1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
文政二年に十五歳で江戸の荘司大慶直胤に入門した直勝は、後に娘婿となって荘司次郎太郎直勝と名乗り、師直胤と同じく上野国館林藩秋元家に仕えている。直勝も技量が頗る優れ、備前長光、兼光に倣った刀や、板目肌に沸深い乱刃出来相州伝の刀を遺しているように備前、相州両伝を能くし、師の直胤や細川正義に比肩する名手として江戸後期の刀界に強い光彩を放っている。


Suishinshi Masahide line (Naotane school) · 武蔵 · 1805-1858頃
藤代 上作 · 刀剣大鑑 上位31%
現在2点販売中
次郎太郎直勝は、刀に大振りの六字銘を切り、江戸後期の数十年にわたって年紀を入れた。指定品の最も早いものは天保二年(一八三一)、最も遅いものは安政二年(一八五五)の年紀を負う。大慶直胤の門人で、のちにその養子となり、上州館林の秋元家に仕え、江戸下谷に住した。はじめ上総太郎といい、のちに次郎太郎と改めたが、説明は上総太郎銘の作は未見とする。直胤を介して水心子正秀の一門、新々刀の復古の中心に連なり、説明は彼を「直胤・正義に次ぐ実力者であり、また名工でもある」[[c:5]]と位置づける。師父直胤が歿した翌年の安政五年七月二十二日、五十四歳で歿した。
説明はその作風を大別して相州伝と備前伝とし、彼の本領は古作の長船に範をとった備前伝にある。その要は兼光に倣う片落ち互の目で、ある刀について説明は刃文を「片落ち互の目を主体として」[[c:6]]と記し、本作の狙いが長船兼光にあることは明瞭とする。これに角張る刃・尖りごころの刃・互の目を交え、足長く入り葉を交える。七口中四口では処々に逆がかる。この手を負う姿は豪壮で、身幅広く元先の幅差少なく、重ね厚く、鋒が延びる。天保十三年紀の長寸八十糎の刀について説明は、手持ちのずしりとした姿は実に勇壮であるとする。安政二年紀の刀については、同工のこの種の作は直胤のそれに比して一般に姿が豪壮で、片落風の互の目が大きくなる傾向があり、匂口も明るく、中には冴えたものもあると記す。
刃文の下の鍛えは小板目がよくつみ、時に板目に大杢目・流れ肌を交え、地沸が厚くつき、かねが明るい。何らかの映りは七口中四口に記されるが、明瞭な乱れ映りが立つのは天保十三年紀の長寸の刀のみである。他は淡く、天保二年紀の刀に幽かな乱れ映り風、天保十四年紀の刀に弱い丁子映り、安政二年紀の刀には無地風の地に淡い映り風が立つ。天保十三年紀の刀について説明は、地模様がよく現れ、乱れが常に比してやや小さく焼きも低めで、古色の雰囲気を上手に醸し出すとする。帽子は乱れ込んで、先尖りごころまたは小丸に返る。
その作は兼光写しに限られない。天保二年紀の刀には同工に珍しい彫物があり、指表に倶利迦羅を茎まで彫り下げ、裏に素剣を掻き流す。説明はこれを古作の長光に作意があったものとし、或は長光の本歌を写したものとも推し、兼光以外の写し物の作例として資料的にも貴重とする。また焼刃の角がかった刃や部分的に逆がかる足を、「彼の兼光写しに共通する手くせ」[[c:7]]と記す。天保九年紀の注文打ちの刀は備前伝の覇気ある面を示し、多種の刃を交えて華やかに乱れ、荒目の沸を交え、金筋・砂流しが常より一段と長く現れる。説明は鍛えの大杢目と乱れの逆がかりを、直胤同様に彼の見どころとする。
もう一つの面は沸の厚い作である。越後国水原で造った嘉永五年紀の刀は、丁子乱れに互の目交じり、足長く入り、沸つき、処々強く沸ついて湯走りかかり、棟焼かかり、匂口明るく冴える。説明はこれを「直勝の本領発揮の一口」[[c:8]]とする。本間による御物台帳に所載の天保六年紀の刀も同じ側に属し、板目に僅かに柾ごころがあり、丁子に互の目を交えた刃文は物打で殊に丁子が深く、沸つき砂流しかかり、足・葉が入る。その説明は、直胤のみならず直勝の相州伝にも「板目の肌の中に渦巻いた肌を現わすものが多く」[[c:9]]、一つの見どころであるとする。師を凌ぐのはいずれの伝かについて、説明は時期によって異なる。早い指定の説明は、相州伝の作に「直胤を凌駕するもの」[[c:10]]があるとし、後の説明は、古作の景光や兼光風の備前伝に直胤以上に優れたものがあるとする。安政二年紀の刀については、直胤のこの手の傑作に比肩する出来映えとして、「同作中の白眉」と評する。
収集の観点では、彼は一つの位にまとまる江戸後期の名工である。国宝・重要文化財・特別重要刀剣はなく、指定の記録は悉く重要刀剣にある。昭和四十四年の第十八回から令和四年の第六十八回まで六口の刀が指定され、いずれも生ぶ茎に大筋違の鑢目に化粧をかけ、在銘で年紀を切る。このほか天保六年紀の在銘の刀一口が本間による御物台帳に所載である。藤代の評価は上作、『刀工大鑑』の評価は四百五十点である。重要刀剣の作は私蔵で、大名家の伝来を負うものはない。指定の記録の全体が在銘の刀六口であるため、この出来の直勝が世に出ることは稀である。片落ち互の目に映りを伴う兼光風の備前伝の刀は、説明が最も多く取り上げる彼の面である。
直勝の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在69点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や本間による御物台帳に所載の御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。 詳しく見る →
新々刀 復古の運動
1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
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