗長とともに上洛して京の埋忠明寿の門に入り、忠吉は鍛刀を、宗長は彫技を学んだという。同三年に帰国して佐賀城下に住し、鍋島藩の庇護のもとに一門は大いに栄えた。年紀は慶長五年に始まり、元和十年には再び上洛して武蔵大掾を受領し、名を忠吉から忠広に、氏を源から藤原に改めている。この改名は同一の手の変遷であって別人ではない。初代の嫡子たる二代近江大掾忠広は六十有余年に及ぶ作刀生活を送って肥前最多作の工となり、本家の忠吉銘は土佐守家を経て三代陸奥守忠吉へと返上襲名されて、上三代の本流を成した。これと並んで、初代の門人や身内から、播磨大掾忠国の系、河内大掾正広に発する正広の系、出羽守行広の系といった分家、すなわち傍肥前と汎称される諸工が興り、代を重ねて佐賀の工房は確立された。 一門の共通する作風は、まずその地鉄に表れる。よく約んだ小板目を緻密に鍛え、地沸が微塵に厚く均しくつき、地景が細かに頻りに入って、かね明るく冴える。資料はこれを肥前特有の米糠肌と名指し、他派の出さない細かく明るい肌であるとする。この精良な地の上に、本家の本領たる中直刃を焼く。浅くのたれごころを帯び、処々に小互の目を交え、小足・葉が入り、匂深く小沸が細かについて締まり明るく、帽子は直ぐに小丸へ静かに返る。本来狙った来一門の直刃に対しては、匂口がより締まって明るく、鍛えに覇気がある点で分かれると説く。一方、初代の初期作には直江志津・古作大和物・来一門・鎌倉名工を狙った多様な写し物があり、掃きかけの帽子など本家の通則の例外も見える。代や系統による差異も資料の支持する範囲で明らかである。二代忠広と三代忠吉は本家本領の静かな直刃を継ぎ、なかでも三代は祖父初代を想わせる強く精美な鍛えを身上とする。これに対し傍肥前の諸工は華やかな乱れ刃を好み、正広は丁子を主調とした乱れに互の目を交え、行広は竪長の足長丁子乱れを焼き、忠国は一門の中で最も砂流しが目立つ足長丁子をあらわした。本家が直刃で読まれるのに対し、傍系はその精良な地を覇気ある乱刃へ運んだのである。 肥前刀の鑑定の勘所は、何よりこの米糠肌にある。明るく冴えた小糠肌の上に締まった直刃を焼くという組合せこそ、収集家が肥前刀を求める核心であり、地鉄と刃文が相俟って同派同定の眼目を成す。さらに銘振りもまた鑑定の一部をなし、本家は刀に指裏すなわち太刀銘に切るのを常とし、五字銘・住人銘・受領銘の別が時期を語る。主要刀工の格は資料の伝える通りで、初代忠吉は藤代の極めで最上作、二代忠広・三代忠吉や正広・行広は上々作ないし上作に位置づけられる。代表作には鍋島家伝来の作が多く、来歴には尾張徳川家・佐竹家・皇室などの名が録され、初代の一口には師明寿の添銘が遺り、忠国・正広の作には山野加右衛門ら截断銘を金象嵌に帯びるものがあって、手のみならず刃味の証となる。指定を受けた作の多くは旧蔵家や公の収蔵に永く蔵されて市に現れることは少なく、傍系の作も折にふれて世に出るにとどまる。されば在銘の肥前忠吉は手の届かぬものではないが、祖その人の作や、最も精美な米糠肌に直刃を焼いた一口が現れることは時折のことであり、現れれば肥前刀の一里塚というべきものである。 詳しく見る →
肥前 藩営の刀
肥前刀は藩営の産業である。鍋島家は1596年頃、忠吉を京の埋忠明寿のもとに学ばせ、帰国したその工を核に公認の一門を築いた。小糠肌で名高いその作は、九代にわたり明治まで続いている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト24 hour inspection period for all Antique items (USA only); all sales final on International orders.
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