国内の戦乱と海外への貿易が、室町の備前を国内随一の刀剣産地にした。応仁の乱以後は戦国の需要が一世紀続き、遣明船は数万振の単位で刀を運んでいる。
日本刀 刀 銘 備前国住長船祐定(永禄二年二月日) 貴重刀剣認定書付 【解説】 本作は、室町時代後期の永禄二年(1559年)に長船祐定によって打たれた一振りです。備前国(現在の岡山県)の長船派は、室町期に最も繁栄した流派の一つであり、「祐定」はその代表的な銘として知られています。 室町時代後期(1492年〜1569年頃)の備前鍛冶は、俗に「末備前(すえびぜん)」と呼ばれます。その中でも祐定家は、長船派の本流として最も隆盛を極めました。代々、祐定を名乗る鍛冶は六十名以上に及んだと言われ、その優れた切れ味と実用性から、当時の武士の間で絶大な信頼を誇るブランドとなりました。 室町時代、特に戦国時代には、各地の戦国大名による需要の増大に伴い、備前鍛冶は数多くの刀剣を世に送り出しました。本作も当時の武士による注文打ち、あるいは戦場での実戦を想定して鍛えられた可能性が極めて高く、群雄割拠の時代を生き抜いてきた歴史の重みを感じさせます。 備前長船派の歴史 長船派は、鎌倉時代中期の光忠を始祖とすると伝えられています。備前国における最大の流派であり、時の権力者や名だたる武将からの注文を一身に受け、「長船物」として武士たちに愛用されました。 歴代の鍛冶の中でも、長光・真長・景光の三名は「長船三作」として、また長光・兼光・長義・元重の四名は「長船四天王」として、日本刀の歴史にその名を刻んでいます。 備前国は中国山地に近く、刀剣の主原料である良質な砂鉄が豊富に採れ、さらに吉井川の清流と炭にも恵まれていました。この地政学的な利点が、高品質な鋼の精錬と作刀を可能にし、平安時代後期の「古備前」から鎌倉・南北朝・室町時代に至るまで、備前伝が日本刀の主流であり続けた要因と言えます。 ※本作には経年による鍛え傷や黒錆が数箇所見受けられます。詳細な状態につきましては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):69.4 cm 反り(Sori):2.2 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地肌(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の表面模様 切先(Kissaki):刀身の先端部分 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分 茎に現れる自然な錆色は、内部の赤錆を防ぐ役割を果たすとともに、刀剣の制作年代を特定する上で専門家が最も重視する指標の一つです。 本作は「額銘(がくめい)」となっております。これは、元の長大な太刀を短く切り詰める「大磨上げ(おおすりあげ)」の際、貴重な銘が失われるのを防ぐため、銘の部分だけを長方形に切り抜き、短く仕立て直した茎に埋め込んだものです。 【鑑定書】 日本美術刀剣保存協会(NBTHK) 貴重刀剣認定書 付属




























Sue-Bizen Osafune (Sukesada) · 備前 · 1547-1592頃
藤代 Jo saku
現在5点販売中
彦左衛門尉祐定の銘の下に伝わる指定作はいずれも生ぶ茶の年紀のある刀で、最も古いのは長銘の傍らに九字印と「大吉」の文字および梵字を刻す天文十六年(一五四七)の作、最も新しいのは播州の和田出雲守のために鍛えた天正四年(一五七六)の注文作である。祐定は末期の長船を代表する名で、最も尊ばれるのは与三左衛門尉・源兵衛尉・彦兵衛尉と俳名の冠を持つ一群であり、ここに収める彦左衛門尉もその一人に数えられる。説明は彦左衛門尉の名が前二者よりやや低いとしつつ、これらの作を特に出来がよいとし、その一口を「末備前物の代表作の一口」[[c:1]]と呼ぶ。銘そのものは同銘三代に渡り、銘鑑により初代を永正、二代を天文・永禄、三代を元亀・天正と読む。
