忠廣は通称を平作郎といい、肥前初代忠吉の嫡子で、佐賀の本家二代を継いだ。寛永九年、晩年に武蔵大掾忠広と称した父が歿した時は未だ十九歳の青年であった。説明書は、彼の天分と技量に加え、「初代当時そのままの弟子達の協力によって」若い頭領が家名を守ったとし、寛永十年紀の作から現存する。寛永十八年七月廿二日に近江大掾を受領し、元禄六年に八十一歳で歿した。作刀歴は六十有余年に及び、説明書の言う通り「肥前刀工中でも最も多くの作品を残している」。
作風は「直刃と丁子乱れの両様があり、いずれも上手である」とされ、なかでも「直刃を最も得意とし」、比較的真直ぐな刃を焼いて匂深く小沸がよくつく。中直刃に時に浅くのたれごころをおびて小互の目を交え、足・葉よく入り、細かに金筋・砂流しがかかり、匂口は部分的に帯状となって明るく冴える。帽子は直ぐに小丸に返る。姿は均整の取れた肥前の反り格好で、時に身幅広く長寸で重ね厚く、元に踏張りごころを見せる。
地鉄は肥前の米糠肌で、一切の緩みなくよくつんだ小板目に地沸が微塵に厚くつき、地景が細かに入って、かね冴える。最上の作について説明書は鍛えのよさを無類とし、地刃ともに冴えるとする。また「真鍛作」の添銘は「肥前刀工中、二代忠広からはじまる」もので、この添銘のある作刀は出来のよいものが多い。
作域は作風のみならず時期によっても分かれる。近江大掾受領までは皆「肥前国住藤原忠広」と初代忠広の献上銘と同様に切り、説明書は両者を「藤」と「廣」の字形で見分ける。「受領以前の作には多く年紀を見るが」受領後の作に年紀は少なく、正保・慶安・延宝の年紀作はそれゆえ貴重とされる。この初期作は若打とされ、受領後の通常の作に比して「こだわりのない放胆さが窺える」。また父の武蔵大掾の作に迫るものがあるのは「初代の協力者達が未だ現存して」彼を助けたためとされる。丁子乱れは両期を通じて見られ、説明書は「丁子乱れは初代を凌ぐ程の上手で」あるとする。焼幅広く互の目を交えた丁子で、「焼頭が比較的揃い、丁子が肩をならべている」ところに「二代忠広の丁子乱れの手くせが窺える」とされ、足が長く頻りに入り乱れの谷に沸がよくつく。これを「いわゆる肥前特有の足長丁子」と呼ぶ。受領の日を年紀とする特別重要刀剣の刀は、来物を写したと思われる古調な中直刃で、「受領に際しての記念作と推測される」。吉長の彫と思われる小振りの短刀は「古作来国光などをねらったものであろう」とされる。
肥前本家にあって、彼の長い作刀歴は初代と後代とをつなぐ。多くの子弟を養い、説明書は「三代忠吉、四代忠吉等もその代作、代銘に任じており」と記す。嫡子三代陸奥守忠吉との父子合作は茎の表裏に各々の銘を切り、比較的多く現存するが、そのうちには説明書が地刃の作風から三代の手になる、或いは三代主導とするものもある。米糠肌に匂深い直刃を焼く彼の作風は、後の肥前刀を読む基準となった。
藤代は上々作に列する。国宝・重要文化財の指定はなく、その位置は特別重要刀剣と重要刀剣の両位にある百三十一口、うち特別重要刀剣三口に拠る。説明書はその一口を「同作中傑出した出来映えをあらわしている」とし、地刃ともに力強く放胆な作と評する。伝来は皇室および彼の家が仕えた鍋島家に及び、ある刀は「藩政時代には肥前国鍋島藩主鍋島勝茂の指料であった一口である」。また一口の薙刀は「鍋島家の女薙刀」の拵に収まって伝わる。多作であったため、近江大掾忠広の在銘作は市場に折々姿を見せ、重要刀剣の一口は根気ある収集家の手の届くところにある。特別重要刀剣や受領以前の年紀作は、時に姿を見せるのみである。