室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 祐光は右京亮勝光と左京進宗光の父。応永盛光、康光の後、一層の地刃の美と操作性の良さを追求し、勝光、宗光、忠光、清光、祐定など室町後期の備前刀工の魁として、刀史にその名を刻んでいる。


Bizen Osafune (Sue-Bizen) · 備前 · 1429-1462頃
刀剣大鑑 上位21%
現在1点販売中
備前長船の祐光の銘の下に伝わる最も古い年紀作は永享九年(一四三七)の太刀で、説明が応永備前と呼ぶ作風を示した生ぶ有銘の刀であり、これを「堂々としたものである」[[c:1]]とする。最も新しいのは寛正三年(一四六二)の刀で、その銘中に俗名・官途の六郎左衛門尉を冠す。この二つの年紀の間には二十五年と一つの作風の渡りがある。祐光はまさに、説明が応永備前から末備前へ移ると名づける時に作刀したからである。銘鑑はこの名を切る七名を挙げ、本会は年紀の上から、ここに収める年紀作をその中の初代と読み、右京亮勝光・左京進宗光兄弟を儲けて長きにわたる長船の系統を室町後期へ運んだ長船家の祖とする。その作は降りの蝶番に立ち、十五世紀前期の応永備前の作風が、子らが導く末備前の作へすでに転じている。
作の見どころは腰の開いた互の目で、腰元で谷の大きく開く互の目に少しく丁子を交え、変化に富む乱れをなす。匂勝ちに小沸つき、刃中に細かな金筋・砂流しがかかり、最も良いものでは匂口が明るい。前期の永享の太刀では腰元に開いた刃に尖りごころの刃を交え、僅かに砂流し・金筋がかかり、帽子は直ぐに掃きかけて先尖りごころとなる。成熟した年紀作では同じ腰開きの互の目に尖り刃・角張る刃を交え、処々島刃を思わせ、なお匂勝ちに小沸つき匂口は明るい。年の降りは刃そのものから読まれる。嘉吉三年(一四四三)の脇指について説明は「乱れの振幅が小さく丁子が目立たない」[[c:2]]と記し、かつて華やかであった応永備前の丁子の鎮まりに時代の降ることを読む。腰開きの刃は彼の一定であり、その振幅の狭まりこそ彼の時計である。
刃文の下には板目に杢を交えた地があり、処々肌立ち、その上に棒映りが冴える。長船の鉄の棒状の映りである。地沸は厚めにつき地景よく入り、幅広い太刀では地沸が微塵に細かくつき、淡い映りがその上に漂う。帽子は刃文に応じ、激しい作では乱れ込んで小丸に返り、静かな作では直ぐに小丸、あるいは尖って返る。姿は年紀と形に従って動く。前期の太刀は細身で腰反り深く小鋒の応永備前の姿、成熟期の太刀は尋常幅で先細りごころに重ね厚く、脇指・短刀は幅広く寸延びて重ねの厚い平造の作である。彫物はその作の繰り返す楽しみで、一口には草の倶利迦羅・梵字と経文、他の一口には二筋樋、文安六年(一四四九)の短刀には「一宮大明神」の陰刻がある。説明はその短刀を「祐光の作域がよく示されている」[[c:3]]一口とする。
世代はその名の未決の問いで、説明はこれを年紀によって解く。祐光は数代の存在が指摘されており、銘鑑には同銘七名が挙げられ、永和頃の小反り物にも祐光がいるとした上で、年紀作はその年紀の証から初代に当てる。勝光・宗光の父たることは corpus 外の資料刀で定まる。文明九年の宗光の短刀に「長船祐光次男左京進宗光」[[c:7]]とあり、説明はこれが「応永備前から末備前へ移る過渡期の作風」[[c:4]]をよく示すとする。彼自身の年紀作も過渡の途上にある同じ手を示し、永享の太刀は堂々として応永備前の風を帯び、後の脇指・短刀は出来口が穏やかで、造込みと地刃にはなお応永備前風がうかがえつつ丁子が退き乱れが狭まる。六郎左衛門尉の俗名を冠した作、その現存が「頗る少」とされる作こそ、説明が初代の標識とするものである。