作の見どころは一つの明言された作風の二分にある。説明はこれをcorpus全体にほぼ同文で述べる。すなわち、この期の作風は大別して腰開きの互の目乱れが複式風になったものと、「直刃調に足・葉の入ったもの」[[c:2]]の二様に分かれる。前者は華やかな極である。地鉄の上に腰元の谷の開いた乱れを焼き、焼深く、互の目が複式の構造に発展し、足・葉よく入り、小沸つき、砂流し・金筋がかかる。最も激しいものでは匂口明るく、ものによっては総体に沈む。後者は静かな極で、直刃調、しばしば広直刃が足・葉をよく伴い、小沸に砂流しかかり、匂口は締りごころとなり、天正の一口では物打辺に湯走り・飛焼がかかる。作はいずれか一方に明らかに属し、鑑者はそのどちらかを名指す。
地鉄は二様の下に一貫する。よくつんだ小板目、幅の広い刀では板目で、地沸つく。一口はつみつめて無地風となり、他の一口は板目に杉交じり肌立ちて棟焼きが入る。鍛えこそ鑑者が最もしばしばその手を揚げるところで、天文十六年の刀には「鍛えは抜群」と記し、板目に地沸・地景よく入り、「総体につよい鉄味を呈している」[[c:4]]とする。帽子は刃文に応じて乱れ込み小丸に返り、華やかな作では焼深く焼詰風となり、直刃の作では小丸に長く返り、あるいは尖り、わずかに掃掛ける。姿は終始末期の刀で、身幅広い鍢造に幵棟、先反つき、中鋒延びて大鋒ごころとなり、鍢を削いで高くするものもある。
世代は茶から直読される。作はいずれも生ぶ茶で表に長銘・裏に年紀をもち、説明は各作を年代に定めた上で銘鑑の彦左衛門尉三代に当てる。天文十六年・天文十七年の刀を二代とし、天正元年・天正四年の刀を三代とする。二代の作域は広く、腰開きの互の目・直刃・皆焼に及び、いずれにも高い技術が窺われるとする。年を追うごとに刀身も茶も伸びるのは時代の徴と読まれる。太刀が全く廃れ、その代わりに長い打刀を諸手で使用するようになり、末備前の寸法もそれにつれて延びる。二様の作風と三代の世代とは直交し、一は作風、一は年代の事であって、一口を読めばその両方が得られる。
一門の中では室町後期の厚い末備前長船の一群、長船の最後の大きな段階に属す。説明は彦左衛門尉を与三左衛門尉・源兵衛尉・彦兵衛尉とともに祐定一群を代表する一人とし、その作は名品の数多く、とりわけ技術が高いと記す。彼自身の見分けは比較に借るのではなく、二様の作風をつまんだ地沸の地鉄に保ち、鑑者の賛える鉄味にあり、継承は他系へではなく一名の内に読まれる。同銘の作が少ないという天文十六年の刀を、そのゆえに二代の代表作と呼ぶ。
藤代はこの工を上作に位し、指定の記録は穏やかである。記録されるは七口、いずれも重要刀剣で、国宝・重要文化財はない。博物館や神社に封じられた遺産というより、私蔵や長く記録された手に伝わる末古刀の一群で、所在の知られる一口は鐶鋒の太刀ほど稀ではなく時に現れる。伝来は一口に明らかで、天正四年の刀は播州住の和田出雲守のために鍛えられ、その所持者銘に「為播州住和田出雲守重代延之也」[[c:5]]とあって、同家代々の重代の作として伝えられたことがわかる。収集家にとって彦左衛門尉祐定は名高い名の近づきやすい端であり、年紀と銘のある末備前の刀にて、二様の読みと世代の枠を手の中で考え得、その最良の作には天文十六年の刀について説明が言うように鍛えの抜群さが見られる。
祐定の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
時期区分: 末備前· 1441–1596
現在78点販売中
