日本刀販売 | 銀座長州屋 |銘 荘司直勝 於東都淬 嘉永丑年十一月日 於北越荘瀬作之, 366 Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 大慶直胤の子で名手の誉高い次郎太郎直勝は嘉永五年から六年水原で有力者の需めに応えており、極上質の鋼と細心の鍛錬によるこれらの作は「水原打」として珍重されてい��る。


Suishinshi Masahide line (Naotane school) · 武蔵 · 1805-1858頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位31%
現在1点販売中
次郎太郎直勝は大振りの六字銘に「次郎太郎直勝」と切り、天保から安政に亙る幕末の年紀を残した。現存の指定作のうち最も古いものは天保二年(一八三一)紀、最も新しいものは安政二年(一八五五)紀である。彼は大慶直胤の門人で、後にその養子となり、上州館林の秋元家に仕え、江戸下谷に住した。初め上総太郎と称し、後に次郎太郎に改めたが、説明書は上総太郎銘の作は未見であると記す。直胤を介して新々刀復古の中心たる水心子正秀一門に連なり、その眼目は古作の伝法を蘇らせる復古刀にあった。説明書はこの一門の中で彼を「直胤に次ぐ実力者」[[c:1]]とし、「また名工でもある」[[c:2]]とする。安政五年(一八五八)、師父直胤に遅れること一年、五十四歳で没した。
その最も特徴的な手は古作の長船を範とした備前伝で、これを担うのは兼光に範をとった片落ち互の目である。説明書がある一刀の作を「片落ち互の目を主体」[[c:3]]と評する、その鋸歯状の刃である。これに角張る刃・尖り刃・互の目を交え、総体に逆がかり、足長くよく入り葉を交える。この作域を担う姿は豪壮で、身幅広く重ね厚く、元に踏張りつき、中鋒延びるないし大鋒となり、八十糎に及ぶ天保壬寅年の長寸の刀では手持ちずしりとした勇壮な姿となる。説明書はこの種の作が直胤に比して姿豪壮で片落ち互の目が大きくなるとし、逆がかりと鍛えの大杢目を直胤同様の見どころとして、これを「彼の兼光写しに共通する手くせ」[[c:4]]とする。帽子は乱れ込んで先尖りごころないし小丸に返る。
その刃の下の地鉄は復古を支える終始変わらぬところである。小板目をよくつめ、時に板目に大杢目・流れ肌を交えて開き、地沸厚くつき、かね明るい。その上に作域全体を束ねる古調な備前の映りが立つ。最も古い天保十四年の刀には丁子映りが、長寸の天保壬寅年の刀には乱れ映りが鮮明に立ち、他の作には無地風につんだ地に淡い映り風があらわれる。これは意図して求められた古作長船の地鉄で、直胤より低く静かに焼かれ、彼の備前伝の最も確かな徴となる。匂口は終始明るく、足長く頻りに入り、葉・細かな金筋・砂流しを交え、華やかな処では小さな飛焼を見せる。ある天保の一刀では彫物が彼には珍しく、倶利迦羅・素剣を茎の方へ下げて彫り、説明書はこの作を兼光ではなく古作の長光に作意を向けた写し、或は失われた本歌の写しと読む。
説明書は本工の作を備前伝と相州伝の二つに大別し、その記録は双方の面を伝える。今述べた備前伝が見どころで、判者が明確に「古作の兼光」に、また景光・長光に擬えた手である。相州伝はもう一つの作域で、説明書が最も高く評するところでもある。これを検するに、時に師たる直胤すらも凌ぐ作があるとし、「直胤を凌駕する」と記す。この手では刃文が丁子に互の目を交えた華やかな乱れに開き、足長く入り、沸が厚く処々強くついて湯走りを思わせ、棟焼かかり、金筋・砂流しがかかり、帽子は乱れ込んで先尖って返り、匂口明るく冴える。越後国水原で鍛えた嘉永五年の一刀は、この手における「本領発揮の一口」と称される。その銘は江戸の職方の徴を備え、生ぶ茎を大筋違に化粧鑢をかけ、棟寄りに大振りの六字銘を切り、長銘には荘司・藤原姓を加え、時に鍛刀地の添銘を伴う。
