Stock number:WA-100425Paper(Certificate):[N.B.T.H.K] Hozon TokenCountry・Era:Musashi(Tokyo)・Middle Edo period about 1681~Blade length(Cutting edge): 55.0cmCurve(SORI): 0.4cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 3.16cmThickness at the Moto-Kasane: 0.72cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 2.50cmThickness at the Saki-Kasane: 0.60cmSword tang(Nakago):Unaltered,Kiri file patternRivet Holes(Mekugiana):2Length of Koshirae : about 93cmShape(Taihai):Shinogizukuri,Iorimune,Chu-kissakiJigane(Hada):Temper patterns(Hamon):Temper patterns in the point(Bohshi):Registration Card: Nagano【Additional Information】筑前国(福岡県)は、古来、左一門や金剛兵衛一門、信国一門が活躍した鍛冶伝統の深い地であります。慶長六年(1601)、黒田氏が入封して以後、黒田家が刀工を広く保護したことで、筑前信国一派や福岡石堂一派を二大流派として、大いに繁栄をみました。筑前信国派は、慶長七年(1602)に同国福岡藩初代藩主 黒田長政が豊前国より、信国吉貞を招いて抱工とした事で興ります。同派の作柄は、大湾れや大乱れ、互の目乱れ、丁子乱れのほか、山城伝の中直刃なども認められ、作域広くあります。信国吉包は、信国吉次の子とされ、信国重次の父であります。江戸中期 天和頃(1681~)を活動期として、小湾れ交じりの互の目乱れや丁子乱れ、直刃などを焼きます。同工のほか、同派の刀工としては、吉政、吉次、吉助、重包、重宗、吉勝、吉重などの名が聞こえます。
在銘 · Nobukuni · 寛文 · 長さ 55cm · 反り 0.4cm







Chikuzen Nobukuni (Shinto) · 筑前 · 1661-1686頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位39%
現在2点販売中
吉包は筑州住源信国吉包と銘し、助左衛門と称し、元禄六年(一六九三)、子の重包が二十一歳の年に歿した。彼は博多にあって筑前信国派の代表鍛冶の一人として鍛刀した。同派は説明書が京信国派にさかのぼる新刀期の一門で、慶長から明治初年まで福岡藩黒田家の抱え鍛冶として活躍した。その系譜は明確な形で記される。始祖ともいうべき吉貞が黒田長政の招きに応じて豊前から博多に移住し、以後一門は代々家督を継承し、代表鍛冶として吉貞・吉政・吉次・吉包・重包が挙げられる。吉包は吉次の子であり、新刀期からは信国を姓として「信国何某」と名乗るのが通例であったため、その指定五口の刀はいずれも太鏨の大振りな長銘の中に個銘を刻む。
この小ぶりな作中には二つの意図的な手が通い、その際立つ一つが相州伝への志向である。流れて強く柾がかった板目の地に地沸つき細かに地景入り、小のたれに互の目を交え角ばる刃をまじえ、匂深く沸厚くよくつき、細かな砂流しさかんにかかり金筋入り、僅かに湯走り風の飛焼を交える。帽子は乱れに従い乱れ込み、突き上げて先尖り深く返り、頻りに掃きかける。この手を最もよく示す刀につき、説明書は「彼の狙いが明らかに相州伝にあった」[[c:1]]と記し、技量の高さが理解される意欲的な作とする。これは一派の常の作域とされる互の目主調の乱れではなく、別個の意図された風であり、二つの手を結ぶのは、指定五口すべてに見られる、湾れの下の互の目である。
地鉄は両様の手を支える確かな地である。鍛えは板目、よくつみ、ときに詰んだ小板目となって、総体に流れ肌を交え、裏に強く流れて柾状を呈し、地沸微塵につき細かに地景入る。一派の丁子を焼く作では、明るい地鉄に鮮明な乱れ映りが立ち、説明書はこれをその丁子の手の通例とし、流れ肌と立つ映りがともに現われると記す。締まった備前地ではなく、この流れて柾に寄る板目こそが、筑前の地を京信国の源に結ぶ山城系の地鉄であり、刃の変化を読む際の不変の地となる。
今一つの確かな手は、説明書が筑前信国派の見どころと呼ぶ丁子乱れである。詰んだ小板目の地に、丁子を主に尖り刃・互の目・小丁子・小互の目を交え、焼頭をほぼ揃えて小模様に乱れ、処々逆ごころを見せ、足・葉よく入り、小沸つき、細かに砂流しかかり、匂口明るい。一口の刀はこれをさらに推し進める。表裏で刃文の調子を異にし、表は焼きに高低のある華やかな丁子乱れ、裏は小模様で焼頭の揃った丁子となる、いわゆる「児手柏の作柄」である。説明書はこれを同工中ただ一口の作とし、華やかな表に同国福岡石堂と相通じる風味を読み、その縁を、二代吉政の刀に福岡石堂守次が彫を施した遺例によって裏づける。この作につき説明書は、一派の見どころを顕現するものと結ぶ。