嘉吉から文禄に及ぶ室町時代後期、長船派の最末期を画するのが末備前である。応永備前が古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃を甦らせたのに続き、この期の長船鍛冶は戦国の世の旺盛な武器需要に応じて作刀の規模を一段と広げ、長船の名のもとに膨大な数の刀剣を世に送り出した。説示にあらわれる主要工は、勝光、宗光、貞光、治光、忠光、清光、春光、祐定の一群である。勝光は宗光・忠光と並ぶ巧者で、右京亮・次郎左衛門尉・修理亮など様々な俗名を冠する同名工を擁し、貞光や子の治光との合作銘も伝わる。祐定にあっては与三左衛門尉・源兵衛尉・彦兵衛尉を冠する者がとりわけ技術が高く、与三左衛門尉祐定は名品の数多くその筆頭に挙げられ、彦兵衛尉はその父と伝えて慶長まで数代を数える。清光は五郎左衛門尉と孫右衛門尉が筆頭格、春光は文明から文禄に及ぶ長期に同名数工があって十郎左衛門が最も知られる。この期には播磨・備前・美作の守護赤松政則が宗光・勝光の一党を陣中に招いて鍛刀の技を学び為打を遺したことも説示に見え、注文打と数打物とが併存した末期の様相をよく伝えている。 体配はまず時代を映す。身幅広く寸のつまり、重ね一段と厚く、踏張りがあって先反りつき、中鋒、茎は片手打に適した短いものとなる、室町後期特有の打刀姿である。鍛えは小板目肌がよくつみ、地沸が微塵につき、地景が細かに入って、淡くあるいは鮮明に乱れ映りが立つ。刃文の中心をなすのは末備前固有の腰の開いた互の目で、焼頭が割れて複式に乱れる複式互の目を基調に、尖り刃・尖りごころの互の目・小互の目を交え、足・葉頻りに入り、匂勝ちに小沸がつき、金筋・砂流しがかかり、処々に小さな飛焼を交える。さらに飛焼・棟焼が頻りにかかって皆焼風となる作もあり、帽子は乱れ込んで先小丸に長く返る。これは光忠の蛙子丁子、長光の丸い頭の丁子、景光の片落ち互の目といった古長船・相伝備前の整然たる丁子主調とは趣を異にし、応永備前の腰開き互の目をさらに崩して量感と変化に向かわせた戦国期の姿である。同時に勝光のように乱れの中へ丁子を多く交えて一段と華やかに焼き、忠光や清光のように直刃の上手として定評を得る工もあり、作域は広い。 鑑定にあっては、まず乱れ映りで備前と読み、つまった寸と厚い重ね、先反り強き打刀姿で時代を末備前に定める。次に俗名と作風で工を分かつ。乱れの中に丁子を多く交えた華やかな出来は勝光、複式風の互の目に飛焼を交えてやや皆焼がかるは与三左衛門尉祐定、板目に杢を交えてやや肌立つ直刃は孫右衛門尉清光、直刃に佳作多きは彦兵衛尉祐定、というように看どころが工を指し示す。表裏に施された梵字・蓮台や棒樋連樋の刀身彫もまた末備前の特色をよく示し、長光景光以来の彫の伝統がこの期まで継承されたことを物語る。代表作には、勝光・貞光合作の明応八年紀の薙刀、勝光・治光父子合作の大永七年紀の短刀、与三左衛門尉二代の元亀元年紀の刀があり、合作銘や所持銘・添銘を伴う注文打は、末備前とそれを支えた三宅氏のごとき在地の氏族を知る上でも資料性が高い。 詳しく見る →
国内の戦乱と海外への貿易が、室町の備前を国内随一の刀剣産地にした。応仁の乱以後は戦国の需要が一世紀続き、遣明船は数万振の単位で刀を運んでいる。
本作はNBTHKの旧鑑定書(貴重・特別貴重)を有しますが、これらは現在発行されておらず、信頼性に欠けるとされています。極めを確認するには、公的な鑑定機関(NBTHK・NTHKなど)への再提出による現代の鑑定をご検討いただけます。
Returns/exchanges limited to defects caused by shipping (except willful misconduct or gross negligence by the company); customers must contact within 72 hours of receiving the product.