一門の中で彼を分かつのは、判者の名指すその古調な備前の色である。その備前伝は直胤自身のこの手の作と引き較べられ、説明書は彼の備前伝の佳作をその種の「同作中の白眉」とし、直胤のこの手の傑作に比肩する出来とする。両者の相違は、彼の姿がより豪壮で片落ち互の目がより大きく、焼きを低めにして古色を醸す点にあるとされる。彼自身の確かな見どころは、より素朴な新々刀の手と分かつ。すなわち兼光に範をとった片落ち互の目、半数の作に通じる逆がかり、地に立つ丁子映り・乱れ映り、そして地沸厚き上の明るい匂口である。彼は水心子の眼目を直胤よりその両面に継ぎ、古作長船に範をとった備前伝と、判者が師を凌ぐとする相州伝とを併せ持ち、この一門による幕末の長船復古を体現する。
収集の観点では、一つの級に収まる幕末の佳名である。国宝はなく、重要文化財もなく、特別重要刀剣もない。その指定の記録はことごとく重要刀剣を通じ、昭和四十四年の第十八回から令和四年の第六十八回まで、各回に六口が上げられ、いずれも在銘・年紀の刀である。藤代は上作とし、刀工大鑑は新々刀の中位上に値する。記録の作はいずれも私蔵にあり、古い指定は美術館や社寺ではなく名のある私人の手を経ており、旧家の伝来を留めるものはない。現存の指定の全てが在銘の刀六口である以上、この出来の直勝が世に出ることは稀であり、説明書が直胤に次ぐとする手による在銘・年紀の新々刀として迎えられ、わけても兼光の手の備前伝、片落ち互の目に乱れ映りを伴う一刀が出るときは殊に喜ばしい。
直勝の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在75点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
日本刀販売 | 銀座長州屋 |銘 荘司直勝 於東都淬 嘉永丑年十一月日 於北越荘瀬作之, 366 Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 大慶直胤の子で名手の誉高い次郎太郎直勝は嘉永五年から六年水原で有力者の需めに応えており、極上質の鋼と細心の鍛錬によるこれらの作は「水原打」として珍重されてい��る。


Suishinshi Masahide line (Naotane school) · 武蔵 · 1805-1858頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位31%
現在1点販売中
次郎太郎直勝は大振りの六字銘に「次郎太郎直勝」と切り、天保から安政に亙る幕末の年紀を残した。現存の指定作のうち最も古いものは天保二年(一八三一)紀、最も新しいものは安政二年(一八五五)紀である。彼は大慶直胤の門人で、後にその養子となり、上州館林の秋元家に仕え、江戸下谷に住した。初め上総太郎と称し、後に次郎太郎に改めたが、説明書は上総太郎銘の作は未見であると記す。直胤を介して新々刀復古の中心たる水心子正秀一門に連なり、その眼目は古作の伝法を蘇らせる復古刀にあった。説明書はこの一門の中で彼を「直胤に次ぐ実力者」[[c:1]]とし、「また名工でもある」[[c:2]]とする。安政五年(一八五八)、師父直胤に遅れること一年、五十四歳で没した。
その最も特徴的な手は古作の長船を範とした備前伝で、これを担うのは兼光に範をとった片落ち互の目である。説明書がある一刀の作を「片落ち互の目を主体」[[c:3]]と評する、その鋸歯状の刃である。これに角張る刃・尖り刃・互の目を交え、総体に逆がかり、足長くよく入り葉を交える。この作域を担う姿は豪壮で、身幅広く重ね厚く、元に踏張りつき、中鋒延びるないし大鋒となり、八十糎に及ぶ天保壬寅年の長寸の刀では手持ちずしりとした勇壮な姿となる。説明書はこの種の作が直胤に比して姿豪壮で片落ち互の目が大きくなるとし、逆がかりと鍛えの大杢目を直胤同様の見どころとして、これを「彼の兼光写しに共通する手くせ」[[c:4]]とする。帽子は乱れ込んで先尖りごころないし小丸に返る。
