次郎太郎直勝は、刀に大振りの六字銘を切り、江戸後期の数十年にわたって年紀を入れた。指定品の最も早いものは天保二年(一八三一)、最も遅いものは安政二年(一八五五)の年紀を負う。大慶直胤の門人で、のちにその養子となり、上州館林の秋元家に仕え、江戸下谷に住した。はじめ上総太郎といい、のちに次郎太郎と改めたが、説明は上総太郎銘の作は未見とする。直胤を介して水心子正秀の一門、新々刀の復古の中心に連なり、説明は彼を「直胤・正義に次ぐ実力者であり、また名工でもある」と位置づける。師父直胤が歿した翌年の安政五年七月二十二日、五十四歳で歿した。
説明はその作風を大別して相州伝と備前伝とし、彼の本領は古作の長船に範をとった備前伝にある。その要は兼光に倣う片落ち互の目で、ある刀について説明は刃文を「片落ち互の目を主体として」と記し、本作の狙いが長船兼光にあることは明瞭とする。これに角張る刃・尖りごころの刃・互の目を交え、足長く入り葉を交える。七口中四口では処々に逆がかる。この手を負う姿は豪壮で、身幅広く元先の幅差少なく、重ね厚く、鋒が延びる。天保十三年紀の長寸八十糎の刀について説明は、手持ちのずしりとした姿は実に勇壮であるとする。安政二年紀の刀については、同工のこの種の作は直胤のそれに比して一般に姿が豪壮で、片落風の互の目が大きくなる傾向があり、匂口も明るく、中には冴えたものもあると記す。
刃文の下の鍛えは小板目がよくつみ、時に板目に大杢目・流れ肌を交え、地沸が厚くつき、かねが明るい。何らかの映りは七口中四口に記されるが、明瞭な乱れ映りが立つのは天保十三年紀の長寸の刀のみである。他は淡く、天保二年紀の刀に幽かな乱れ映り風、天保十四年紀の刀に弱い丁子映り、安政二年紀の刀には無地風の地に淡い映り風が立つ。天保十三年紀の刀について説明は、地模様がよく現れ、乱れが常に比してやや小さく焼きも低めで、古色の雰囲気を上手に醸し出すとする。帽子は乱れ込んで、先尖りごころまたは小丸に返る。
その作は兼光写しに限られない。天保二年紀の刀には同工に珍しい彫物があり、指表に倶利迦羅を茎まで彫り下げ、裏に素剣を掻き流す。説明はこれを古作の長光に作意があったものとし、或は長光の本歌を写したものとも推し、兼光以外の写し物の作例として資料的にも貴重とする。また焼刃の角がかった刃や部分的に逆がかる足を、「彼の兼光写しに共通する手くせ」と記す。天保九年紀の注文打ちの刀は備前伝の覇気ある面を示し、多種の刃を交えて華やかに乱れ、荒目の沸を交え、金筋・砂流しが常より一段と長く現れる。説明は鍛えの大杢目と乱れの逆がかりを、直胤同様に彼の見どころとする。
もう一つの面は沸の厚い作である。越後国水原で造った嘉永五年紀の刀は、丁子乱れに互の目交じり、足長く入り、沸つき、処々強く沸ついて湯走りかかり、棟焼かかり、匂口明るく冴える。説明はこれを「直勝の本領発揮の一口」とする。本間による御物台帳に所載の天保六年紀の刀も同じ側に属し、板目に僅かに柾ごころがあり、丁子に互の目を交えた刃文は物打で殊に丁子が深く、沸つき砂流しかかり、足・葉が入る。その説明は、直胤のみならず直勝の相州伝にも「板目の肌の中に渦巻いた肌を現わすものが多く」、一つの見どころであるとする。師を凌ぐのはいずれの伝かについて、説明は時期によって異なる。早い指定の説明は、相州伝の作に「直胤を凌駕するもの」があるとし、後の説明は、古作の景光や兼光風の備前伝に直胤以上に優れたものがあるとする。安政二年紀の刀については、直胤のこの手の傑作に比肩する出来映えとして、「同作中の白眉」と評する。
収集の観点では、彼は一つの位にまとまる江戸後期の名工である。国宝・重要文化財・特別重要刀剣はなく、指定の記録は悉く重要刀剣にある。昭和四十四年の第十八回から令和四年の第六十八回まで六口の刀が指定され、いずれも生ぶ茎に大筋違の鑢目に化粧をかけ、在銘で年紀を切る。このほか天保六年紀の在銘の刀一口が本間による御物台帳に所載である。藤代の評価は上作、『刀工大鑑』の評価は四百五十点である。重要刀剣の作は私蔵で、大名家の伝来を負うものはない。指定の記録の全体が在銘の刀六口であるため、この出来の直勝が世に出ることは稀である。片落ち互の目に映りを伴う兼光風の備前伝の刀は、説明が最も多く取り上げる彼の面である。