二世紀半の泰平のあいだ、刀は武器である以上に武士の身分の標章であった。江戸の実証と大坂の華やぎのように都市ごとの作風が育ち、時代の末には需要も細っていく。
大和守元平とならび薩摩藩工の双璧を飾る、伯耆守正幸の作品。 伯耆守正幸は二代:伊地知正良の子で、享保18年に生まれ、三代目を継いで正良と名乗った。同国の大和守元平と並んで薩摩新々刀の第一人者であり、寛政元年、元平と時を同じくして「伯耆守」を受領し、「正良」の名を嫡男に譲り、自らは「正幸」と改めた。文政元年、86歳で没している。正幸の作品は身幅が広く、長寸で、重ねも厚く、鋒が延び、一般に頑丈な造込みのものが多く、刃文はのたれに互の目・尖りごころの刃を交え、匂深く、荒めの沸がつき、金筋・砂流しがかかるなど相州伝、就中、「志津」に倣った作柄を得意としている。 本作は、幅広・重ね厚の頑健な造込みに、平肉が殊によくつき、手持ちにズシリとくる誠に雄渾な姿を呈している。鍛えは小板目肌よくつみ、地沸厚くついて荒沸が交じり、地景を交え、白い鍛着線が少しく入る正幸の特色が表れ、刃文は互の目乱れに小のたれ・小互の目・尖り刃等が交じり、足入り、匂深く、沸が厚くつき、荒めの沸を交え、砂流しがかかり、金筋・沸筋がさかんに入って出入りのある変化を目立たせ、物打辺の焼きを総体に比してやや低めにおさえるなど、同工の見所が顕著に表れている。彼の狙いとする志津に倣った色彩が地刃に色濃く表わされているが、本作には混ぜがね状の地景や芋蔓状の金筋・沸筋などが表れていないため、常の作に比して格別に品位の高さを感じさせる。薩摩藩主島津家に伝来し、鶴丸城の御用意刀として収蔵されていた一口で、昭和三年に行われた公爵島津家蔵品入札において同家より売りに出された記録が残されており、同家が古来より所有した歴史的名品の数々が記載された同目録においても写真付きで紹介された同作中の逸品である。
伯耆守正幸は二代伊地知正良の子で、享保十八年に生まれ、三代目を継いで正良と名乗った。寛政元年奥元平と時を同じくして、伯耆守を 受領し、正良の名を嫡男に譲り、自らは正幸と改めた。文政元年八十六歳で歿している。 彼は父祖に優る技術を示し、出藍の誉が高く、薩摩新々 刀鍛冶の中では奥大和守元平と共に双璧である。 正幸の作品は、身幅が広く、 長寸で、重ねも厚く、鋒が延び、一般に頑丈な造込みのものが多 く、刃文はのたれに互の目・尖りごころの刃を交え、匂口が深く、荒めの沸がつき、金筋・砂流しがかかるなど相州伝、就中、志津に倣った作 柄を得意としている。 この刀は、中鋒が延びて身幅が一段と広く、元先の幅差がさまでは目立たず、重ね厚で鎬もやや高く、地肉・平肉が殊によくつき、手持ちに ズシリとくる誠に雄健な姿形を呈している。鍛えは、小板目肌がよくつみ、地沸が厚くついて荒沸が交じり、地景を交え、やや流れて肌立ちご ころの白い鍛着線が少しく入る正幸の特色が表れ、刃文は、互の目乱れに処々尖り刃・大互の目などが交じり、乱れの谷を開いて出入りのある 変化を目立たせ、匂口が深く、 刃沸は荒沸が叢づき、飛焼・湯走り・金筋・砂流しなど刃縁が働き、物打辺の焼きを総体に比してやや低めにお さえるなど、同工の見どころが顕著に示されている。総じて彼の狙いとする志津に倣った色彩が地刃に色濃く表れているが、本作には混ぜがね 状の地景や芋蔓風の金筋・沸筋などが表れていないため、品位の高さを感じさせる出来の秀でた作品である。尚、本作は薩摩藩主島津家に伝来 し、鶴丸城の御用意刀として襲蔵されていた一口である。











販売店の記載のまま
伯耆守正幸は二代伊地知正良の子で、享保十八年に生まれ、三代目を継いで正良と名乗った。寛政元年奥元平と時を同じくして、伯耆守を受領し、正良の名を嫡男に譲り、自らは正幸と改めた。文政元年八十六歳で歿している。 彼は父祖に優る技術を示し、出藍の誉が高く、薩摩新々刀鍛冶の中では奥大和守元平と共に双璧である。 正幸の作品は、身幅が広く、 長寸で、重ねも厚く、鋒が延び、一般に頑丈な造込みのものが多く、刃文はのたれに互の目・尖りごころの刃を交え、匂口が深く、荒めの沸がつき、金筋・砂流しがかかるなど相州伝、就中、志津に倣った作柄を得意としている。 この刀は、中鋒が延びて身幅が一段と広く、元先の幅差がさまでは目立たず、重ね厚で鎬もやや高く、地肉・平肉が殊によくつき、手持ちにズシリとくる誠に雄健な姿形を呈している。