その刃の下の地鉄は復古を支える終始変わらぬところである。小板目をよくつめ、時に板目に大杢目・流れ肌を交えて開き、地沸厚くつき、かね明るい。その上に作域全体を束ねる古調な備前の映りが立つ。最も古い天保十四年の刀には丁子映りが、長寸の天保壬寅年の刀には乱れ映りが鮮明に立ち、他の作には無地風につんだ地に淡い映り風があらわれる。これは意図して求められた古作長船の地鉄で、直胤より低く静かに焼かれ、彼の備前伝の最も確かな徴となる。匂口は終始明るく、足長く頻りに入り、葉・細かな金筋・砂流しを交え、華やかな処では小さな飛焼を見せる。ある天保の一刀では彫物が彼には珍しく、倶利迦羅・素剣を茎の方へ下げて彫り、説明書はこの作を兼光ではなく古作の長光に作意を向けた写し、或は失われた本歌の写しと読む。
説明書は本工の作を備前伝と相州伝の二つに大別し、その記録は双方の面を伝える。今述べた備前伝が見どころで、判者が明確に「古作の兼光」に、また景光・長光に擬えた手である。相州伝はもう一つの作域で、説明書が最も高く評するところでもある。これを検するに、時に師たる直胤すらも凌ぐ作があるとし、「直胤を凌駕する」と記す。この手では刃文が丁子に互の目を交えた華やかな乱れに開き、足長く入り、沸が厚く処々強くついて湯走りを思わせ、棟焼かかり、金筋・砂流しがかかり、帽子は乱れ込んで先尖って返り、匂口明るく冴える。越後国水原で鍛えた嘉永五年の一刀は、この手における「本領発揮の一口」と称される。その銘は江戸の職方の徴を備え、生ぶ茎を大筋違に化粧鑢をかけ、棟寄りに大振りの六字銘を切り、長銘には荘司・藤原姓を加え、時に鍛刀地の添銘を伴う。
一門の中で彼を分かつのは、判者の名指すその古調な備前の色である。その備前伝は直胤自身のこの手の作と引き較べられ、説明書は彼の備前伝の佳作をその種の「同作中の白眉」とし、直胤のこの手の傑作に比肩する出来とする。両者の相違は、彼の姿がより豪壮で片落ち互の目がより大きく、焼きを低めにして古色を醸す点にあるとされる。彼自身の確かな見どころは、より素朴な新々刀の手と分かつ。すなわち兼光に範をとった片落ち互の目、半数の作に通じる逆がかり、地に立つ丁子映り・乱れ映り、そして地沸厚き上の明るい匂口である。彼は水心子の眼目を直胤よりその両面に継ぎ、古作長船に範をとった備前伝と、判者が師を凌ぐとする相州伝とを併せ持ち、この一門による幕末の長船復古を体現する。
収集の観点では、一つの級に収まる幕末の佳名である。国宝はなく、重要文化財もなく、特別重要刀剣もない。その指定の記録はことごとく重要刀剣を通じ、昭和四十四年の第十八回から令和四年の第六十八回まで、各回に六口が上げられ、いずれも在銘・年紀の刀である。藤代は上作とし、刀工大鑑は新々刀の中位上に値する。記録の作はいずれも私蔵にあり、古い指定は美術館や社寺ではなく名のある私人の手を経ており、旧家の伝来を留めるものはない。現存の指定の全てが在銘の刀六口である以上、この出来の直勝が世に出ることは稀であり、説明書が直胤に次ぐとする手による在銘・年紀の新々刀として迎えられ、わけても兼光の手の備前伝、片落ち互の目に乱れ映りを伴う一刀が出るときは殊に喜ばしい。
直勝の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在75点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。