室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 南北朝後期の永和から室町初期応永頃を活躍期とする師光は、花の御所や金閣を造営した将軍足利義満の時代に、備前刀に新風を吹き込み新たな方向性を打ち出している。兼光、倫光の後を受け、精良な地鉄に、小模様ながら互の目の焼刃の間隔が開いた腰開きごころの刃を交えて抑揚変化する乱出来を展開し、子と伝える盛光にその優技を伝え、応永備前開花の土台を築いた。


Bizen Osafune, Kozori group · 備前 · 1387-1428頃
刀剣大鑑 上位26%
現在1点販売中
師光は南北朝時代末期の備前長船の刀工で、その年紀作は永和・応安から明徳を経て応永に及ぶ。説明書は『銘鑑』を引いて「銘鑑に倫光子、盛光の父とあり」[[c:1]]と記し、応永備前の名工盛光の一代前にその名を置く。そして南北朝末期の長船にあって小反と総称される刀工群、すなわち小反りの工の一人とし、「南北朝後期の、いわゆる小反りと総称される刀工群の代表的な一人である」[[c:2]]と読む。同名二代があり、応永年紀の作は二代とされるが、厳密な代別はなお研究に俟つとする。本工は何よりも資料の工であり、生ぶ・在銘・年紀をもって、室町の敷居に立つ長船の静かな一隅を伝える証である。
本工の特色ある手は、腰の開いた互の目を主調とする小模様の互の目乱れである。刃の本体には小互の目・小のたれ・尖り刃・角張る刃に僅かの丁子を交え、総じて小模様にこずみ、足・葉入り、匂主調に小沸をつき、細かな砂流しがかかる。帽子は乱れ込んで尖りごころ、または小丸に返る。華やかさよりも抑えの作域であり、説明書はその地味をそのまま言い当てて、「作風は盛光、康光等に比すと地味であり」[[c:3]]と記す。同じ備前の趣を、後代の応永の名工よりも小さく、地味な寸法に焼いた手である。
その静かな刃の下に終始変わらぬのが地鉄である。板目を鍛え、多く流れて杢や肌立ちを交え、地沸つき、上手は直ぐの棒映りが刀身に沿ってよく立ち、晩年の充実した作には乱れ映りが立って地景風の黒みのある鉄が地に交じる。映りは古備前の見どころを末期の小さな調子で読んだものである。その上に刃文は小さな乱れの線を保ち、匂口は締りごころ、働きは大きな丁子の房ではなく足・葉と砂流しに托され、地刃ともに不規則によく錬れた景色を見せて、小反一類に通じる出来となる。
記録は一つの作域に収まらない。在銘の多くは小反りの太刀であるが、今一つの少数の作は乱れを離れ、小互の目と肩落風を交えた直刃調を焼いて、帽子を掃きかけ焼詰めに納める。この静かな作域は、梵字や三鈷附剣の彫物を加えた小振りの平造短刀に見られ、また珍しい剣にも見られる。剣について説明書は「剣の作例はいつの時代も少ないものであり」[[c:4]]とし、「本作も師光の剣として頗る珍品である」[[c:5]]と評する。一方、上手の晩年の太刀では作域がひろがり、乱れの腰がいよいよひらき飛焼・棟焼を交えて、説明書はこれを「既に応永備前の作風を予兆させるものがある」[[c:6]]と読む。
師光を分かつのは、まさにこの敷居の位置である。南北朝最盛期の長船の名工よりも小模様で地味に焼き、その刃は次代の子の盛光や康光よりも抑えられているが、本工自身の腰の開いた互の目、直ぐの棒映り、晩年の太刀のひらく乱れは、一門応永の開花を先取りする。説明書はこれを鑑識として述べ、生ぶ・年紀の作の銘振りが「応永備前のものと共通するところなど、この期の備前鍛冶研究上の好資料である」[[c:7]]とする。要するに本工は、南北朝長船本流と応永備前とを繋ぐ、年紀の確かな結節点である。
