正広は吉信の子で、吉信は初代忠吉の門人にしてその女婿であったから、本工は初代忠吉の孫にあたり、出羽守行広の兄である。初銘を正永といい、寛永二年十一月に正広と改めた。初代忠吉歿後は二代近江大掾忠広の側近としてその助手を勤め、説明書は「初代忠吉歿後は二代忠広を助け、良き協力者として大いに活躍した」と記す。また本工を「傍肥前の中でも最も技量が優れており」と評している。寛文五年、五十九歳で歿したという。
河内大掾の受領年については、説明書は慎重である。古来寛永五年の受領と伝えるが、寛永十六年紀の作までは「肥前国佐賀住正広」あるいは「肥前国正広」と銘し、寛永十八年八月紀の作刀から河内大掾を冠したものが見られる。そこで近年は寛永十八年頃の受領とする説が有力であり、これは二代忠広の近江大掾受領の直後にあたって、本工があくまでも本家の助手として働き続けたとする所伝とも符合する。受領前と受領後の銘字の特色を併せ含む一口の重要刀剣は、受領後間もない頃の作と想定され、同工を研究する上で資料的価値が高いとされる。
その作風は本家と対照をなす。本家が直刃を得意とするのに対し、本工は乱れ刃を好み、説明書は端的に「作風は乱れた刃を好んで焼き」と記す。典型の刃文は丁子に互の目・小のたれなどを交えるもので、その丁子は武蔵大掾忠広に見るようなものとされる。元に直ぐの焼出しを見せ、乱れと乱れの間を焼の低い浅いのたれの繋ぎの刃で結ぶものがあり、これらは傍肥前の刀工たちの乱れ刃の大きな見どころとされる。焼に高低を表し、足・葉よく入り、匂口深く明るく、乱れの谷に沸が厚く凝る。金筋・砂流しがかかり、刃中の金筋が長く目立つ作も特筆される。頭の丸い互の目を交える点は刃取りの見どころとされ、焼幅を広めに取って華やかな丁子乱れを展開するところは「正に彼の独壇場である」と評される。
地鉄は多くが肥前の精良な鍛えで、小板目肌がよくつんで地沸がつき、作によっては地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入る。ただし数口は板目が肌立つ。帽子は直ぐに小丸に返って掃きかけ、時に僅かに乱れ込む。姿は身幅広く寸の延びたものが多く、鋒の大きく延びた一刀は動勢に富んで力強く豪壮と評される。説明書はその作を「本家忠吉家の作よりも自然、覇気のある作が多く」と読む。
直刃もよくしたが、その作は比較的少ない。匂深の中直刃に小沸がむらなくよくつき、匂口の明るく冴えた一口の脇指は、同作中でも特に優れた直刃出来とされ、説明書は「乱れ刃のみならず、直刃に於ても初代正広の技量の高さを窺うことが出来る」と結ぶ。寛永十一年紀の互の目に小丁子交じりの刀については「この刀はその白眉である」と記される。本家との弁別として説明書は二点を挙げる。刀は皆指裏に銘を切ること、そして鑢目が本家と異なって筋違を用い、初期作では茎先が細って大筋違となることである。銘字は晩年になるに従い小振りとなる。
藤代の極めは上々作。国宝・重要文化財はなく、その記録は重要刀剣の位にあって、指定を受けた作は三十口である。年紀作は僅かながら残り、寛永九年から慶安元年、承応四年を経て、最晩年の寛文四年紀の薙刀に及ぶ。数口には同国の吉長による彫物があり、ある脇指の腰樋中に浮彫された指月布袋は肥前刀の作品中でも極めて珍らしい図柄とされ、類例は吉長の手による武蔵大掾忠広の脇指に一口を見るのみという。また柳生拵に納まり、柳生連也斎厳包の所持銘を有する脇指もある。来歴の記録はそのほか乏しい。在銘の正広の重要刀剣は、時を得て折々世に現れ、傍肥前随一の技量の工に接する機会となる。