室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
右京亮勝光は(注1)弟左京進宗光と共に備前、播磨、美作を領する戦国武将赤松政則に仕えた。刀工として抜きん出た才能を有する勝光と宗光は政則の信頼が篤く、文明十五年に備前西部の武将松田元隆が赤松氏の拠点福岡城(注2)を攻めた時には、吉井川上流板屋瀬の東に配されて戦闘にも参加(注3)している。このような身を以て体験した戦国の厳しさを糧に、数多の優品を手掛けたのである。 この槍は高位の武将が馬上にて手挟んだ作であろう、頗る出来の優れた一筋。身幅広く、長くがっちりとした塩首で力強く踏ん張り、鎬筋屹然と立ち、如何なる堅物をも打ち破らんばかりの緊張感と迫力に満ちた姿。裏には守護神であろう不動明王の梵字が刻されて荘厳味がある。鉄色明るい地鉄は柾目主張の板目肌が強く錬れ、地景太く入り、厚く付いた地沸が肌目に沿って美しく流れる。刃文は浅い湾れに互の目を交え、小沸付いて刃縁の光が強く、刃境に湯走り、金線、砂流し、打ちのけ、飛焼が盛んに入り、二重刃、喰い違い刃を交えて奔放華麗な変化を見せ、足、葉が盛んに入った刃中も強く沸付いて抜群に照度が高い。帽子は激しく掃き掛けて小丸に長めに返り、鎬筋上の処々を焼く。茎の保存状態は良好で、入念に刻された銘字には鑚枕が立つ。保存状態、そして出来共に頗る優れ、戦国武将の槍の実情を伝えて貴重である。 注1...「備前國住長舩右京亮勝光年丗七長舩左京進宗光年丗五作之」と切銘された文明三年二月日紀の脇差があり(『土屋押形』中編)、勝光は永享七年生まれとわかる。 注2...吉井川の川筋を要害とした難攻不落の要塞(『長船町史通史編』)。 注3...『備前軍記』に「長舩右京亮・同左京進、香々登新田の野伏を差副て守らしむ」とある。
勝光Katsumitsu (Ukyo-no-suke)
取扱店 銀座長州屋









Osafune (Sue-Bizen), Bizen · 備前 · 1469-1487頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位14%
現在3点販売中
文明十六年二月の年紀に大振りの長銘「備前国住長船右京亮勝光」[[c:14]]を切り、棒樋の下に「天下泰平国土安穏」[[c:15]]「冨貴萬福皆令満足」[[c:16]]の祈念の文字を陰刻した刀が、本工の作中ただ一口特別重要刀剣に指定されたものである。勝光は末備前と称される室町中後期の長船鍛冶を代表する名の一つで、説明書は室町中期以後に勝光と銘する者が十数工あるとする。銘鑑は銘に俗名を冠する者を挙げ、なかでも右京亮勝光とその子次郎左衛門尉を著名とする。この記録の作者である右京亮について、説明書は「右京亮と銘するものは次郎左衛門尉よりは先輩であり」[[c:17]]、左京進宗光の兄にあたり、「末備前中でも技術が優れている」[[c:1]]と記す。
本工の典型は末備前の複式互の目を、丁子を交えて一段と高く明るく焼くところにある。説明書は、勝光の作風は末備前特有の複式互の目が多いが、他の末備前の諸工に比して「乱れの中に丁子を多く交えた一段と華やかな出来を得意としている」[[c:2]]とする。特別重要刀剣の刀は腰の開いた互の目・丁子・小互の目・小丁子を交え、足・葉よく入り、匂勝ちに小沸つき、湯走り交え、匂口明るく、説明書はこれを「末備前の作中勝光の典型的な作風を示している」[[c:3]]と読む。文明十年紀の単独作の刀は焼高く丁子・小丁子・尖り刃を交え、金筋・砂流しかかり、下半に小さな飛焼が入る。