吉包を分かつものは、近隣との対比によるよりその自らの確かな見どころから引くのがよい。すなわち二つの意図を高い出来で並べ持つ工であり、流れる板目に匂深く沸厚く砂流し・金筋をかけた相州伝の手と、焼頭の揃った、流れ肌が立てる乱れ映りを伴う一派の丁子とである。児手柏の刀の裏、すなわち高低なく焼頭の揃った小模様の丁子を、説明書は筑前信国一派の特色ある丁子乱れの典型と呼び、かくて一口が一派の典型の手とその最も稀な変化とを併せ持つ。茎は指定作いずれも生ぶに切り、目釘孔の下棟寄りに太鏨大振りの長銘を据え、一口には以南蛮鉄作之の添銘があって、舶来の鉄をもって鍛えたことを記す。
吉包は藤代の極めで上作、第一級というより地方新刀工としての堅実な格であり、指定の記録は小ぶりにして悉く在銘である。指定は重要刀剣五口、重要文化財・国宝の格には及ばず、その作は文化財として永く市を離れるものではなく、重要刀剣以下の作として世に見える。一口は皇室の所持にかかる伝来をもち、これがこの工に付された唯一の名だたる伝来であって、他は私蔵の手を経る。指定を受けた作は実に数少なく、待つに値するのはその二つの意図がともに実を結んだ一口であり、説明書が彼への最上の評にいう、「地刃共に冴え冴えとする」[[c:4]]、新刀信国派においても高い技術を示した傑出した出来映えをそなえた作である。さような作が市にかかるのは折に触れてのことであり、現われればそれは、その屈指の手が相州と古き山城の双方を顧みる、堅実な一地方の名門の佳き代表となる。
吉包の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
山城伝 · 山城
現在28点販売中
信国派は山城国京都に興った名門で、その流れは南北朝時代に遡る。一派の祖と仰がれる信国は了戒系の京鍛冶で、血脈の上では来の伝統を承けながら、修業の上では相州貞宗の門に入って貞宗三哲の一人に数えられた。来の系譜と相州伝という二つの根がこの一門の作のすべてを導く。銘鑑は祖を建武に置くが、説明書はこれを繰り返し退ける。建武年間の作は残らず、現存最古の延文・貞治の年紀作が貞宗に直結することから、本会は延文・貞治の工をもって初代と見做す。南北朝の末期には永徳・至徳・明徳の代替りの信国が続き、同銘数工があったと見られる。室町初期には左衛門尉・式部丞を冠する応永信国が栄え、これを通常三代と数える。一派は後に豊前へ、さらに筑前へ移り、慶長の頃より明治初年まで福岡藩黒田家の抱え鍛冶として吉貞・吉政・吉次・吉包・重包の代々を出し、新々刀期まで栄えた。 一派に通う語法は、まず地鉄に現れる。鍛えは杢を交えた板目で、刃寄りに流れて柾となりやや肌立ち、地沸を厚くとり地景が頻りに入り、よくつんだ作には淡い沸映りが立つ。刃寄りに流れる鍛えは了戒系の所伝を首肯せしめる証とされ、厚い地沸と頻りの地景は貞宗に学んだ相州伝の痕跡として読まれる。刃文は文様の如何を問わず沸で焼かれ、砂流し・金筋が絶えず働き、匂口は明るい。その作域は二様を基とする。一つは来派の伝統を示した直刃で、中直刃・細直刃に小沸つき、細かにほつれ喰違刃・二重刃ごころを交えて京物の格調を伝える。いま一つは貞宗風ののたれ乱れで、小のたれに互の目・小互の目を交え、足・葉入り、沸厚く明るく、刃縁にほつれ湯走りがかかり、最も多く出会う作域をなす。帽子はのたれ込みまたは乱れ込んで小丸となり掃きかける。御家芸とも言うべき濃密な彫物も貞宗譲りで、梵字・素剣・護摩箸・三鈷剣・倶利迦羅を重ね彫りにし、刀身に八幡大菩薩の神号を切る作もあって、彫物によって一門を見分けうる。代を下ると差異が明瞭となる。南北朝末期の後代は一派に初めて太刀を生み、二様に加えて互の目主調の乱れ刃を新たに見せ、互の目が二つ宛連れたものを腰の低い小のたれで繋ぐ矢筈状の刃を見どころとする。応永信国は左衛門尉が「国」の字のクニ構えの中を左字に作る点を大きな鑑別点とし、直刃と互の目乱れの双方に冴えた沸を宿す。筑前に移った吉包・重包は相州伝の志向と、流れ肌の乱れ映りを伴う一派の丁子乱れとを高い技倆で並べ持ち、重包は名物写しの名手として石堂風に紛う華やかな丁子を、地沸・地景・刃中の沸の顕著さによって石堂と分かった。 鑑定の勘所は明快である。刃寄りに流れる柾がかった肌、厚い地沸と頻りの地景、沸で焼いた直刃と貞宗風ののたれ乱れ、重ね彫りの宗教彫物が一門を束ね、相州の同門とも後世の備前丁子とも分かつ拠りどころとなる。無銘極めも代の弁別も延文三年紀の作との照合によって決せられ、後代は連れ互の目と矢筈刃で、応永信国は逆字の銘で、筑前の工は流れ肌の乱れ映りで読み分けられる。藤代の極めは初代信国を上々作とし、後代から応永信国まで京古刀の上位に列し、筑前の吉包・重包は地方新刀の堅実な工として上作の評を得る。在銘作は祖において短刀・小脇指に限られて稀であり、それゆえ年紀のある後代の太刀・薙刀は何よりの好資料として貴ばれる。伝来は大名家と社寺に厚く、黒田家・浅野家・山内家・佐竹家らの蔵刀に加え、本願寺名物や富士山本宮浅間大社に奉納された式部丞の脇指がある。上位指定の多くは公私の蔵に秘められて市に現れず、在銘の信国が世に出ること自体が稀であって、現れた時は南北朝以来の山城物の蒐集で特筆すべき機会となる。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトNo cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).