鍛えは、小板目肌がよくつみ、地沸が厚くついて荒沸が交じり、地景を交え、やや流れて肌立ちごころの白い鍛着線が少しく入る正幸の特色が表れ、刃文は、互の目乱れに処々尖り刃・大互の目などが交じり、乱れの谷を開いて出入りのある変化を目立たせ、匂口が深く、 刃沸は荒沸が叢づき、飛焼・湯走り・金筋・砂流しなど刃縁が働き、物打辺の焼きを総体に比してやや低めにおさえるなど、同工の見どころが顕著に示されている。総じて彼の狙いとする志津に倣った色彩が地刃に色濃く表れているが、本作には混ぜがね状の地景や芋蔓風の金筋・沸筋などが表れていないため、品位の高さを感じさせる出来の秀でた作品である。尚、本作は薩摩藩主島津家に伝来し、鶴丸城の御用意刀として襲蔵されていた一口である。
Ijichi (Satsuma), shinshinto · 薩摩 · 1772-1817頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位23%
現在6点販売中
伯耆守正幸は薩摩の藩工伊地知家の工で、二代正良の子として享保十八年に生まれた。三代目を継いで正良と名乗り、宝暦の頃より作刀がある。寛政元年、同郷の奥元平が大和守を受領したのと同じ年に伯耆守を受領し、名を正幸と改めた。長寿を保ち、晩年の作には行年銘を添えるものが多く、文政元年あるいは二年に八十六・七歳で没した。説明書は彼を一つの繰り返される併称で位置づける。奥元平とともに「薩摩新々刀中の双璧」[[c:1]]であり、父祖にまさる技量を示して夙に出藍の誉が高かったとする。
本領は身幅広く長寸で頑丈な造込みの刀である。身幅広く、重ね厚く、鋒延びる。その上に小のたれ、あるいは浅いのたれに互の目を焼き、尖りごころの刃を交え、匂深く、やや荒めの沸がつき、砂流し・金筋かかる。説明書はこれを得意の作風とし、本工は「自から相州伝という」[[c:2]]と記す。別の説明はさらに正確に「相州伝、就中、志津に倣った作柄を得意としている」[[c:3]]とする。刃中に長くかかる金筋・沸筋は、薩摩で芋蔓と称される流れ筋である。
地鉄はよく練れた板目で、多く杢・流れ肌を交え、地沸厚くつき地景入り、時に大板目が目立つ。帽子は乱れ込みあるいは直ぐに小丸・大丸に返り、掃きかけ、時に沸崩れごころとなる。茎は殆ど生ぶで、剣形あるいは入山形の先へ細り、鑢目勝手上り、太鏨の大振りの長銘を切る。説明書は身幅広く重ね厚い関係から殆どの作に棒樋を彫るとし、比較的に身幅が尋常な一口は樋を掻かないと記す。
銘は記録を分けるが、作風は分けない。指定作三十六口のうち十二口は正良銘で、明和七年から寛政元年二月までの年紀をもち、説明書はその数口を典型作・出来の優れたものとする。頑丈な姿と、匂深く荒めの沸に砂流し・金筋かかる刃はすでに備わる。前期作の一部を分かつのは刃の基調で、直刃調あるいは広直刃調に浅くのたれ、小互の目・尖り刃を交え、金筋・沸筋が刃中に絡む。説明書はこの手を明和・安永頃の初期作によく見るものとし、「古作の郷や、井上真改などに範をとったと想われる」[[c:4]]とする。天明五年の一口は長さ八六・五糎、手持ちの重い豪壮な刀で、説明書は類例がないとし、「伯耆守正幸畢生の大作にして白眉と称するべきものである」[[c:5]]と評する。
銘文は年紀にとどまらない。寛政十二年に当たる一口の刀は、庚申の日が一年に七度当たる年に鍛えた刀は武運長久を得るという庚申信仰の添銘を切り、説明書は「薩摩国」の国銘を珍しいとする。別の作は茎に「南無八幡大菩薩」の神号を切る。郷国の中で彼は元平と並べて読まれ、奥家と伊地知家は同じ年に受領した。彼を分かつのはその固有の特色、すなわち身幅広く頑丈な姿、匂深い互の目に交じる尖り刃、荒めの沸、流れる芋蔓である。説明書はその芋蔓にも品位の物差しを当て、ある刀を「芋蔓風の金筋・沸筋」[[c:7]]が表れないがゆえに品位の高い作と称える。
収集の上では、正幸は後期薩摩を代表する名の一人で、藤代は上作とする。国宝・重要文化財はなく、現代の指定の上では重要刀剣の格に三十六口が指定され、すべて在銘である。うち二口は郷国の伝来をもつ。一口は薩摩藩主島津家に伝来し、鶴丸城の御用意刀として襲蔵された刀である。もう一口は島津の分家樺山家に伝わり、縁頭と鐺を正幸自らの手になる薩摩拵を伴う。指定作の多くは所蔵され流通せず、相州伝の手を示す在銘の正幸は、折に触れ、根気をもって市場に現れる程度である。古い伝統の固く守られた遺産よりは見出しやすいが、行年銘のある年紀入りの刀は、なお大きな収集である。