地鉄は小板目、あるいは板目に杢を交えてよくつみ、処々流れごころとなり、地沸つき、文明十年紀の刀では地沸が微塵につき、地景細かに入る。その上には多くの作で乱れ映りが立つ。文明十八年紀の宗光との合作脇指について、説明書は「同時期の備前物に比して乱れ映りが鮮明で、刃文は丁子が目立って変化に富んでいる」[[c:4]]とする。帽子は乱れ込んで小丸あるいは尖りごころに返る。表裏には一派の信仰の彫物があり、棒樋を丸止めとしてその下に梵字、倶利迦羅、三鈷付剣、八幡大菩薩の神号を施し、説明書はこれを専属の彫物師の手とする。姿は室町後期の片手打の打刀で、身幅広く重ね厚く先反りつき、茎短く尻が張る。
その記録の大半は合作である。協会の指定を受けた十口のうち八口が合作で、うち七口は弟左京進宗光とのもの、両名を二行に切り分け、多くは文明年間の年紀がある。その数口は長船を離れ、備中草壁と備前児嶋で打たれた。その記録の外にも草壁打が二口ある。文明十八年紀の刀は小沸出来の互の目に丁子を交え、重要美術品に認定されており、説明書は両人をともに六郎左衛門祐光の子として、その合作は比較的多く見られるとし、「本刀はその代表作である」[[c:5]]と記す。文明十九年紀の脇指は板目に互の目・丁子交りの刃文を焼き、重要文化財に指定されている。児嶋打の脇指について説明書は、「彼らの動向を知る上において一助となる貴重な資料である」[[c:6]]とする。また勝光・宗光の合作は決して珍しいものではないが、「両工とも技術が優れており、従って愛刀家の最も珍重するところである」[[c:7]]という。文明十六年紀の一刀は彦兵衛忠光を加えた三人合作で、説明書は「忠光を加えた合作刀は他に殆んど見たことがない」[[c:8]]と記す。
丁子の多い互の目と並んで、本工は直刃を基調とする穏やかな刃も焼き、説明書はこれを忠光の作に比している。三人合作の刀は直刃調に小互の目を交え、足・葉入り、砂流し・金筋かかる。文明十六年紀の児嶋打の脇指は直刃を基調に処々浅くのたれ、ほつれ、細かに砂流しかかり、説明書はこれを「忠光などによく見られる作柄である」[[c:9]]とする。同年に宗光と児嶋で打った刀は僅かに互の目交じりの直刃に小沸がつき、帽子は直ぐに先丸く返り、「出来のよさも然る事ながら、銘文の資料価値も高い」[[c:10]]とされる。宗光とのいま一口の合作刀は小板目のよく約んだ綺麗な地がねに中直刃を焼いて小足を交え、匂口しまり、腰に素剣・梵字を彫り、説明書は「当時の打刀として典型的且つ代表的な出来である」[[c:11]]とする。文明十一年紀の短刀は五郎左衛門尉則光との合作で、則光七十四歳の晩年に当たり、身幅広めで大きく寸延び、重ね極めて厚く内反り強い。中直刃に小互の目ごころを交えて小沸よくつき匂口明るく冴え、説明書は「一脈、同派の忠光に相通じる作域で」[[c:18]]優れた出来映えを見せるとする。
国宝はなく、重要文化財は栃木の東照宮に蔵されるこの草壁打の脇指一口である。日本美術刀剣保存協会の記録は特別重要刀剣一口と重要刀剣九口で、いずれも在銘・年紀入り、その多くは文明年間のものであり、藤代の評価は最上作である。第七回で重要刀剣に指定された特別重要刀剣の刀は、当時としては頑健な姿態を示した稀少な作で、「勝光の出色の出来栄えを示した秀逸な一口である」[[c:12]]と評される。その祈念の文字は「他に類がなく、特別の注文によるものであろう」[[c:13]]とされ、後世これを模したものがある。文明十一年紀の短刀には石黒政美の小さ刀拵が添い、家紋が示す通り大久保家の伝来である。これらの外、蒐集家が現実に出会い得るのは重要刀剣の諸作であり、在銘年紀ある勝光が市場に出るのは時折のことである。