日本刀 刀 銘 備前国住長船祐定(永禄二年二月日) 貴重刀剣認定書付 【解説】 本作は、室町時代後期の永禄二年(1559年)に長船祐定によって打たれた一振りです。備前国(現在の岡山県)の長船派は、室町期に最も繁栄した流派の一つであり、「祐定」はその代表的な銘として知られています。 室町時代後期(1492年〜1569年頃)の備前鍛冶は、俗に「末備前(すえびぜん)」と呼ばれます。その中でも祐定家は、長船派の本流として最も隆盛を極めました。代々、祐定を名乗る鍛冶は六十名以上に及んだと言われ、その優れた切れ味と実用性から、当時の武士の間で絶大な信頼を誇るブランドとなりました。 室町時代、特に戦国時代には、各地の戦国大名による需要の増大に伴い、備前鍛冶は数多くの刀剣を世に送り出しました。本作も当時の武士による注文打ち、あるいは戦場での実戦を想定して鍛えられた可能性が極めて高く、群雄割拠の時代を生き抜いてきた歴史の重みを感じさせます。 備前長船派の歴史 長船派は、鎌倉時代中期の光忠を始祖とすると伝えられています。備前国における最大の流派であり、時の権力者や名だたる武将からの注文を一身に受け、「長船物」として武士たちに愛用されました。 歴代の鍛冶の中でも、長光・真長・景光の三名は「長船三作」として、また長光・兼光・長義・元重の四名は「長船四天王」として、日本刀の歴史にその名を刻んでいます。 備前国は中国山地に近く、刀剣の主原料である良質な砂鉄が豊富に採れ、さらに吉井川の清流と炭にも恵まれていました。この地政学的な利点が、高品質な鋼の精錬と作刀を可能にし、平安時代後期の「古備前」から鎌倉・南北朝・室町時代に至るまで、備前伝が日本刀の主流であり続けた要因と言えます。 ※本作には経年による鍛え傷や黒錆が数箇所見受けられます。詳細な状態につきましては、お気軽にお問い合わせください。 【刀身】 長さ(Nagasa):69.4 cm 反り(Sori):2.2 cm 刃文(Hamon):焼入れによって刃先に現れる結晶構造 地肌(Jihada):折り返し鍛錬によって現れる鋼の表面模様 切先(Kissaki):刀身の先端部分 茎(Nakago):柄に収まる中心(なかご)部分 茎に現れる自然な錆色は、内部の赤錆を防ぐ役割を果たすとともに、刀剣の制作年代を特定する上で専門家が最も重視する指標の一つです。 本作は「額銘(がくめい)」となっております。これは、元の長大な太刀を短く切り詰める「大磨上げ(おおすりあげ)」の際、貴重な銘が失われるのを防ぐため、銘の部分だけを長方形に切り抜き、短く仕立て直した茎に埋め込んだものです。 【鑑定書】 日本美術刀剣保存協会(NBTHK) 貴重刀剣認定書 付属




























Sue-Bizen Osafune (Sukesada) · 備前 · 1547-1592頃
藤代 Jo saku
現在5点販売中
彦左衛門尉祐定の銘の下に伝わる指定作はいずれも生ぶ茶の年紀のある刀で、最も古いのは長銘の傍らに九字印と「大吉」の文字および梵字を刻す天文十六年(一五四七)の作、最も新しいのは播州の和田出雲守のために鍛えた天正四年(一五七六)の注文作である。祐定は末期の長船を代表する名で、最も尊ばれるのは与三左衛門尉・源兵衛尉・彦兵衛尉と俳名の冠を持つ一群であり、ここに収める彦左衛門尉もその一人に数えられる。説明は彦左衛門尉の名が前二者よりやや低いとしつつ、これらの作を特に出来がよいとし、その一口を「末備前物の代表作の一口」[[c:1]]と呼ぶ。銘そのものは同銘三代に渡り、銘鑑により初代を永正、二代を天文・永禄、三代を元亀・天正と読む。
