Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 粟田口國吉は、後鳥羽院の隠岐国での御番鍛冶の一人と伝える則國の子。左兵衛尉と称し、鎌倉中期弘安頃に活躍し、名物鳴狐の平造刀を始めとする逸品を手掛けた名手。


Awataguchi (Yamashiro) · 山城 · 1275-1278頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
現在1点販売中
粟田口国吉の指定書のほぼ全てが名物「鳴狐」を引く。「左兵衛尉藤原国吉」[[c:1]]と長銘する打刀式の大平造脇指で、新たに極められる作は今なおその作風に照らして読まれる。国吉は則国の子、一説に弟子と伝え、粟田口六人兄弟の長兄国友の孫にあたり、左兵衛尉に任じ、弟に国光がいる。子とも弟子とも伝える工に藤四郎吉光がある。弘安三年紀の短刀が実存し、古伝書の刀絵図に建治四年・弘安六年・弘安十年などの紀年銘が見られ、これにより粟田口派各工の年代が所伝通りであることが知られ、その活躍期は鎌倉時代中期と明らかにしうる。
作風について指定書は定型の評を繰り返す。地は小板目がよく錬れて地沸がよくつき美麗であり、刃は直刃に小乱れ・小互の目を交えて小沸よくつき、「地刃が来物よりも一段と強い」[[c:2]]。とりわけ見どころとされるのが刃に沿って目立ってかかる二重刃で、『解紛記』は「手くせにたぶん二重刃ありて炮物のように地に銀浮くことも多し」[[c:3]]と既にこれを手くせと名指している。時に三重刃となり、しばしば刃縁に連なる湯走りがこれをなし、帽子にまでかかる例がある。足・葉が頻りに入り、金筋・細かな砂流しがかかり、匂口は明るく冴えると繰り返し記され、帽子は直ぐに品よく小丸に返る。
地鉄は一派の代名詞を担う。小杢を交えた小板目が極くつんでよく錬れ、地沸微塵に厚くつき、細かな地景が入り、所謂梨子地肌を呈して沸映りが立ち、時に地斑調の肌合を僅かに交える。『古今銘尽』は国吉の鉄味を賞して「地の色底にきらめきあり、灰かつぎの天目の銀のごとし」[[c:9]]と述べている。
確実な在銘の太刀は二口のみで、一口は夙に重要文化財、いま一口は平成九年の重要刀剣指定時に新出と記された細身で腰反り高く踏張りのつく優美な一口である。磨上げて茎下半に二字銘を有する別の一口も、特別重要指定に際し右の二口に極めて近似すると認められた。短刀は比較的多くて銘の大半を担い、剣も数口あり、大脇指は「鳴狐」唯一口である。短刀の姿は庖丁形にズングリしたもの・尋常なもの・細身で寸延びたもの・幅広で寸延びたものなど「頗る多様」で、来派の如く一律でない点が注目され、吉光同様に「区の処で焼き込んでいる」[[c:10]]ことが多く、護摩箸や梵字を彫る。無銘は大磨上の刀が多く、身幅広く輪反り風につき、中鋒は猪首風につまり、直刃は小丁子・互の目を交えて賑やかとなり、二重刃が極めの拠り所となる。菖蒲造の一口は「鳴狐を大きくしたような」[[c:6]]感を抱かせると評される。剣は先の張らない上品な姿で、「同作の剣にはしばしば沸の強いものがあり」[[c:7]]と特筆される。銘は二字が常で、鏨は細い手・尋常な手・太い手など種々あり、年代差によるものであろうと記される。
吉光との関係について指定書は紀年から推す。国吉には弘安三年紀の短刀と古伝書の紀年押形があり、吉光には実存・押形ともに紀年が皆無であるから、両者は親子と言うよりは「年齢差の比較的少ない師弟」[[c:8]]と考えるのが妥当とする。両者ともに太刀が寡作で短刀を得意とし、多様な姿態を共有する。一門の中での見どころも明らかで、二重刃は記録の半数近くに見え、吉光には稀で父則国には見えず、三重刃に至っては同門に例がなく、梨子地と名指されるのも本工の記録である。