勝光の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
時期区分: 末備前· 1441–1596
現在10点販売中
嘉吉から文禄に及ぶ室町時代後期、長船派の最末期を画するのが末備前である。応永備前が古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃を甦らせたのに続き、この期の長船鍛冶は戦国の世の旺盛な武器需要に応じて作刀の規模を一段と広げ、長船の名のもとに膨大な数の刀剣を世に送り出した。説示にあらわれる主要工は、勝光、宗光、貞光、治光、忠光、清光、春光、祐定の一群である。勝光は宗光・忠光と並ぶ巧者で、右京亮・次郎左衛門尉・修理亮など様々な俗名を冠する同名工を擁し、貞光や子の治光との合作銘も伝わる。祐定にあっては与三左衛門尉・源兵衛尉・彦兵衛尉を冠する者がとりわけ技術が高く、与三左衛門尉祐定は名品の数多くその筆頭に挙げられ、彦兵衛尉はその父と伝えて慶長まで数代を数える。清光は五郎左衛門尉と孫右衛門尉が筆頭格、春光は文明から文禄に及ぶ長期に同名数工があって十郎左衛門が最も知られる。この期には播磨・備前・美作の守護赤松政則が宗光・勝光の一党を陣中に招いて鍛刀の技を学び為打を遺したことも説示に見え、注文打と数打物とが併存した末期の様相をよく伝えている。 体配はまず時代を映す。身幅広く寸のつまり、重ね一段と厚く、踏張りがあって先反りつき、中鋒、茎は片手打に適した短いものとなる、室町後期特有の打刀姿である。鍛えは小板目肌がよくつみ、地沸が微塵につき、地景が細かに入って、淡くあるいは鮮明に乱れ映りが立つ。刃文の中心をなすのは末備前固有の腰の開いた互の目で、焼頭が割れて複式に乱れる複式互の目を基調に、尖り刃・尖りごころの互の目・小互の目を交え、足・葉頻りに入り、匂勝ちに小沸がつき、金筋・砂流しがかかり、処々に小さな飛焼を交える。さらに飛焼・棟焼が頻りにかかって皆焼風となる作もあり、帽子は乱れ込んで先小丸に長く返る。これは光忠の蛙子丁子、長光の丸い頭の丁子、景光の片落ち互の目といった古長船・相伝備前の整然たる丁子主調とは趣を異にし、応永備前の腰開き互の目をさらに崩して量感と変化に向かわせた戦国期の姿である。同時に勝光のように乱れの中へ丁子を多く交えて一段と華やかに焼き、忠光や清光のように直刃の上手として定評を得る工もあり、作域は広い。 鑑定にあっては、まず乱れ映りで備前と読み、つまった寸と厚い重ね、先反り強き打刀姿で時代を末備前に定める。次に俗名と作風で工を分かつ。乱れの中に丁子を多く交えた華やかな出来は勝光、複式風の互の目に飛焼を交えてやや皆焼がかるは与三左衛門尉祐定、板目に杢を交えてやや肌立つ直刃は孫右衛門尉清光、直刃に佳作多きは彦兵衛尉祐定、というように看どころが工を指し示す。表裏に施された梵字・蓮台や棒樋連樋の刀身彫もまた末備前の特色をよく示し、長光景光以来の彫の伝統がこの期まで継承されたことを物語る。代表作には、勝光・貞光合作の明応八年紀の薙刀、勝光・治光父子合作の大永七年紀の短刀、与三左衛門尉二代の元亀元年紀の刀があり、合作銘や所持銘・添銘を伴う注文打は、末備前とそれを支えた三宅氏のごとき在地の氏族を知る上でも資料性が高い。 詳しく見る →
室町時代の備前
室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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