一門の中では、彼は室町中期の転に立つ長船本流に属し、盛光・康光の応永備前と、子らが運営する厚い末備前工房との間の世代である。その見分けは比較に借るのではなく彼自身の地に足のついた特徴に読まれる。丁子の鎮まった腰開きの互の目、肌立つ板目の上の棒映り、明るい匂口、そして古い備前の丸い丁子ではなくその手の末備前への方向を示す尖り刃・角張る刃である。説明は彼の作を刀としてのみならず資料としても重んじる。摂津国於竹原作と切る脇指は、この期に備前鍛冶が他国へ移動して作刀した記録を伝え、「末備前鍛冶研究の好資料」[[c:6]]と呼ばれる。見事な彫物のある寛正の刀を末備前として出来がよく、同銘の現存が頗る少い刀とする。勝光・宗光を通じて彼の系統は室町後期の長船の主要工房となり、永正・天文の量産期へと学校を導く名となった。
藤代の位列は彼については記録されず、指定の記録は規模において穏やかである。記録されるは七口、いずれも重要刀剣で、さらに一口が皇室の御物に伝わり、上位の指定はその中にない。その御物の古刀は皇室に伝来し、今日は林原美術館に蔵される、彼の資料に残る唯一の明らかな伝来である。作は室町中期の備前の太刀・脇指・短刀の一群で、私蔵や長く記録された手に伝わり、所在の知られる一口は鎌倉の太刀ほど稀ではなく時に現れる。その作の価値は一つには資料にあり、年紀ある生ぶ有銘の作が応永備前から末備前への渡りを一口ずつ読み解かせ、一つには鑑者がその最良の作に揚げる出来にある。文安五年(一四四八)の太刀は裏に名高い試刀家山野加右衛門尉永久の金象嵌截断銘を負い、その刀が鍛えの後代まで業物として試されたことを示す。収集家にとって六郎左衛門尉祐光は、その転における長船の名の年紀ある知り得る端であり、時代の弧と一門の問いを手の中で読み得る刀にて、その最良の作には説明が言うように、祐光の作域がよく示されている。
祐光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在236点販売中
備前国邑久郡長船の地に興り、鎌倉時代中期から室町時代末期に至るまで連綿と鍛刀を続けた、刀剣史上最大の流派である。事実上の祖は光忠で、近忠の子と伝えるが近忠の作刀が知られないため、長船本流の起点はこの工に置かれる。古伝はその源を古備前正恒の一類が長船に移り住んだことに求め、光忠はその流れを承けて一門を興したと説く。すなわち本流派は、古備前の地盤の上に、丁子を主調とする華麗な作風をもって自立した備前鍛冶の本系である。光忠の下に長光、真長、景光らが輩出し、以後、相伝備前の兼光・長義・元重、室町初期の応永備前を経て末備前に至るまで、備前伝の中核を担い続けた。 作風は備前伝を基盤とし、よく錬れて杢を交えた板目に地沸が微塵につき、地景が細かに入り、地に乱れ映りが鮮明に立つ鍛えを共通の地とする。この乱れ映りこそ、在銘無銘を問わず一門の作を備前へ繋ぎ止める最も確かな標である。刃文には世代ごとの軸がある。草創の古長船にあって光忠は蛙子丁子を看どころとし、子の長光は頭の丸いふくらみのある丁子を加え、孫の景光は片落ち互の目を完成して逆がかりの足を看どころとした。この光忠、長光、景光の三代が長船嫡流の背骨をなし、近景がその影として景光をほぼ完璧に映し、真長は同じ地に締まる匂口の直刃を得意とした。南北朝期に入ると兼光が嫡流を承けつつのたれ主調の大模様を加え、相州伝を摂取した相伝備前の作風が現れる。長義は耳形の刃を看どころに兼光以上に相州伝を強調し、長重と兼長がこれに連なり、義景は匂口の沈むところに、元重は焼頭の揃った角ばる刃と青江気質に、それぞれ別系の個性を示した。