「備州長船祐光 永享九年八月日」と銘する太刀は本工の最も古い年紀作で、説明書はこれを「いわゆる応永備前といわれる作風を示した生ぶ有銘の太刀で堂々としたものである」とする。年紀作は嘉吉・文安・宝徳・康正・寛正に及び、文明五年(一四七三)紀の脇指もある。銘鑑は祐光と銘する七名を挙げ、本会は年紀の上から本工をその初代と考える。いくつかの作には俗名六郎左衛門尉を冠し、これらによって右京亮勝光・左京進宗光兄弟の父であることが知られる。その証は文明九年紀の宗光の短刀で、「長船祐光次男左京進宗光」と銘し、説明書は応永備前から末備前へ移る過渡期の作風をよく示すとする。
典型の刃文は腰の開いた互の目に少しく丁子を交え、匂勝ちに小沸つき、刃中に細かな金筋・砂流しがかかり、匂口明るい。永享の太刀では尖りごころの刃を交え、文安五年の太刀では尖り刃・角張る刃を交えて処々島刃風を見せる。説明書はこの文安の太刀を肉置豊かで健全とし、「その技術の高さを遺憾無く示す同工の優品である」とする。その裏には万治元年、山野加右衛門尉永久の金象嵌截断銘がある。
地鉄は板目に杢を交え、時に流れ、また肌立ち、地沸つき地景よく入り、棒映りが淡く、あるいは鮮やかに立つ。帽子は乱れ込んで小丸に返り、あるいは直ぐに尖って返る。内反りの文安六年紀の短刀はその作風を小品に示し、板目に杢を交えて肌立ち、地沸厚めにつき地景入って棒映り立ち、腰の開いた互の目・互の目のたれを焼き、足よく入り、少しく湯走りを見せる。説明書は「祐光の典型作風を示しつつその美点が遍く表出した逸品であり」とする。表に「一宮大明神」の文字を陰刻する。
説明書は年紀作を、応永備前から末備前へ渡る一人の手と読む。嘉吉三年紀の脇指について、造込みと地刃にはなお応永備前風がうかがえるが、「乱れの振幅が小さく丁子が目立たないところに時代の降ることを示している」とする。康正三年紀の太刀は腰反り高い太刀姿に腰開き互の目に丁子を交え、寛正三年紀の刀は六郎左衛門尉の俗名を入れて長銘を切り、錦包半太刀拵を附して、直刃調に互の目足入り上半匂口締りごころとなる。説明書はこれを「同銘の現存するものは頗る少く、彫物も見事で、末備前として出来がよい」と評する。彫物は総じて見事で、倶利迦羅、梵字・経文、二筋樋、神号がある。
本工はまた中直刃も焼いた。宝徳三年紀の脇指は裏に「摂津国於竹原作」と切り、この期の備前鍛冶が各地へ移って作刀し、勝光などに備中草壁・備前児島・京・江州の作がある事情を伝える。説明書は「末備前鍛冶研究の好資料であるばかりではなく、中直刃の佳作である」とする。本間による御物台帳に所載の文明五年紀の脇指も同じ静かな手で、板目やや流れごころに肌立ち白けごころの棒映り立ち、中直刃に僅かに湾れごころあって小沸つき、棒樋に添樋を掻いて梵字・三鈷剣を彫り重ね、天照大神宮の神号を切る。本間は銘鑑の五代の代別を挙げつつ「この代別が果して正しいか否かについては今後に俟たねばならぬ」とし、同名数工は「直刃、乱刃ともに上手である」とし、天照大神宮の神号を「伊勢信仰とあわせて注目すべきことであろう」とする。
収集の観点では、祐光の記録は重要刀剣七口で、すべて生ぶ茎に年紀ある在銘作であり、それより上の級の作はない。来歴は記録されない。説明書は六郎左衛門尉の俗名入りの作が頗る少いことを強調し、長船を室町後期へ導いた家の祖による年紀と彫物を備えた一口が世に出るのは折にふれてのことであり、応永備前から末備前への移りを伝える資料として重んじられる。