正幸の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
大和伝 · 薩摩
現在32点販売中
薩摩国の刀工群は、南九州の地に拠り、島津家の庇護のもとに鍛刀した一団である。その源は古く、構成各工の説明書は大和に発する波平の系をその背後に置く。新刀の一平安代は、初め父一平安貞に法を習い、のちに波平本家の大和守安国の門に学んだと記され、薩摩の鉄が大和・波平の修業を地下に伏せていることを示す。記録に明らかな手としては、美濃氏房の子に出た伊豆守正房が元和・寛永の頃に薩州鹿児島に住し、薩摩鍛冶の渕源を成したとされる。これに続いて享保の頃、宮原清右衛門こと主水正正清と、玉置小市こと一平安代とが八代将軍徳川吉宗に召されて江戸で鍛え、その技を認められて茎に一葉葵紋を切ることを許された。この二工が薩摩新刀の双璧を成し、安代の養子安在が二代の一平として家を継いだ。時を下って新々刀の頃には、奥家の奥元平と伊地知家の伯耆守正幸とが同じく双璧として並び立ち、正良が伊地知家の名を襲い、正景が正幸の門から出て加治木島津家に抱えられた。皇室・徳川・島津・近衛の名がその伝来を貫き、この一国の工が藩の最上の家に直結していたことを語る。 作風は、構成各工が実際に記す共通の語法によって読まれる。背骨をなすのは志津に倣った相州伝であり、正清・元平・正幸・正良のいずれもがこれを最も得意とした手として説明書に名指される。よく練れて流れる板目に小のたれ・互の目を焼き、尖りごころの刃を交え、匂深く、沸が厚く強くつき、荒沸を顕著に交える。この静と動の二筋がこの群を貫く。安代と安在は穏やかなのたれ調の直刃、あるいは広直刃を多く焼き、正清と新々刀の双璧は尖り刃を交えた変化のある乱れを焼くが、いずれも沸を本領とする点で一つである。その刃の内を走るものこそ薩摩の名高い見どころで、説明書はこれを薩摩の芋蔓と称し、盛んな砂流しと長く太い金筋・沸筋が相絡んで連なる様を指す。地鉄はよくつんだ小板目あるいは流れごころの板目で、地沸厚く地景入り、正清・正良の地は枾がかって肌立ち、安代の地はことに黒みをおびる。帽子は乱れ込んで先尖り、あるいは直ぐに小丸・大丸へ返り、最も覇気ある作では掃きかけて火焰風となる。体配は身幅広く重ね厚く平肉豊かに中鋒延び、手持ち重く豪壮で、殆どが生ぶ茎に大振りの長銘を切る、薩摩の堂々たる構えである。 鑑定の勘所は、まずこの芋蔓の沸筋と黒める地鉄、そして頑健な造込みにあり、これらが当代の備前復古や大坂物の締まった沸と薩摩の手を分かつ。工の格は二対の双璧に集まる。新刀では正清と安代が並び、正清が古名刀に迫る志津風の乱れと焼頭に集まる湯走りの古色を見せ、安代が静かな直刃の内に長い芋蔓を走らせる。新々刀では元平と正幸が並び、ともに身幅広く堂々たる相州伝を本領とし、正幸は志津に倣う手を、元平は尖り刃を交えた華やかな互の目を得意とした。正良は師に優る出藍の誉を負い、安在は養父安代に頗る近似する手を継ぎ、正景は師正幸の志津風をよく伝え、正房は群の渕源として古来資料に貴ばれる。藤代の極めは安代を上々作、正清・元平・正良を上々作ないし上作、正幸を上作に置く。伝来は藩に固有のものが多く、正清・安代の刀は島津継豊より将軍吉宗や近衛家久に献ぜられ、家久は両工に白銀と六歌仙の歌を贈ってその文書も現存する。正幸の刀は鶴丸城の御用意刀として島津家に襲蔵され、分家樺山家には正幸自身の手になる薩摩拵を伴う一口が伝わる。これらの多くは旧家・機関に固く保たれて世に出ず、在銘の薩摩物が収集家のもとに現れるのは稀であり、現れたときには南九州の鍛刀が藩の庇護のもとに到達した頂を示す。 詳しく見る →
江戸時代
二世紀半の泰平のあいだ、刀は武器である以上に武士の身分の標章であった。江戸の実証と大坂の華やぎのように都市ごとの作風が育ち、時代の末には需要も細っていく。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,348口(約202口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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