藤代の格付けは最上作。指定を受けた作は五一口を数える。国宝はないが重要文化財が七口、戦前の重要美術品が五口あり、旧篠山藩主青山子爵家旧蔵の短刀を含む。特別重要刀剣一八口・重要刀剣二一口、両指定で三九口に上る。伝来も著しい。本阿弥光温折紙を伴う在銘短刀は伊予西条松平家に、無銘の短刀は冷泉家に伝来し、二字銘の特別重要の太刀は大久保一翁が所持して後に岩崎家に伝来、在銘の剣は尾張徳川黎明会の所蔵であり、在銘短刀の一口は鞘書に依れば徳川家千代誕生の御七夜に藤堂高睦が献上したと伝える。所在の知られるものは徳川美術館・京都国立博物館・彦根城博物館などに収まる。蒐集家にとって国吉は、粟田口の名の中では全く手の届かぬ存在ではない。重要文化財は市場の外に保存される文化財であるが、特別重要・重要の三九口こそ私蔵の一口に出会いうる層であり、その多くは二重刃を極めの拠り所とする大磨上無銘の刀である。かかる一口が市場に現れることは稀で、現れれば出色の機会となる。在銘の短刀はさらに少なく、確実な在銘太刀は二口に尽きるから、これに見える機会は一派の中でも最も稀な部類に属する。
國吉の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
山城伝 · 山城
現在6点販売中
かねに潤いがあってよく冴える、という一語が、この一門の解説に幾度も立ち返る。よく約んだ小板目を極くつめて地沸を微塵に厚く均しく敷き、細かな地景を入れて沸映りを立てる手は、古来「梨子地肌」と称され、本流派の名を負う精錬の極みである。山城国粟田口、すなわち京都から近江へ通じる街道筋に居を構えた鍛冶の集まりであり、その地に鍛冶が住したことは鎌倉初頭の説話集『宇治拾遺物語』にも見える。祖は国家といい、その子に国友・久国・国安・国清・有国・国綱の六人兄弟があって、いずれも揃って名を成した。長兄国友をはじめ、久国・国安らは後鳥羽院の番鍛冶、すなわち院に月番で仕えた工に召され、活躍期は承久(一二一九〜二二)の頃にあたる。末弟国綱は後に北条氏の招きで鎌倉へ下向し、相州鍛冶草創の一人に数えられる。長兄国友の子則国を経て、左兵衛尉国吉、その子または弟子の藤四郎吉光へと、御番鍛冶の世代から短刀の名手の世代へと一門は続き、別流の新藤五国光は相州伝の事実上の創始者として行光・正宗・則重を育てた。 作域の核は、備前の華やかな丁子の対極にある、静かで抑えた直刃にある。よく約んだ小板目に地沸を厚くつけた精美な地の上へ、小沸出来の細直刃ないし直刃調の小乱れを匂深く焼き、小互の目・小丁子・小足・葉を交え、金筋・砂流しを細かにかける。匂口は締りごころに明るく冴え、帽子は穏やかな小丸に返り、しばしば掃きかけを伴う。表裏には護摩箸・素剣・梵字を彫り、その護摩箸は間隔狭く棟に寄せて彫るのが一門共通の手癖である。同じ作風の中にも工ごとの標識が宿る。久国は兄弟の中で最も沸が強く、国友・国安は匂口がうるみ、国安は連れごころの小互の目に押し詰まった小乱れを守って一派の乱れの手を担い、則国は国吉・吉光に通じつつ比較的沸が強い。国吉・吉光に至って刃は明るい直刃へ傾き、二重刃や帽子下の沸の喰下がりがその手癖となる。来時代へ下るにつれ穏雅な細直刃の比重が増す一方、国綱のみは板目が肌立って刃沸の目立つ剛壮な異風を見せ、来たるべき相模の力強い作風へ傾く。 鑑定の拠りどころは明快である。梨子地状の精美な小板目地、潤って冴えるかね、締まって明るい直刃調の刃に細かくかかる金筋・砂流し、これらが揃えば初期粟田口と鑑せられる。各工は解説中の物差しによって分かたれる。久国は格調の高さで、国安は安の字の崩しと連れごころの小互の目で、国清は兄国安への親近で、則国は子国吉に近い国の字で読まれる。そして一門を貫く対比は来派との別である。粟田口の地刃の沸は来物より一段と厚く強く感じられ、寸法の割に身幅狭く重ね厚い造込みは来にまず見ない。位置づけの頂点には、相模国の新藤五国光と並ぶ短刀の名人吉光が立ち、江戸期には正宗・江と共に天下三作の筆頭に挙げられた。流暢な二字銘そのものが鑑識の対象である。代表作の重みは伝来に表れ、名物鬼丸国綱は天下五剣の一つとして皇室に納まり、一期一振藤四郎は太閤秀吉の蔵刀、陸奥新藤五は奥州伊達家重代として伝わる。山城の精錬な沸の直刃は来の名工が汲んだ源であり、ひいては新藤五国光から相州伝へと展開する源流でもあって、本流派は日本刀の地鉄の最高峰を示すとともに、後世の二大潮流の発端に立つ。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。
Ginza Choshuya 東京都中央区銀座3-10-4 月–土 9:30–17:30 粟田口國吉は、後鳥羽院の隠岐国での御番鍛冶の一人と伝える則國の子。左兵衛尉と称し、鎌倉中期弘安頃に活躍し、名物鳴狐の平造刀を始めとする逸品を手掛けた名手。