体配もまた時代を映し、鎌倉の腰反り高い太刀から、南北朝の身幅広く大鋒の延文貞治型へ、さらに応永備前では古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃が甦る。康光と盛光を双璧とする応永備前は、腰の広く開いた互の目とローソクの芯と称する尖り返る帽子を看どころとし、その腰開き互の目と棒映りは末備前へと受け継がれた。長光景光以来の梵字、三鈷剣、倶利迦羅、八幡大菩薩などの刀身彫もまた、末備前まで絶えず継承された一門の標である。 鑑定にあっては、まず鮮明な乱れ映りで一門を備前と読み、次に世代と系統の看どころで工を分かつ。蛙子丁子は光忠、丸い頭の丁子は長光、逆がかる片落ち互の目は景光、のたれと角互の目は兼光、耳形の刃は長義、角ばり逆がかる刃と蝉の羽根の肌は元重、ローソクの芯の帽子は応永備前という具合に、看どころが系統と時代を指し示す。嫡流の光忠、長光、景光、兼光は藤代の最上作に列し、なかでも長光は重要文化財の指定数が全刀工中最多で、嫡流の作には名物大般若長光や小龍景光をはじめ、織田信長、徳川家康、上杉謙信ら天下を握った者の手を経た作が多い。相伝備前の長義や兼長、応永備前の康光や盛光もそれぞれ重きをなし、別系の元重もまた南北朝備前の大きな名を保つ。嫡流の在銘作が市に現れることは稀で、大半は大磨上無銘の極めとして伝わるが、長光のごとく銘を惜しまなかった工の作はなお蒐集家の手の届く範囲にある。後世への影響は計り知れず、本流派の作風と刀身彫の伝統は末備前を通じて室町備前の主流をなし、備前伝そのものの規範となった。 詳しく見る →
室町時代の備前
室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 祐光は右京亮勝光と左京進宗光の父。応永盛光、康光の後、一層の地刃の美と操作性の良さを追求し、勝光、宗光、忠光、清光、祐定など室町後期の備前刀工の魁として、刀史にその名を刻んでいる。


Bizen Osafune (Sue-Bizen) · 備前 · 1429-1462頃
刀剣大鑑 上位21%
現在1点販売中
備前長船の祐光の銘の下に伝わる最も古い年紀作は永享九年(一四三七)の太刀で、説明が応永備前と呼ぶ作風を示した生ぶ有銘の刀であり、これを「堂々としたものである」[[c:1]]とする。最も新しいのは寛正三年(一四六二)の刀で、その銘中に俗名・官途の六郎左衛門尉を冠す。この二つの年紀の間には二十五年と一つの作風の渡りがある。祐光はまさに、説明が応永備前から末備前へ移ると名づける時に作刀したからである。銘鑑はこの名を切る七名を挙げ、本会は年紀の上から、ここに収める年紀作をその中の初代と読み、右京亮勝光・左京進宗光兄弟を儲けて長きにわたる長船の系統を室町後期へ運んだ長船家の祖とする。その作は降りの蝶番に立ち、十五世紀前期の応永備前の作風が、子らが導く末備前の作へすでに転じている。
作の見どころは腰の開いた互の目で、腰元で谷の大きく開く互の目に少しく丁子を交え、変化に富む乱れをなす。匂勝ちに小沸つき、刃中に細かな金筋・砂流しがかかり、最も良いものでは匂口が明るい。前期の永享の太刀では腰元に開いた刃に尖りごころの刃を交え、僅かに砂流し・金筋がかかり、帽子は直ぐに掃きかけて先尖りごころとなる。成熟した年紀作では同じ腰開きの互の目に尖り刃・角張る刃を交え、処々島刃を思わせ、なお匂勝ちに小沸つき匂口は明るい。年の降りは刃そのものから読まれる。嘉吉三年(一四四三)の脇指について説明は「乱れの振幅が小さく丁子が目立たない」[[c:2]]と記し、かつて華やかであった応永備前の丁子の鎮まりに時代の降ることを読む。腰開きの刃は彼の一定であり、その振幅の狭まりこそ彼の時計である。