収集の観点では、師光は主に在銘年紀の太刀として遺り、その作のうち三口が重要文化財に指定され、ほかに重要刀剣の級を通る一群がある。国宝はない。来歴は確かで見るべきものがある。皇室には本工の太刀が伝わり、ある年紀の太刀は宝暦九年、将軍家の拝領により亀田城主岩城家に伝わり、上手の晩年の太刀の一口を説明書は「同作中の優品で」とし「黒田家伝来の一口である」[[c:9]]と記す。その作は今日、御物として、また旧家・大名家の永い伝来のうちに蔵されて広く市場に出るものではなく、特別重要刀剣・重要刀剣の級はわずかであるから、小反りの在銘師光が世に出ることは折に触れてのことに過ぎない。私蔵の一口は、収集家にとって静かながら手応えのあるもの、末期の長船がいかに応永備前へと向かったかを語る、年紀の確かな証である。
師光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在235点販売中
備前国邑久郡長船の地に興り、鎌倉時代中期から室町時代末期に至るまで連綿と鍛刀を続けた、刀剣史上最大の流派である。事実上の祖は光忠で、近忠の子と伝えるが近忠の作刀が知られないため、長船本流の起点はこの工に置かれる。古伝はその源を古備前正恒の一類が長船に移り住んだことに求め、光忠はその流れを承けて一門を興したと説く。すなわち本流派は、古備前の地盤の上に、丁子を主調とする華麗な作風をもって自立した備前鍛冶の本系である。光忠の下に長光、真長、景光らが輩出し、以後、相伝備前の兼光・長義・元重、室町初期の応永備前を経て末備前に至るまで、備前伝の中核を担い続けた。 作風は備前伝を基盤とし、よく錬れて杢を交えた板目に地沸が微塵につき、地景が細かに入り、地に乱れ映りが鮮明に立つ鍛えを共通の地とする。この乱れ映りこそ、在銘無銘を問わず一門の作を備前へ繋ぎ止める最も確かな標である。刃文には世代ごとの軸がある。草創の古長船にあって光忠は蛙子丁子を看どころとし、子の長光は頭の丸いふくらみのある丁子を加え、孫の景光は片落ち互の目を完成して逆がかりの足を看どころとした。この光忠、長光、景光の三代が長船嫡流の背骨をなし、近景がその影として景光をほぼ完璧に映し、真長は同じ地に締まる匂口の直刃を得意とした。南北朝期に入ると兼光が嫡流を承けつつのたれ主調の大模様を加え、相州伝を摂取した相伝備前の作風が現れる。長義は耳形の刃を看どころに兼光以上に相州伝を強調し、長重と兼長がこれに連なり、義景は匂口の沈むところに、元重は焼頭の揃った角ばる刃と青江気質に、それぞれ別系の個性を示した。体配もまた時代を映し、鎌倉の腰反り高い太刀から、南北朝の身幅広く大鋒の延文貞治型へ、さらに応永備前では古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃が甦る。康光と盛光を双璧とする応永備前は、腰の広く開いた互の目とローソクの芯と称する尖り返る帽子を看どころとし、その腰開き互の目と棒映りは末備前へと受け継がれた。長光景光以来の梵字、三鈷剣、倶利迦羅、八幡大菩薩などの刀身彫もまた、末備前まで絶えず継承された一門の標である。 鑑定にあっては、まず鮮明な乱れ映りで一門を備前と読み、次に世代と系統の看どころで工を分かつ。蛙子丁子は光忠、丸い頭の丁子は長光、逆がかる片落ち互の目は景光、のたれと角互の目は兼光、耳形の刃は長義、角ばり逆がかる刃と蝉の羽根の肌は元重、ローソクの芯の帽子は応永備前という具合に、看どころが系統と時代を指し示す。嫡流の光忠、長光、景光、兼光は藤代の最上作に列し、なかでも長光は重要文化財の指定数が全刀工中最多で、嫡流の作には名物大般若長光や小龍景光をはじめ、織田信長、徳川家康、上杉謙信ら天下を握った者の手を経た作が多い。相伝備前の長義や兼長、応永備前の康光や盛光もそれぞれ重きをなし、別系の元重もまた南北朝備前の大きな名を保つ。嫡流の在銘作が市に現れることは稀で、大半は大磨上無銘の極めとして伝わるが、長光のごとく銘を惜しまなかった工の作はなお蒐集家の手の届く範囲にある。後世への影響は計り知れず、本流派の作風と刀身彫の伝統は末備前を通じて室町備前の主流をなし、備前伝そのものの規範となった。 詳しく見る →
室町時代の備前