Awataguchi (Yamashiro) · 山城 · 1275-1278頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位2%
現在1点販売中
粟田口国吉の指定書のほぼ全てが名物「鳴狐」を引く。「左兵衛尉藤原国吉」[[c:1]]と長銘する打刀式の大平造脇指で、新たに極められる作は今なおその作風に照らして読まれる。国吉は則国の子、一説に弟子と伝え、粟田口六人兄弟の長兄国友の孫にあたり、左兵衛尉に任じ、弟に国光がいる。子とも弟子とも伝える工に藤四郎吉光がある。弘安三年紀の短刀が実存し、古伝書の刀絵図に建治四年・弘安六年・弘安十年などの紀年銘が見られ、これにより粟田口派各工の年代が所伝通りであることが知られ、その活躍期は鎌倉時代中期と明らかにしうる。
作風について指定書は定型の評を繰り返す。地は小板目がよく錬れて地沸がよくつき美麗であり、刃は直刃に小乱れ・小互の目を交えて小沸よくつき、「地刃が来物よりも一段と強い」[[c:2]]。とりわけ見どころとされるのが刃に沿って目立ってかかる二重刃で、『解紛記』は「手くせにたぶん二重刃ありて炮物のように地に銀浮くことも多し」[[c:3]]と既にこれを手くせと名指している。時に三重刃となり、しばしば刃縁に連なる湯走りがこれをなし、帽子にまでかかる例がある。足・葉が頻りに入り、金筋・細かな砂流しがかかり、匂口は明るく冴えると繰り返し記され、帽子は直ぐに品よく小丸に返る。
地鉄は一派の代名詞を担う。小杢を交えた小板目が極くつんでよく錬れ、地沸微塵に厚くつき、細かな地景が入り、所謂梨子地肌を呈して沸映りが立ち、時に地斑調の肌合を僅かに交える。『古今銘尽』は国吉の鉄味を賞して「地の色底にきらめきあり、灰かつぎの天目の銀のごとし」[[c:9]]と述べている。
確実な在銘の太刀は二口のみで、一口は夙に重要文化財、いま一口は平成九年の重要刀剣指定時に新出と記された細身で腰反り高く踏張りのつく優美な一口である。磨上げて茎下半に二字銘を有する別の一口も、特別重要指定に際し右の二口に極めて近似すると認められた。短刀は比較的多くて銘の大半を担い、剣も数口あり、大脇指は「鳴狐」唯一口である。短刀の姿は庖丁形にズングリしたもの・尋常なもの・細身で寸延びたもの・幅広で寸延びたものなど「頗る多様」で、来派の如く一律でない点が注目され、吉光同様に「区の処で焼き込んでいる」[[c:10]]ことが多く、護摩箸や梵字を彫る。無銘は大磨上の刀が多く、身幅広く輪反り風につき、中鋒は猪首風につまり、直刃は小丁子・互の目を交えて賑やかとなり、二重刃が極めの拠り所となる。菖蒲造の一口は「鳴狐を大きくしたような」[[c:6]]感を抱かせると評される。剣は先の張らない上品な姿で、「同作の剣にはしばしば沸の強いものがあり」[[c:7]]と特筆される。銘は二字が常で、鏨は細い手・尋常な手・太い手など種々あり、年代差によるものであろうと記される。
吉光との関係について指定書は紀年から推す。国吉には弘安三年紀の短刀と古伝書の紀年押形があり、吉光には実存・押形ともに紀年が皆無であるから、両者は親子と言うよりは「年齢差の比較的少ない師弟」[[c:8]]と考えるのが妥当とする。両者ともに太刀が寡作で短刀を得意とし、多様な姿態を共有する。一門の中での見どころも明らかで、二重刃は記録の半数近くに見え、吉光には稀で父則国には見えず、三重刃に至っては同門に例がなく、梨子地と名指されるのも本工の記録である。
藤代の格付けは最上作。指定を受けた作は五一口を数える。国宝はないが重要文化財が七口、戦前の重要美術品が五口あり、旧篠山藩主青山子爵家旧蔵の短刀を含む。特別重要刀剣一八口・重要刀剣二一口、両指定で三九口に上る。伝来も著しい。本阿弥光温折紙を伴う在銘短刀は伊予西条松平家に、無銘の短刀は冷泉家に伝来し、二字銘の特別重要の太刀は大久保一翁が所持して後に岩崎家に伝来、在銘の剣は尾張徳川黎明会の所蔵であり、在銘短刀の一口は鞘書に依れば徳川家千代誕生の御七夜に藤堂高睦が献上したと伝える。所在の知られるものは徳川美術館・京都国立博物館・彦根城博物館などに収まる。蒐集家にとって国吉は、粟田口の名の中では全く手の届かぬ存在ではない。重要文化財は市場の外に保存される文化財であるが、特別重要・重要の三九口こそ私蔵の一口に出会いうる層であり、その多くは二重刃を極めの拠り所とする大磨上無銘の刀である。かかる一口が市場に現れることは稀で、現れれば出色の機会となる。在銘の短刀はさらに少なく、確実な在銘太刀は二口に尽きるから、これに見える機会は一派の中でも最も稀な部類に属する。