作の見どころは一つの明言された作風の二分にある。説明はこれをcorpus全体にほぼ同文で述べる。すなわち、この期の作風は大別して腰開きの互の目乱れが複式風になったものと、「直刃調に足・葉の入ったもの」[[c:2]]の二様に分かれる。前者は華やかな極である。地鉄の上に腰元の谷の開いた乱れを焼き、焼深く、互の目が複式の構造に発展し、足・葉よく入り、小沸つき、砂流し・金筋がかかる。最も激しいものでは匂口明るく、ものによっては総体に沈む。後者は静かな極で、直刃調、しばしば広直刃が足・葉をよく伴い、小沸に砂流しかかり、匂口は締りごころとなり、天正の一口では物打辺に湯走り・飛焼がかかる。作はいずれか一方に明らかに属し、鑑者はそのどちらかを名指す。
地鉄は二様の下に一貫する。よくつんだ小板目、幅の広い刀では板目で、地沸つく。一口はつみつめて無地風となり、他の一口は板目に杉交じり肌立ちて棟焼きが入る。鍛えこそ鑑者が最もしばしばその手を揚げるところで、天文十六年の刀には「鍛えは抜群」と記し、板目に地沸・地景よく入り、「総体につよい鉄味を呈している」[[c:4]]とする。帽子は刃文に応じて乱れ込み小丸に返り、華やかな作では焼深く焼詰風となり、直刃の作では小丸に長く返り、あるいは尖り、わずかに掃掛ける。姿は終始末期の刀で、身幅広い鍢造に幵棟、先反つき、中鋒延びて大鋒ごころとなり、鍢を削いで高くするものもある。
世代は茶から直読される。作はいずれも生ぶ茶で表に長銘・裏に年紀をもち、説明は各作を年代に定めた上で銘鑑の彦左衛門尉三代に当てる。天文十六年・天文十七年の刀を二代とし、天正元年・天正四年の刀を三代とする。二代の作域は広く、腰開きの互の目・直刃・皆焼に及び、いずれにも高い技術が窺われるとする。年を追うごとに刀身も茶も伸びるのは時代の徴と読まれる。太刀が全く廃れ、その代わりに長い打刀を諸手で使用するようになり、末備前の寸法もそれにつれて延びる。二様の作風と三代の世代とは直交し、一は作風、一は年代の事であって、一口を読めばその両方が得られる。
一門の中では室町後期の厚い末備前長船の一群、長船の最後の大きな段階に属す。説明は彦左衛門尉を与三左衛門尉・源兵衛尉・彦兵衛尉とともに祐定一群を代表する一人とし、その作は名品の数多く、とりわけ技術が高いと記す。彼自身の見分けは比較に借るのではなく、二様の作風をつまんだ地沸の地鉄に保ち、鑑者の賛える鉄味にあり、継承は他系へではなく一名の内に読まれる。同銘の作が少ないという天文十六年の刀を、そのゆえに二代の代表作と呼ぶ。
藤代はこの工を上作に位し、指定の記録は穏やかである。記録されるは七口、いずれも重要刀剣で、国宝・重要文化財はない。博物館や神社に封じられた遺産というより、私蔵や長く記録された手に伝わる末古刀の一群で、所在の知られる一口は鐶鋒の太刀ほど稀ではなく時に現れる。伝来は一口に明らかで、天正四年の刀は播州住の和田出雲守のために鍛えられ、その所持者銘に「為播州住和田出雲守重代延之也」[[c:5]]とあって、同家代々の重代の作として伝えられたことがわかる。収集家にとって彦左衛門尉祐定は名高い名の近づきやすい端であり、年紀と銘のある末備前の刀にて、二様の読みと世代の枠を手の中で考え得、その最良の作には天文十六年の刀について説明が言うように鍛えの抜群さが見られる。
祐定の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
時期区分: 末備前· 1441–1596
現在78点販売中