刃文の下には板目に杢を交えた地があり、処々肌立ち、その上に棒映りが冴える。長船の鉄の棒状の映りである。地沸は厚めにつき地景よく入り、幅広い太刀では地沸が微塵に細かくつき、淡い映りがその上に漂う。帽子は刃文に応じ、激しい作では乱れ込んで小丸に返り、静かな作では直ぐに小丸、あるいは尖って返る。姿は年紀と形に従って動く。前期の太刀は細身で腰反り深く小鋒の応永備前の姿、成熟期の太刀は尋常幅で先細りごころに重ね厚く、脇指・短刀は幅広く寸延びて重ねの厚い平造の作である。彫物はその作の繰り返す楽しみで、一口には草の倶利迦羅・梵字と経文、他の一口には二筋樋、文安六年(一四四九)の短刀には「一宮大明神」の陰刻がある。説明はその短刀を「祐光の作域がよく示されている」[[c:3]]一口とする。
世代はその名の未決の問いで、説明はこれを年紀によって解く。祐光は数代の存在が指摘されており、銘鑑には同銘七名が挙げられ、永和頃の小反り物にも祐光がいるとした上で、年紀作はその年紀の証から初代に当てる。勝光・宗光の父たることは corpus 外の資料刀で定まる。文明九年の宗光の短刀に「長船祐光次男左京進宗光」[[c:7]]とあり、説明はこれが「応永備前から末備前へ移る過渡期の作風」[[c:4]]をよく示すとする。彼自身の年紀作も過渡の途上にある同じ手を示し、永享の太刀は堂々として応永備前の風を帯び、後の脇指・短刀は出来口が穏やかで、造込みと地刃にはなお応永備前風がうかがえつつ丁子が退き乱れが狭まる。六郎左衛門尉の俗名を冠した作、その現存が「頗る少」とされる作こそ、説明が初代の標識とするものである。
一門の中では、彼は室町中期の転に立つ長船本流に属し、盛光・康光の応永備前と、子らが運営する厚い末備前工房との間の世代である。その見分けは比較に借るのではなく彼自身の地に足のついた特徴に読まれる。丁子の鎮まった腰開きの互の目、肌立つ板目の上の棒映り、明るい匂口、そして古い備前の丸い丁子ではなくその手の末備前への方向を示す尖り刃・角張る刃である。説明は彼の作を刀としてのみならず資料としても重んじる。摂津国於竹原作と切る脇指は、この期に備前鍛冶が他国へ移動して作刀した記録を伝え、「末備前鍛冶研究の好資料」[[c:6]]と呼ばれる。見事な彫物のある寛正の刀を末備前として出来がよく、同銘の現存が頗る少い刀とする。勝光・宗光を通じて彼の系統は室町後期の長船の主要工房となり、永正・天文の量産期へと学校を導く名となった。
藤代の位列は彼については記録されず、指定の記録は規模において穏やかである。記録されるは七口、いずれも重要刀剣で、さらに一口が皇室の御物に伝わり、上位の指定はその中にない。その御物の古刀は皇室に伝来し、今日は林原美術館に蔵される、彼の資料に残る唯一の明らかな伝来である。作は室町中期の備前の太刀・脇指・短刀の一群で、私蔵や長く記録された手に伝わり、所在の知られる一口は鎌倉の太刀ほど稀ではなく時に現れる。その作の価値は一つには資料にあり、年紀ある生ぶ有銘の作が応永備前から末備前への渡りを一口ずつ読み解かせ、一つには鑑者がその最良の作に揚げる出来にある。文安五年(一四四八)の太刀は裏に名高い試刀家山野加右衛門尉永久の金象嵌截断銘を負い、その刀が鍛えの後代まで業物として試されたことを示す。収集家にとって六郎左衛門尉祐光は、その転における長船の名の年紀ある知り得る端であり、時代の弧と一門の問いを手の中で読み得る刀にて、その最良の作には説明が言うように、祐光の作域がよく示されている。