室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 南北朝後期の永和から室町初期応永頃を活躍期とする師光は、花の御所や金閣を造営した将軍足利義満の時代に、備前刀に新風を吹き込み新たな方向性を打ち出している。兼光、倫光の後を受け、精良な地鉄に、小模様ながら互の目の焼刃の間隔が開いた腰開きごころの刃を交えて抑揚変化する乱出来を展開し、子と伝える盛光にその優技を伝え、応永備前開花の土台を築いた。


Bizen Osafune, Kozori group · 備前 · 1387-1428頃
刀剣大鑑 上位26%
現在1点販売中
師光は南北朝時代末期の備前長船の刀工で、その年紀作は永和・応安から明徳を経て応永に及ぶ。説明書は『銘鑑』を引いて「銘鑑に倫光子、盛光の父とあり」[[c:1]]と記し、応永備前の名工盛光の一代前にその名を置く。そして南北朝末期の長船にあって小反と総称される刀工群、すなわち小反りの工の一人とし、「南北朝後期の、いわゆる小反りと総称される刀工群の代表的な一人である」[[c:2]]と読む。同名二代があり、応永年紀の作は二代とされるが、厳密な代別はなお研究に俟つとする。本工は何よりも資料の工であり、生ぶ・在銘・年紀をもって、室町の敷居に立つ長船の静かな一隅を伝える証である。
本工の特色ある手は、腰の開いた互の目を主調とする小模様の互の目乱れである。刃の本体には小互の目・小のたれ・尖り刃・角張る刃に僅かの丁子を交え、総じて小模様にこずみ、足・葉入り、匂主調に小沸をつき、細かな砂流しがかかる。帽子は乱れ込んで尖りごころ、または小丸に返る。華やかさよりも抑えの作域であり、説明書はその地味をそのまま言い当てて、「作風は盛光、康光等に比すと地味であり」[[c:3]]と記す。同じ備前の趣を、後代の応永の名工よりも小さく、地味な寸法に焼いた手である。
その静かな刃の下に終始変わらぬのが地鉄である。板目を鍛え、多く流れて杢や肌立ちを交え、地沸つき、上手は直ぐの棒映りが刀身に沿ってよく立ち、晩年の充実した作には乱れ映りが立って地景風の黒みのある鉄が地に交じる。映りは古備前の見どころを末期の小さな調子で読んだものである。その上に刃文は小さな乱れの線を保ち、匂口は締りごころ、働きは大きな丁子の房ではなく足・葉と砂流しに托され、地刃ともに不規則によく錬れた景色を見せて、小反一類に通じる出来となる。
記録は一つの作域に収まらない。在銘の多くは小反りの太刀であるが、今一つの少数の作は乱れを離れ、小互の目と肩落風を交えた直刃調を焼いて、帽子を掃きかけ焼詰めに納める。この静かな作域は、梵字や三鈷附剣の彫物を加えた小振りの平造短刀に見られ、また珍しい剣にも見られる。剣について説明書は「剣の作例はいつの時代も少ないものであり」[[c:4]]とし、「本作も師光の剣として頗る珍品である」[[c:5]]と評する。一方、上手の晩年の太刀では作域がひろがり、乱れの腰がいよいよひらき飛焼・棟焼を交えて、説明書はこれを「既に応永備前の作風を予兆させるものがある」[[c:6]]と読む。
師光を分かつのは、まさにこの敷居の位置である。南北朝最盛期の長船の名工よりも小模様で地味に焼き、その刃は次代の子の盛光や康光よりも抑えられているが、本工自身の腰の開いた互の目、直ぐの棒映り、晩年の太刀のひらく乱れは、一門応永の開花を先取りする。説明書はこれを鑑識として述べ、生ぶ・年紀の作の銘振りが「応永備前のものと共通するところなど、この期の備前鍛冶研究上の好資料である」[[c:7]]とする。要するに本工は、南北朝長船本流と応永備前とを繋ぐ、年紀の確かな結節点である。