嘉吉から文禄に及ぶ室町時代後期、長船派の最末期を画するのが末備前である。応永備前が古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃を甦らせたのに続き、この期の長船鍛冶は戦国の世の旺盛な武器需要に応じて作刀の規模を一段と広げ、長船の名のもとに膨大な数の刀剣を世に送り出した。説示にあらわれる主要工は、勝光、宗光、貞光、治光、忠光、清光、春光、祐定の一群である。勝光は宗光・忠光と並ぶ巧者で、右京亮・次郎左衛門尉・修理亮など様々な俗名を冠する同名工を擁し、貞光や子の治光との合作銘も伝わる。祐定にあっては与三左衛門尉・源兵衛尉・彦兵衛尉を冠する者がとりわけ技術が高く、与三左衛門尉祐定は名品の数多くその筆頭に挙げられ、彦兵衛尉はその父と伝えて慶長まで数代を数える。清光は五郎左衛門尉と孫右衛門尉が筆頭格、春光は文明から文禄に及ぶ長期に同名数工があって十郎左衛門が最も知られる。この期には播磨・備前・美作の守護赤松政則が宗光・勝光の一党を陣中に招いて鍛刀の技を学び為打を遺したことも説示に見え、注文打と数打物とが併存した末期の様相をよく伝えている。 体配はまず時代を映す。身幅広く寸のつまり、重ね一段と厚く、踏張りがあって先反りつき、中鋒、茎は片手打に適した短いものとなる、室町後期特有の打刀姿である。鍛えは小板目肌がよくつみ、地沸が微塵につき、地景が細かに入って、淡くあるいは鮮明に乱れ映りが立つ。刃文の中心をなすのは末備前固有の腰の開いた互の目で、焼頭が割れて複式に乱れる複式互の目を基調に、尖り刃・尖りごころの互の目・小互の目を交え、足・葉頻りに入り、匂勝ちに小沸がつき、金筋・砂流しがかかり、処々に小さな飛焼を交える。さらに飛焼・棟焼が頻りにかかって皆焼風となる作もあり、帽子は乱れ込んで先小丸に長く返る。これは光忠の蛙子丁子、長光の丸い頭の丁子、景光の片落ち互の目といった古長船・相伝備前の整然たる丁子主調とは趣を異にし、応永備前の腰開き互の目をさらに崩して量感と変化に向かわせた戦国期の姿である。同時に勝光のように乱れの中へ丁子を多く交えて一段と華やかに焼き、忠光や清光のように直刃の上手として定評を得る工もあり、作域は広い。 鑑定にあっては、まず乱れ映りで備前と読み、つまった寸と厚い重ね、先反り強き打刀姿で時代を末備前に定める。次に俗名と作風で工を分かつ。乱れの中に丁子を多く交えた華やかな出来は勝光、複式風の互の目に飛焼を交えてやや皆焼がかるは与三左衛門尉祐定、板目に杢を交えてやや肌立つ直刃は孫右衛門尉清光、直刃に佳作多きは彦兵衛尉祐定、というように看どころが工を指し示す。表裏に施された梵字・蓮台や棒樋連樋の刀身彫もまた末備前の特色をよく示し、長光景光以来の彫の伝統がこの期まで継承されたことを物語る。代表作には、勝光・貞光合作の明応八年紀の薙刀、勝光・治光父子合作の大永七年紀の短刀、与三左衛門尉二代の元亀元年紀の刀があり、合作銘や所持銘・添銘を伴う注文打は、末備前とそれを支えた三宅氏のごとき在地の氏族を知る上でも資料性が高い。 詳しく見る →
国内の戦乱と海外への貿易が、室町の備前を国内随一の刀剣産地にした。応仁の乱以後は戦国の需要が一世紀続き、遣明船は数万振の単位で刀を運んでいる。
本作はNBTHKの旧鑑定書(貴重・特別貴重)を有しますが、これらは現在発行されておらず、信頼性に欠けるとされています。極めを確認するには、公的な鑑定機関(NBTHK・NTHKなど)への再提出による現代の鑑定をご検討いただけます。
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