祐光の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
現在236点販売中
備前国邑久郡長船の地に興り、鎌倉時代中期から室町時代末期に至るまで連綿と鍛刀を続けた、刀剣史上最大の流派である。事実上の祖は光忠で、近忠の子と伝えるが近忠の作刀が知られないため、長船本流の起点はこの工に置かれる。古伝はその源を古備前正恒の一類が長船に移り住んだことに求め、光忠はその流れを承けて一門を興したと説く。すなわち本流派は、古備前の地盤の上に、丁子を主調とする華麗な作風をもって自立した備前鍛冶の本系である。光忠の下に長光、真長、景光らが輩出し、以後、相伝備前の兼光・長義・元重、室町初期の応永備前を経て末備前に至るまで、備前伝の中核を担い続けた。 作風は備前伝を基盤とし、よく錬れて杢を交えた板目に地沸が微塵につき、地景が細かに入り、地に乱れ映りが鮮明に立つ鍛えを共通の地とする。この乱れ映りこそ、在銘無銘を問わず一門の作を備前へ繋ぎ止める最も確かな標である。刃文には世代ごとの軸がある。草創の古長船にあって光忠は蛙子丁子を看どころとし、子の長光は頭の丸いふくらみのある丁子を加え、孫の景光は片落ち互の目を完成して逆がかりの足を看どころとした。この光忠、長光、景光の三代が長船嫡流の背骨をなし、近景がその影として景光をほぼ完璧に映し、真長は同じ地に締まる匂口の直刃を得意とした。南北朝期に入ると兼光が嫡流を承けつつのたれ主調の大模様を加え、相州伝を摂取した相伝備前の作風が現れる。長義は耳形の刃を看どころに兼光以上に相州伝を強調し、長重と兼長がこれに連なり、義景は匂口の沈むところに、元重は焼頭の揃った角ばる刃と青江気質に、それぞれ別系の個性を示した。体配もまた時代を映し、鎌倉の腰反り高い太刀から、南北朝の身幅広く大鋒の延文貞治型へ、さらに応永備前では古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃が甦る。康光と盛光を双璧とする応永備前は、腰の広く開いた互の目とローソクの芯と称する尖り返る帽子を看どころとし、その腰開き互の目と棒映りは末備前へと受け継がれた。長光景光以来の梵字、三鈷剣、倶利迦羅、八幡大菩薩などの刀身彫もまた、末備前まで絶えず継承された一門の標である。 鑑定にあっては、まず鮮明な乱れ映りで一門を備前と読み、次に世代と系統の看どころで工を分かつ。蛙子丁子は光忠、丸い頭の丁子は長光、逆がかる片落ち互の目は景光、のたれと角互の目は兼光、耳形の刃は長義、角ばり逆がかる刃と蝉の羽根の肌は元重、ローソクの芯の帽子は応永備前という具合に、看どころが系統と時代を指し示す。嫡流の光忠、長光、景光、兼光は藤代の最上作に列し、なかでも長光は重要文化財の指定数が全刀工中最多で、嫡流の作には名物大般若長光や小龍景光をはじめ、織田信長、徳川家康、上杉謙信ら天下を握った者の手を経た作が多い。相伝備前の長義や兼長、応永備前の康光や盛光もそれぞれ重きをなし、別系の元重もまた南北朝備前の大きな名を保つ。嫡流の在銘作が市に現れることは稀で、大半は大磨上無銘の極めとして伝わるが、長光のごとく銘を惜しまなかった工の作はなお蒐集家の手の届く範囲にある。後世への影響は計り知れず、本流派の作風と刀身彫の伝統は末備前を通じて室町備前の主流をなし、備前伝そのものの規範となった。 詳しく見る →
室町時代の備前
室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。