水心子正秀の最古の年紀作は安永六年(一七七七)で、五郎正宗に私淑して「五郎正秀」と称した銘を切り、説明書はこれを「安永六年紀は、経眼中、最も古い年紀である」とする。正秀は寛延三年(一七五〇)羽州赤湯に生まれ、川部儀八郎と称した。初め鈴木宅英、次いで英国と銘し、武州下原の吉英に学び、後に相州綱広の門にも入ったという。安永三年に正秀と改めて水心子と号し、山形秋元家に仕え、後に江戸浜町に移った。多くの門弟を育て、著書も多く残している。作刀歴は安永から文政までほぼ五十年に及び、文政元年あるいは二年頃(説明書により異なる)天秀と号し、同八年に七十六歳で歿した。
正秀は復古刀の論者として知られ、「刀はすべて鎌倉の昔に復すべきである」と説いた。しかし説明書は、彼自身の佳作がその論以前にあることを率直に記す。天明・寛政・享和の頃は大坂新刀に私淑し、津田助広の濤瀾乱れや井上真改の直刃を焼き、「この時代のものに寧ろ傑作がある」。よくつんで無地風に近づく小板目に地沸が厚くつく。濤瀾は元に長い直ぐの焼出しを置き、大互の目が大波のごとく打ち寄せ、足太く入り、匂深く匂口明るい。真改風は沸匂深い広直刃で、稀に一竿子忠綱風のものもある。最上のものは「殆んど本科に迫るものがある」とされ、若打ちの一口は「いわゆる大坂写しの傑出の一口である」と評される。
本科との相違も説明書は同じく的確に記す。平肉は「平肉が乏しくペシャンとした感じがあり」、鋒は必ず延びごころとなる。地がねは綺麗であるが「黒ずんだ荒沸がつき」、「めくらがねに近く」地肌があらわれない。刃中にも処々荒沸が叢につく。一竿子写しの一口について説明書は「無地風の鍛えに、黒味がちの数の子沸がこぼれて、彼の手癖が見られる」とし、助広写しでは「多く刃中より地へこぼれる荒目の沸が見られ」るとする。帽子は概ね直ぐに小丸となる。
晩年には論を実践に移し、説明書はその作を終始焼刃の浅い備前伝とし、相州・美濃伝も試みたとする。晩期の備前伝の刀は匂出来の丁子乱れに足さかんに入り、匂口締まりごころに明るく、「丁子を破綻無く焼き」ながら、腰元のうるみに正秀の特徴を見せ、茎には子の貞秀が鍛錬した旨を切る。本間による御物台帳は三口の年紀作によってこの変遷を追う。四十八歳の寛政十年の刀は「この頃はなお大阪新刀風の作である」とされ、大湾れに匂口冴え小沸厚い。文政元年の脇指はゆったりとして地がねがことに宜しく、台帳は「貞宗などを写したものであろうか」と記す。七十歳の文政二年には小丁子に互の目を交え匂口の締った小沸出来のものが多く、地がねも無地鉄風となる。この頃の彫物は「恐らくその殆どすべてが弟子本庄義胤の手になる」という。
二つの時期について判者の序列は明らかである。重要美術品の享和三年紀の刀について説明書は、後者は当時の世相を示して刀剣史上意義があるが、「出来はむしろ前者に佳作を見る」とする。復古の作については「その技は弟子の大慶直胤に及ばない」と明言する。銘振りも変化に富み、享和の正秀銘は楷書・草書の両様に切り、洒落銘も用いた。寛政十年からは「日天」の文字を剣形に図案化した刻印を茎に打ち、その破損・修理の状態によって製作年代と真偽が明らかとなり、文政二年のものは「正秀一代五種の刻印中の最後のもの」である。門人として説明書は大慶直胤と、後の二代正義細川守秀の名を挙げる。
正秀の記録はことごとく在銘である。重要刀剣二十四口、戦前の重要美術品一口、本間による御物台帳所載の三口で、指定を受けた作は二十八口である。国宝・重要文化財はない。享和三年(一八〇三)紀の重要美術品の刀は、昭和十六年の認定時に滋賀の下郷共済会の所蔵であった。説明書はその大小を「正秀の大小は珍しく、貴重であり」と賞し、仙台十代国包ら門人との合作も好資料とする。細川守秀との合作の刀については「両人の合作は極めて珍しく好資料である」と記す。在銘・有年紀で比較的数も多いため、正秀は私の蒐集家にとって手の届かぬ工ではない。大坂写しの重要刀剣は時に市に現れ、江戸の作刀を古作へと向け直した当人の在銘の手を伝える。