1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
(文化年間、江戸時代後期、十一代将軍・徳川家斉公治世) 元幅:約3.12 cm 先幅:約2.00 cm 彫物:表裏 棒樋 丸留、連樋添え



















Taikei Naotane (shinshinto, Suishinshi Masahide line, Yamagata / Edo) · 武蔵 · 1801-1837頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位10%
現在15点販売中
大慶直胤は安永八年(1779年)出羽山形に生まれ、通称を荘司箕兵衛、号を大慶という。若くして江戸に出て、同郷の先輩で復古刀の主唱者である水心子正秀の門に入り、のち師と同じく秋元侯に仕えた。説明書は細川正義と共に水心子門下の逸材の一人とする。二十三歳の作に荘司直胤の名と寛政十三年正月の年紀を切ったものがあるので、入門はその二、三年前、独立は文化初年頃と推定される。文政四年(1821年)から筑前大掾を受領し、嘉永元年(1848年)に上京して美濃介に転じ、安政四年(1857年)に七十九歳で歿した。正秀が復古刀論の理論家とされるのに対し、直胤はその実践者とされ、説明書は繰り返し、大成して「その技術が師を凌ぐと評せられた」[[c:1]]と記す。
直胤は古刀の各伝に取組み、説明書は備前伝と相州伝を得意とし、特に備前伝に見るべきものが多いとする。そして「丁子乱れの巧みさは新々刀第一の定評がある」[[c:2]]という。ただ記録そのものでは、丁子はその定評ほど常に現れるわけではない。三十九口の説明のうち丁子乱れと明記するものは七口、刃中に何らかの丁子を交えるものは十四口である。備前伝はむしろ互の目を主調とする乱れに角がかった刃・片落ち互の目・尖り刃・丁子を交えることが多い。足長く入って処々刃先に抜け、刃は逆がかり、説明書はこれを鎌倉後期の長船景光・兼光をねらったものと読む。匂口は明るく冴え、匂勝ちに小沸つき、姿は腰元に反りのつく中鋒の、鎌倉時代の太刀を思わせる。
備前伝の地鉄は小板目よくつみ、地沸細かにつき地景入る。上作には乱れ映りが鮮明に立ち、文化十二年紀の刀では映りが処々焼頭に繋がる。説明書はこの甦った映りを長船を範とした証とする。一方で新作である所以も明言する。逆丁子が見事で乱れ映りの鮮明な文化十三年紀の刀について、「残念乍ら純然たる匂出来ではなく、全体に沸づくところが、古作と新々刀との相達である」[[c:7]]と記す。帽子は乱れ込んで尖りごころに掃きかけて返り、あるいは直ぐに小丸となる。
相州伝は記録のもう一つの面で、説明書は備前伝より稀とし、正宗・貞宗・志津をねらうとする。地鉄は大板目が肌立って大杢を交え、強い作には渦巻肌が入り、説明書はこれを相伝の作の見どころの一つとする。その上に湾れに互の目・大互の目を交え、匂深く沸厚く、むらづいて荒沸を交え、砂流しや沸筋が縞がかり、金筋長く入る。文政十三年紀の脇指について、説明書は放胆で「野趣が感ぜられる」[[c:4]]と評する。さらに小さく大和伝・直刃の手も残る。天保五年紀の刀は直刃調に小互の目を交え、説明書は本工に比較的珍しいとし、天保七年紀の大小の大は大和伝の総柾鍛えに相州伝の湾れ調に互の目を加味している。
直胤は江戸で鍛えるほか諸国を旅した。茎の刻印には伊勢・信濃・久居・浪華・備中の地名が見え、天保八年紀の備中打の刀の説明は、同年の別の一口に門人重次・重行・勝永の名があることを引き、門人を伴った旅であったとする。彫物の多くは水心子一門の彫物師本荘義胤によるもので、文化年間の脇指の添銘について説明書は資料的価値を認める。弘化五年の京都での作には「都」の刻印があり、銘文の如く太政殿下のために作った太刀の副作とされる。
藤代の評価は最上作。国宝・重要文化財はない。指定を受けた作は四十口で、特別重要刀剣一口、重要刀剣三十五口、戦前の重要美術品三口、浪華の刻印と天保八年紀をもつ御物の脇指一口である。いずれも在銘で、多くは年紀を有し、文化二年(1805年)から安政四年に及ぶ。杉原の注文による重要美術品の備前伝の刀は、本間の言として「彼の備前伝の作中の筆頭に置くべきものである」[[c:5]]とされ、同じく天保五年紀の相州伝の刀は「水心子の相州伝にもこれ程の出来はない」[[c:8]]とされ、「直胤の相州伝の傑作で同工の右翼といえる一口である」[[c:9]]と評される。天保三年紀の久居打の備前伝の刀は「直胤会心の一口」とされ、太田政恭の需めによる天保八年紀の備中打の刀は、材を精選したためか常の作を凌ぐとされる。津藩渡辺脩の注文作もあり、天保七年紀の大小は「藩政時代は真田家に伝来した」[[c:10]]。作が多いだけに偽物も多いと説明書は注意し、在銘の直胤は古刀の名工に比べはるかに見出しやすい。それでも特別重要刀剣・重要刀剣の作は売買されるより所蔵されることが多く、個人の蒐集家の手に入るのは時折のことである。
直胤の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在74点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。 詳しく見る →
新々刀 復古の運動
1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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