正廣は吉信の子で、傍肥前の流れに属する刀工であり、初め正永と銘し、寛永二年に正廣と改めた。佐賀にあって肥前忠吉一門の周辺に働き、二代近江大掾忠広の側近として勤め、初代忠吉歿後は二代を助けて、説明書のいう良き協力者として活躍した。後に河内大掾を受領し、肥前国河内大掾藤原正広と銘した。受領の年について説明書は率直で、通説は寛永五年とするものの、寛永十六年紀の作まで肥前国佐賀住正広とのみ銘し、受領銘は寛永十八年八月紀の作から見え始めるゆえ、近年はその頃の受領とする。傍肥前、すなわち本家の傍らに働いた分家の刀工の中で、説明書は本工を「傍肥前の中でも最も技量が優れており」と評する。
本工を分かつものは、まさに本家との対照にある。肥前本家が静かで匂深い中直刃をもって読まれるのに対し、正廣はその逆を好んだ。説明書はこれを端的に「作風は乱れた刃を好んで焼き」と記す。その典型の刃文は腰元の中直刃の焼出しから起き、丁子を主調とした乱れに互の目・互の目丁子・大互の目を交え、小のたれや時に尖りごころ・角刃風を帯びる。その丁子を説明書は武蔵大掾忠広のそれに通うものとする。焼に高低を表し、処々乱れの群落を静かな直ぐ調の刃で繋ぎ、足長く葉よく入り、匂口深く、乱れの谷に小沸厚く凝り、少しく飛焼を見せ時に棟焼を交え、砂流しよくかかり長い金筋が入る。ある刀について説明書は、得意とした乱れ刃を焼いてその本領を遺憾なく発揮していると記す。
その華やかな刃の下には、一門と共有する精良な地鉄がある。地鉄は小板目のよくつんだ肥前の米糠肌となり、地沸が微塵に厚く敷かれ細かに地景の入る、明るく冴えた地である。帽子は直ぐに小丸、掃きかけて深く長く返り、時に表は小さく乱れ込む。姿は均整の取れた肥前の格好で、時に身幅広く鋒延びごころ或いは大鋒となって力強く豪壮である。匂口は華やかな作にも静かな作にも明るく、地刃ともに終始変わらぬところである。
しかし本工は一様の手ではない。その記録の一面に、能くした中直刃の作域がある。浅くのたれて小互の目を交えた静かな直刃に、小足・葉入り、細かな金筋・砂流しが自然に織りなされ、匂口は同じ精良な小板目の上に明るい。寛永十一年紀のこの静かな手の重要刀剣の刀を、説明書は本工の白眉とし、「この刀はその白眉である」と記す。年紀作は寛永から寛文にかけて僅かに残り、受領前後の銘字の特色を併せ含む数口の重要刀剣は作刀年代を究める資料として尊ばれる。本工は寛文五年に五十九歳で歿したと伝えられる。
本家との弁別は説明書みずからが引く。直刃より乱れ刃を好む点に加え、本家と異なる筋違の鑢目、刀を常に指裏に銘する習いによって分かたれる。説明書はその作を「本家忠吉家の作よりも自然、覇気のある作が多く」と読み、ある代表作については「彼が得意とした乱れ刃を焼いて、その本領を遺憾なく発揮している」と評する。かくして本工は肥前の分家の手の中で最も技量に富み、傍肥前にあってその出来が最も本家の質に迫りながら、なお独自の作域を保つ工である。
収集の観点では、正廣は得難くも手の届く肥前の名である。藤代の極めは上々作。国宝はなく重要文化財もなく、その記録は重要刀剣の各位を通じ、およそ三十口が指定を受けて、説明書はその最上を地刃ともに力強く放胆で動勢に富む作と評する。資料的興味も高く、ある重要刀剣の脇指は腰樋の中に吉長の手になる指月布袋の浮彫を帯び、説明書はその図柄を肥前刀中極めて珍しく、同国の彫物を研究する上で資料的価値が高いとする。来歴は一部しか記録されておらず、ゆえに静かに述べるのがよい。その作は名家の連なりとしてではなく、所在の知られる私蔵の中に伝わる。在銘の正廣は、本家最上の肥前刀のように手の届かぬものではなく、時を得て折々その重要刀剣の一口が世に現れ、傍肥前最も技量に優れた工の華やかな乱れ刃に接する機会となる。