國吉の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
山城伝 · 山城
現在6点販売中
かねに潤いがあってよく冴える、という一語が、この一門の解説に幾度も立ち返る。よく約んだ小板目を極くつめて地沸を微塵に厚く均しく敷き、細かな地景を入れて沸映りを立てる手は、古来「梨子地肌」と称され、本流派の名を負う精錬の極みである。山城国粟田口、すなわち京都から近江へ通じる街道筋に居を構えた鍛冶の集まりであり、その地に鍛冶が住したことは鎌倉初頭の説話集『宇治拾遺物語』にも見える。祖は国家といい、その子に国友・久国・国安・国清・有国・国綱の六人兄弟があって、いずれも揃って名を成した。長兄国友をはじめ、久国・国安らは後鳥羽院の番鍛冶、すなわち院に月番で仕えた工に召され、活躍期は承久(一二一九〜二二)の頃にあたる。末弟国綱は後に北条氏の招きで鎌倉へ下向し、相州鍛冶草創の一人に数えられる。長兄国友の子則国を経て、左兵衛尉国吉、その子または弟子の藤四郎吉光へと、御番鍛冶の世代から短刀の名手の世代へと一門は続き、別流の新藤五国光は相州伝の事実上の創始者として行光・正宗・則重を育てた。 作域の核は、備前の華やかな丁子の対極にある、静かで抑えた直刃にある。よく約んだ小板目に地沸を厚くつけた精美な地の上へ、小沸出来の細直刃ないし直刃調の小乱れを匂深く焼き、小互の目・小丁子・小足・葉を交え、金筋・砂流しを細かにかける。匂口は締りごころに明るく冴え、帽子は穏やかな小丸に返り、しばしば掃きかけを伴う。表裏には護摩箸・素剣・梵字を彫り、その護摩箸は間隔狭く棟に寄せて彫るのが一門共通の手癖である。同じ作風の中にも工ごとの標識が宿る。久国は兄弟の中で最も沸が強く、国友・国安は匂口がうるみ、国安は連れごころの小互の目に押し詰まった小乱れを守って一派の乱れの手を担い、則国は国吉・吉光に通じつつ比較的沸が強い。国吉・吉光に至って刃は明るい直刃へ傾き、二重刃や帽子下の沸の喰下がりがその手癖となる。来時代へ下るにつれ穏雅な細直刃の比重が増す一方、国綱のみは板目が肌立って刃沸の目立つ剛壮な異風を見せ、来たるべき相模の力強い作風へ傾く。 鑑定の拠りどころは明快である。梨子地状の精美な小板目地、潤って冴えるかね、締まって明るい直刃調の刃に細かくかかる金筋・砂流し、これらが揃えば初期粟田口と鑑せられる。各工は解説中の物差しによって分かたれる。久国は格調の高さで、国安は安の字の崩しと連れごころの小互の目で、国清は兄国安への親近で、則国は子国吉に近い国の字で読まれる。そして一門を貫く対比は来派との別である。粟田口の地刃の沸は来物より一段と厚く強く感じられ、寸法の割に身幅狭く重ね厚い造込みは来にまず見ない。位置づけの頂点には、相模国の新藤五国光と並ぶ短刀の名人吉光が立ち、江戸期には正宗・江と共に天下三作の筆頭に挙げられた。流暢な二字銘そのものが鑑識の対象である。代表作の重みは伝来に表れ、名物鬼丸国綱は天下五剣の一つとして皇室に納まり、一期一振藤四郎は太閤秀吉の蔵刀、陸奥新藤五は奥州伊達家重代として伝わる。山城の精錬な沸の直刃は来の名工が汲んだ源であり、ひいては新藤五国光から相州伝へと展開する源流でもあって、本流派は日本刀の地鉄の最高峰を示すとともに、後世の二大潮流の発端に立つ。
販売店の出品ページで鑑定書を確認できませんでした。日本刀および刀装具は通常、NBTHK(または NTHK)の鑑定を受けます。鑑定書がない場合、極めは販売店の見解にとどまり、第三者による確認は行われていません。ご購入前に販売店へ鑑定書の有無をお問い合わせのうえ、慎重にご判断ください。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。