収集の観点では、師光は主に在銘年紀の太刀として遺り、その作のうち三口が重要文化財に指定され、ほかに重要刀剣の級を通る一群がある。国宝はない。来歴は確かで見るべきものがある。皇室には本工の太刀が伝わり、ある年紀の太刀は宝暦九年、将軍家の拝領により亀田城主岩城家に伝わり、上手の晩年の太刀の一口を説明書は「同作中の優品で」とし「黒田家伝来の一口である」[[c:9]]と記す。その作は今日、御物として、また旧家・大名家の永い伝来のうちに蔵されて広く市場に出るものではなく、特別重要刀剣・重要刀剣の級はわずかであるから、小反りの在銘師光が世に出ることは折に触れてのことに過ぎない。私蔵の一口は、収集家にとって静かながら手応えのあるもの、末期の長船がいかに応永備前へと向かったかを語る、年紀の確かな証である。
師光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在235点販売中
備前国邑久郡長船の地に興り、鎌倉時代中期から室町時代末期に至るまで連綿と鍛刀を続けた、刀剣史上最大の流派である。事実上の祖は光忠で、近忠の子と伝えるが近忠の作刀が知られないため、長船本流の起点はこの工に置かれる。古伝はその源を古備前正恒の一類が長船に移り住んだことに求め、光忠はその流れを承けて一門を興したと説く。すなわち本流派は、古備前の地盤の上に、丁子を主調とする華麗な作風をもって自立した備前鍛冶の本系である。光忠の下に長光、真長、景光らが輩出し、以後、相伝備前の兼光・長義・元重、室町初期の応永備前を経て末備前に至るまで、備前伝の中核を担い続けた。 作風は備前伝を基盤とし、よく錬れて杢を交えた板目に地沸が微塵につき、地景が細かに入り、地に乱れ映りが鮮明に立つ鍛えを共通の地とする。この乱れ映りこそ、在銘無銘を問わず一門の作を備前へ繋ぎ止める最も確かな標である。刃文には世代ごとの軸がある。草創の古長船にあって光忠は蛙子丁子を看どころとし、子の長光は頭の丸いふくらみのある丁子を加え、孫の景光は片落ち互の目を完成して逆がかりの足を看どころとした。この光忠、長光、景光の三代が長船嫡流の背骨をなし、近景がその影として景光をほぼ完璧に映し、真長は同じ地に締まる匂口の直刃を得意とした。南北朝期に入ると兼光が嫡流を承けつつのたれ主調の大模様を加え、相州伝を摂取した相伝備前の作風が現れる。長義は耳形の刃を看どころに兼光以上に相州伝を強調し、長重と兼長がこれに連なり、義景は匂口の沈むところに、元重は焼頭の揃った角ばる刃と青江気質に、それぞれ別系の個性を示した。体配もまた時代を映し、鎌倉の腰反り高い太刀から、南北朝の身幅広く大鋒の延文貞治型へ、さらに応永備前では古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃が甦る。康光と盛光を双璧とする応永備前は、腰の広く開いた互の目とローソクの芯と称する尖り返る帽子を看どころとし、その腰開き互の目と棒映りは末備前へと受け継がれた。長光景光以来の梵字、三鈷剣、倶利迦羅、八幡大菩薩などの刀身彫もまた、末備前まで絶えず継承された一門の標である。 鑑定にあっては、まず鮮明な乱れ映りで一門を備前と読み、次に世代と系統の看どころで工を分かつ。蛙子丁子は光忠、丸い頭の丁子は長光、逆がかる片落ち互の目は景光、のたれと角互の目は兼光、耳形の刃は長義、角ばり逆がかる刃と蝉の羽根の肌は元重、ローソクの芯の帽子は応永備前という具合に、看どころが系統と時代を指し示す。嫡流の光忠、長光、景光、兼光は藤代の最上作に列し、なかでも長光は重要文化財の指定数が全刀工中最多で、嫡流の作には名物大般若長光や小龍景光をはじめ、織田信長、徳川家康、上杉謙信ら天下を握った者の手を経た作が多い。相伝備前の長義や兼長、応永備前の康光や盛光もそれぞれ重きをなし、別系の元重もまた南北朝備前の大きな名を保つ。嫡流の在銘作が市に現れることは稀で、大半は大磨上無銘の極めとして伝わるが、長光のごとく銘を惜しまなかった工の作はなお蒐集家の手の届く範囲にある。後世への影響は計り知れず、本流派の作風と刀身彫の伝統は末備前を通じて室町備前の主流をなし、備前伝そのものの規範となった。 詳しく見る →
室町時代の備前
室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。