Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 "Ryuka-yu-ku" Horses playing under the willow 平安時代あるいは鎌倉時代の和歌にも放牧の様子が採られているように、奥羽は名馬の産地として広く認識されていた。また、多くの歌枕が奥羽に求められていることからも、訪れることが容易ではない異国の地に対する憧れが、これらの歌から感じとることができる。 都から遠く離れた奥羽の地に栄えた牧場経営の始まりは、古く大陸から渡来した民族との交易によるものとも考えられている。 天平年間、東山道各国で産した軍馬をその国外に持ち出すことを禁じる勅詔が発せられたことがあった。性の良い軍馬が好まれていただけでなく農耕馬としても需要が高まったためであるが、禁止令をすり抜けるように良馬が駄馬と称されて売買され、遂にはその駄馬さえも売買が禁止されるに至った。即ち勅詔を超えて需要があったのである。馬は鉄製の剣や鏃と共に最先端の武具であり、誰もが大量に所有することによって武力と権力の裏付けとしたのである。


土屋派
江戸
在銘
町彫 · Musashi (Edo)
現在13点販売中
土屋派は奈良金工の流れを汲む一派であり、奈良三作の一人に数えられる土屋安親を祖として江戸(武蔵国)に拠点を置いた。安親の名は六代にわたり嫡流が襲名し、元禄期より幕末に至るまで連綿と工房の系譜を維持した。門弟の安族は『庄内金工名譜』に「鈴木与平と称し初代安親門」と記され、「江戸で安親の協力工として暮し、晩年は庄内に戻り安親より弥五八の名を授かり子孫も弥五八を襲名した」と伝えられる。六代目の土屋昌親は五代国親の長男として下野国下館に生まれ、「青年時代に諸国を遊学して修業し、やがて江戸の芝新橋で開業した」。出羽秋田の佐竹家の藩工として扶持を受け、後年には法眼の位に叙された。石燕子・東遷と号し、万延二年に歿している。別の一門、土屋守親(東燕舎土屋嵩僊守親)も一作金具の制作で知られる。 土屋派の作風は奈良派の彫金技法を基盤とし、鋤出高彫を根幹とする。地金には鉄・赤銅を主とし、石目地や槌目地を多用して、金・銀・四分一・素銅による色絵を豊かに施す。説示が一貫して強調するのは、一作の中に多彩な彫技を駆使する点である。昌親の脇指拵では「高彫色絵・肉合彫・片切彫・毛彫・甲鋤彫と様々の彫技が駆使されており、それぞれに昌親の高い技術が示されている」と評される。意匠面では文学的・暗示的な構図を重んじ、守親の五節句大小拵では「行事そのものの風景ではなく、それを示唆させる景物描写によって各々を表現している」とあり、「意匠は端的に、彫金技術は的確に纏めており、守親の技術の高さが窺える」と記される。安族の猛馬山水図鐔においても「松樹に馬図の構図、鋤出高彫象嵌の彫法などには、奈良派及び安親の晩年作の特色をよくあらわしている」と評され、初代の作風が門弟に深く継承されたことが窺われる。 説示は土屋派を、奈良派の原理を江戸中期から幕末にかけて継承・展開した一派として位置づけている。初代安親の工房における権威は絶大であり、安族は「安親の陰の存在」と推測されるほどであった。六代昌親に至っても、大名家(佐竹家・前橋松井家)の注文に応じた入念作において、金具・漆・柄の各要素を「拵全体が典雅な趣として結実」させる統合力を示し、守親もまた五節句の各場面を大小金具に分配して「すっきりとした黒色の鞘に様々に描かれた金具のひとつひとつが冴える」一作を完成させている。上層武家の需に応じ続けた事実は、土屋派が幕末に至るまで武家社会の上層において高い評価を保ち続けたことを証するものである。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 "Ryuka-yu-ku" Horses playing under the willow 平安時代あるいは鎌倉時代の和歌にも放牧の様子が採られているように、奥羽は名馬の産地として広く認識されていた。また、多くの歌枕が奥羽に求められていることからも、訪れることが容易ではない異国の地に対する憧れが、これらの歌から感じとることができる。 都から遠く離れた奥羽の地に栄えた牧場経営の始まりは、古く大陸から渡来した民族との交易によるものとも考えられている。 天平年間、東山道各国で産した軍馬をその国外に持ち出すことを禁じる勅詔が発せられたことがあった。性の良い軍馬が好まれていただけでなく農耕馬としても需要が高まったためであるが、禁止令をすり抜けるように良馬が駄馬と称されて売買され、遂にはその駄馬さえも売買が禁止されるに至った。即ち勅詔を超えて需要があったのである。馬は鉄製の剣や鏃と共に最先端の武具であり、誰もが大量に所有することによって武力と権力の裏付けとしたのである。


土屋派
江戸
在銘
町彫 · Musashi (Edo)
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土屋派は奈良金工の流れを汲む一派であり、奈良三作の一人に数えられる土屋安親を祖として江戸(武蔵国)に拠点を置いた。安親の名は六代にわたり嫡流が襲名し、元禄期より幕末に至るまで連綿と工房の系譜を維持した。門弟の安族は『庄内金工名譜』に「鈴木与平と称し初代安親門」と記され、「江戸で安親の協力工として暮し、晩年は庄内に戻り安親より弥五八の名を授かり子孫も弥五八を襲名した」と伝えられる。六代目の土屋昌親は五代国親の長男として下野国下館に生まれ、「青年時代に諸国を遊学して修業し、やがて江戸の芝新橋で開業した」。出羽秋田の佐竹家の藩工として扶持を受け、後年には法眼の位に叙された。石燕子・東遷と号し、万延二年に歿している。別の一門、土屋守親(東燕舎土屋嵩僊守親)も一作金具の制作で知られる。 土屋派の作風は奈良派の彫金技法を基盤とし、鋤出高彫を根幹とする。地金には鉄・赤銅を主とし、石目地や槌目地を多用して、金・銀・四分一・素銅による色絵を豊かに施す。説示が一貫して強調するのは、一作の中に多彩な彫技を駆使する点である。昌親の脇指拵では「高彫色絵・肉合彫・片切彫・毛彫・甲鋤彫と様々の彫技が駆使されており、それぞれに昌親の高い技術が示されている」と評される。意匠面では文学的・暗示的な構図を重んじ、守親の五節句大小拵では「行事そのものの風景ではなく、それを示唆させる景物描写によって各々を表現している」とあり、「意匠は端的に、彫金技術は的確に纏めており、守親の技術の高さが窺える」と記される。安族の猛馬山水図鐔においても「松樹に馬図の構図、鋤出高彫象嵌の彫法などには、奈良派及び安親の晩年作の特色をよくあらわしている」と評され、初代の作風が門弟に深く継承されたことが窺われる。 説示は土屋派を、奈良派の原理を江戸中期から幕末にかけて継承・展開した一派として位置づけている。初代安親の工房における権威は絶大であり、安族は「安親の陰の存在」と推測されるほどであった。六代昌親に至っても、大名家(佐竹家・前橋松井家)の注文に応じた入念作において、金具・漆・柄の各要素を「拵全体が典雅な趣として結実」させる統合力を示し、守親もまた五節句の各場面を大小金具に分配して「すっきりとした黒色の鞘に様々に描かれた金具のひとつひとつが冴える」一作を完成させている。上層武家の需に応じ続けた事実は、土屋派が幕末に至るまで武家社会の上層において高い評価を保ち続けたことを証するものである。
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