忠國は、播磨大掾、のち播磨守を冠した藤原忠国の初代である。初銘を広則といい、寛永十一年、三十七歳で播磨大掾を受領して名を忠国と改めた。播磨大掾を冠した作で最も年代の溯る年紀作は寛永十三年である。肥前一門の祖たる初代忠吉の門人で、橋本家の相右衛門吉家の子であり、祖と同じ橋本姓であるところから、説明書は一族であろうと判じ、本家の二代近江大掾忠広よりよほど早く受領したことを記す。佐賀鍋島家の三支藩の一つである小城藩に抱えられ、小城藩工として活躍した。晩年は入道して休鉄と号し、その作は天和年間に及ぶ。
説明書はその手を二様に読み、いずれも上手とするが、本領は華やかな乱れ刃にあるとする。互の目丁子・丁子乱れで、焼幅は総じて広く、丁子頭は時に丸く、互の目に角ばる刃・矢筈風の刃や飛焼を交える。足長く頻りに入り葉を交え、匂深く小沸よくつく。就中この工を名づけるのは砂流しである。説明書はある一刀について「刃中に砂流しがさかんにかかり」、しかも一門の中でこれが最も顕著であるとして、「一派の中でも最もそれが目立つ」と記す。これに金筋を交え、匂口は明るく冴える。丁子の作のもう一つの常は足の長さで、乱刃の場合は「足長丁子に特色がある」と説明書はいう。
両様の地となるのは、よくつんだ肥前の小板目に地沸ついた地で、一門の知られる鍛えである。上作では地沸が微塵に厚く敷かれ地景の入る精美な地となり、かね明るく冴え、晩年の直刃の作には刃寄りに僅かな流れごころを交えるものがあると説明書は記す。その地の上のもう一つの面は静かな作域である。中直刃、時に広直刃を焼き、匂深く足・葉よく入り、細かに金筋・砂流しがかかり、刃縁に二重刃風を交える。説明書はこれを端的に「直刃、乱刃ともに上手」と記し、ある晩年の直刃の刀については、常の手くせに反してここでは「さまで砂流しが目立たず」、総じて穏やかな出来口に仕上げて、この比較的少ない直刃の作域をあらわすとする。帽子はいずれも直ぐに小丸、しばしば掃きかける。
その記録は年代よりも作域によって分かれるが、年紀作が晩年を読ませる。播磨大掾銘がその作の本体を担い、播磨守銘は転任以後、寛文・延宝、そして天和に及ぶ晩年の刀を標す。延宝二年紀の一刀は、変化ある大のたれ乱れを主調として丁子風の刃や飛焼を交え、沸・匂ともに深く、説明書がこれを放胆で覇気あふれた作風と評する。最も意欲的な丁子の作では焼幅を一段と広く大丁子乱れに荒沸を交えて僅かに棟焼を交じえ、これ程焼の高いものは同作中珍しいとして、説明書は初代忠国が「古作の一文字あたりを狙ったものであろうか」と推す。同じ記録はその作の難しさをも明らかにする。二代も播磨守に任じたため初・二代の区別が容易につけ難く、現在二代と称するものの大部分が初代作ではないかとの説があると説明書は記す。
一門の中で忠国を分かつものは、まさに極めの言うところである。地と明るい匂口は肥前共通の遺産で、米糠状に精良な小板目と冴えた刃は、忠吉一門のいずれの工も祖に負うところである。彼自身の見どころはその遺産の上に重ねられる。足長の丁子乱れと、その刃中を一門の何れの手よりも顕著に奔る砂流しである。ある刀について説明書は、その出来を「一見直江志津などの風を見せて上手である」と読み、大和がかった流れる刃は、静かな肥前の直刃の基準から彼の乱刃がいかに遠く達するかの尺度をなす。彼は一門で最も巧みな華やかな丁子の手であり、肥前の地をより明るく働きのある刃に運んだ支流の工である。
収集の観点では、在銘で資料の確かな新刀の名であり、その作はことごとく重要刀剣の位にある。藤代の極めは上作。国宝はなく重要文化財もない。その記録は重要刀剣の各回に及び、説明書は繰り返してこれを同工の代表作・典型作とし、地刃ともに冴えて明るいと評する。うち一口を説明書は「傑出の一口であり、典型作でもある」と称え、彼の乱れ出来の優品とする。数口は山野加右衛門の截断銘を金象嵌に帯び、手のみならず刃味の証となり、茎に菊・蟹牡丹紋を切るものもある。指定を受けた三十口余の作は私蔵・旧家に伝わり、その所有はおおむね記録に残らない。されば在銘の播磨大掾あるいは播磨守忠国は、国宝のように手の届かぬものではなく、時に応じ、根気をもって真摯な収集家のもとに現れる。砂流しの最も盛んに奔る、華やかな丁子の会心の一口は、世に出た折に求むべきものである。