室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
祐光は右京亮勝光と左京進宗光の父。応永盛光、康光の後、一層の地刃の美と操作性の良さを追求し、勝光、宗光、忠光、清光、祐定など室町後期の備前刀工の魁として、刀史にその名を刻んでいる。


Bizen Osafune (Sue-Bizen) · 備前 · 1429-1462頃
刀剣大鑑 上位21%
現在1点販売中
「備州長船祐光 永享九年八月日」[[c:11]]と銘する太刀は本工の最も古い年紀作で、説明書はこれを「いわゆる応永備前といわれる作風を示した生ぶ有銘の太刀で堂々としたものである」[[c:1]]とする。年紀作は嘉吉・文安・宝徳・康正・寛正に及び、文明五年(一四七三)紀の脇指もある。銘鑑は祐光と銘する七名を挙げ、本会は年紀の上から本工をその初代と考える。いくつかの作には俗名六郎左衛門尉を冠し、これらによって右京亮勝光・左京進宗光兄弟の父であることが知られる。その証は文明九年紀の宗光の短刀で、「長船祐光次男左京進宗光」[[c:2]]と銘し、説明書は応永備前から末備前へ移る過渡期の作風をよく示すとする。
典型の刃文は腰の開いた互の目に少しく丁子を交え、匂勝ちに小沸つき、刃中に細かな金筋・砂流しがかかり、匂口明るい。永享の太刀では尖りごころの刃を交え、文安五年の太刀では尖り刃・角張る刃を交えて処々島刃風を見せる。説明書はこの文安の太刀を肉置豊かで健全とし、「その技術の高さを遺憾無く示す同工の優品である」[[c:3]]とする。その裏には万治元年、山野加右衛門尉永久の金象嵌截断銘がある。
地鉄は板目に杢を交え、時に流れ、また肌立ち、地沸つき地景よく入り、棒映りが淡く、あるいは鮮やかに立つ。帽子は乱れ込んで小丸に返り、あるいは直ぐに尖って返る。内反りの文安六年紀の短刀はその作風を小品に示し、板目に杢を交えて肌立ち、地沸厚めにつき地景入って棒映り立ち、腰の開いた互の目・互の目のたれを焼き、足よく入り、少しく湯走りを見せる。説明書は「祐光の典型作風を示しつつその美点が遍く表出した逸品であり」[[c:4]]とする。表に「一宮大明神」の文字を陰刻する。
説明書は年紀作を、応永備前から末備前へ渡る一人の手と読む。嘉吉三年紀の脇指について、造込みと地刃にはなお応永備前風がうかがえるが、「乱れの振幅が小さく丁子が目立たないところに時代の降ることを示している」[[c:5]]とする。康正三年紀の太刀は腰反り高い太刀姿に腰開き互の目に丁子を交え、寛正三年紀の刀は六郎左衛門尉の俗名を入れて長銘を切り、錦包半太刀拵を附して、直刃調に互の目足入り上半匂口締りごころとなる。説明書はこれを「同銘の現存するものは頗る少く、彫物も見事で、末備前として出来がよい」[[c:6]]と評する。彫物は総じて見事で、倶利迦羅、梵字・経文、二筋樋、神号がある。
本工はまた中直刃も焼いた。宝徳三年紀の脇指は裏に「摂津国於竹原作」と切り、この期の備前鍛冶が各地へ移って作刀し、勝光などに備中草壁・備前児島・京・江州の作がある事情を伝える。説明書は「末備前鍛冶研究の好資料であるばかりではなく、中直刃の佳作である」[[c:7]]とする。本間による御物台帳に所載の文明五年紀の脇指も同じ静かな手で、板目やや流れごころに肌立ち白けごころの棒映り立ち、中直刃に僅かに湾れごころあって小沸つき、棒樋に添樋を掻いて梵字・三鈷剣を彫り重ね、天照大神宮の神号を切る。本間は銘鑑の五代の代別を挙げつつ「この代別が果して正しいか否かについては今後に俟たねばならぬ」[[c:8]]とし、同名数工は「直刃、乱刃ともに上手である」[[c:9]]とし、天照大神宮の神号を「伊勢信仰とあわせて注目すべきことであろう」[[c:10]]とする。
収集の観点では、祐光の記録は重要刀剣七口で、すべて生ぶ茎に年紀ある在銘作であり、それより上の級の作はない。来歴は記録されない。説明書は六郎左衛門尉の俗名入りの作が頗る少いことを強調し、長船を室町後期へ導いた家の祖による年紀と彫物を備えた一口が世に出るのは折にふれてのことであり、応永備前から末備前への移りを伝える資料として重んじられる。
祐光の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在188点販売中
備前国邑久郡長船の地に興り、鎌倉時代中期から室町時代末期に至るまで連綿と鍛刀を続けた、刀剣史上最大の流派である。事実上の祖は光忠で、近忠の子と伝えるが近忠の作刀が知られないため、長船本流の起点はこの工に置かれる。古伝はその源を古備前正恒の一類が長船に移り住んだことに求め、光忠はその流れを承けて一門を興したと説く。すなわち本流派は、古備前の地盤の上に、丁子を主調とする華麗な作風をもって自立した備前鍛冶の本系である。光忠の下に長光、真長、景光らが輩出し、以後、相伝備前の兼光・長義・元重、室町初期の応永備前を経て末備前に至るまで、備前伝の中核を担い続けた。 作風は備前伝を基盤とし、よく錬れて杢を交えた板目に地沸が微塵につき、地景が細かに入り、地に乱れ映りが鮮明に立つ鍛えを共通の地とする。この乱れ映りこそ、在銘無銘を問わず一門の作を備前へ繋ぎ止める最も確かな標である。刃文には世代ごとの軸がある。草創の古長船にあって光忠は蛙子丁子を看どころとし、子の長光は頭の丸いふくらみのある丁子を加え、孫の景光は片落ち互の目を完成して逆がかりの足を看どころとした。この光忠、長光、景光の三代が長船嫡流の背骨をなし、近景がその影として景光をほぼ完璧に映し、真長は同じ地に締まる匂口の直刃を得意とした。南北朝期に入ると兼光が嫡流を承けつつのたれ主調の大模様を加え、相州伝を摂取した相伝備前の作風が現れる。長義は耳形の刃を看どころに兼光以上に相州伝を強調し、長重と兼長がこれに連なり、義景は匂口の沈むところに、元重は焼頭の揃った角ばる刃と青江気質に、それぞれ別系の個性を示した。体配もまた時代を映し、鎌倉の腰反り高い太刀から、南北朝の身幅広く大鋒の延文貞治型へ、さらに応永備前では古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃が甦る。康光と盛光を双璧とする応永備前は、腰の広く開いた互の目とローソクの芯と称する尖り返る帽子を看どころとし、その腰開き互の目と棒映りは末備前へと受け継がれた。長光景光以来の梵字、三鈷剣、倶利迦羅、八幡大菩薩などの刀身彫もまた、末備前まで絶えず継承された一門の標である。 鑑定にあっては、まず鮮明な乱れ映りで一門を備前と読み、次に世代と系統の看どころで工を分かつ。蛙子丁子は光忠、丸い頭の丁子は長光、逆がかる片落ち互の目は景光、のたれと角互の目は兼光、耳形の刃は長義、角ばり逆がかる刃と蝉の羽根の肌は元重、ローソクの芯の帽子は応永備前という具合に、看どころが系統と時代を指し示す。嫡流の光忠、長光、景光、兼光は藤代の最上作に列し、なかでも長光は重要文化財の指定数が全刀工中最多で、嫡流の作には名物大般若長光や小龍景光をはじめ、織田信長、徳川家康、上杉謙信ら天下を握った者の手を経た作が多い。相伝備前の長義や兼長、応永備前の康光や盛光もそれぞれ重きをなし、別系の元重もまた南北朝備前の大きな名を保つ。嫡流の在銘作が市に現れることは稀で、大半は大磨上無銘の極めとして伝わるが、長光のごとく銘を惜しまなかった工の作はなお蒐集家の手の届く範囲にある。後世への影響は計り知れず、本流派の作風と刀身彫の伝統は末備前を通じて室町備前の主流をなし、備前伝そのものの規範となった。 詳しく見る →
室町時代の備前
室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。