Stock number:WA-100425Paper(Certificate):[N.B.T.H.K] Hozon TokenCountry・Era:Musashi(Tokyo)・Middle Edo period about 1681~Blade length(Cutting edge): 55.0cmCurve(SORI): 0.4cmWidth at the hamachi(Moto-Haba): 3.16cmThickness at the Moto-Kasane: 0.72cmWide at the Kissaki(Saki-Haba): 2.50cmThickness at the Saki-Kasane: 0.60cmSword tang(Nakago):Unaltered,Kiri file patternRivet Holes(Mekugiana):2Length of Koshirae : about 93cmShape(Taihai):Shinogizukuri,Iorimune,Chu-kissakiJigane(Hada):Temper patterns(Hamon):Temper patterns in the point(Bohshi):Registration Card: Nagano【Additional Information】筑前国(福岡県)は、古来、左一門や金剛兵衛一門、信国一門が活躍した鍛冶伝統の深い地であります。慶長六年(1601)、黒田氏が入封して以後、黒田家が刀工を広く保護したことで、筑前信国一派や福岡石堂一派を二大流派として、大いに繁栄をみました。筑前信国派は、慶長七年(1602)に同国福岡藩初代藩主 黒田長政が豊前国より、信国吉貞を招いて抱工とした事で興ります。同派の作柄は、大湾れや大乱れ、互の目乱れ、丁子乱れのほか、山城伝の中直刃なども認められ、作域広くあります。信国吉包は、信国吉次の子とされ、信国重次の父であります。江戸中期 天和頃(1681~)を活動期として、小湾れ交じりの互の目乱れや丁子乱れ、直刃などを焼きます。同工のほか、同派の刀工としては、吉政、吉次、吉助、重包、重宗、吉勝、吉重などの名が聞こえます。
在銘 · Nobukuni · 寛文 · 長さ 55cm · 反り 0.4cm







Chikuzen Nobukuni (Shinto) · 筑前 · 1661-1686頃
藤代 Jo saku · 刀剣大鑑 上位39%
現在2点販売中
吉包は筑州住源信国吉包と銘し、助左衛門と称し、元禄六年(一六九三)、子の重包が二十一歳の年に歿した。彼は博多にあって筑前信国派の代表鍛冶の一人として鍛刀した。同派は説明書が京信国派にさかのぼる新刀期の一門で、慶長から明治初年まで福岡藩黒田家の抱え鍛冶として活躍した。その系譜は明確な形で記される。始祖ともいうべき吉貞が黒田長政の招きに応じて豊前から博多に移住し、以後一門は代々家督を継承し、代表鍛冶として吉貞・吉政・吉次・吉包・重包が挙げられる。吉包は吉次の子であり、新刀期からは信国を姓として「信国何某」と名乗るのが通例であったため、その指定五口の刀はいずれも太鏨の大振りな長銘の中に個銘を刻む。
この小ぶりな作中には二つの意図的な手が通い、その際立つ一つが相州伝への志向である。流れて強く柾がかった板目の地に地沸つき細かに地景入り、小のたれに互の目を交え角ばる刃をまじえ、匂深く沸厚くよくつき、細かな砂流しさかんにかかり金筋入り、僅かに湯走り風の飛焼を交える。帽子は乱れに従い乱れ込み、突き上げて先尖り深く返り、頻りに掃きかける。この手を最もよく示す刀につき、説明書は「彼の狙いが明らかに相州伝にあった」[[c:1]]と記し、技量の高さが理解される意欲的な作とする。これは一派の常の作域とされる互の目主調の乱れではなく、別個の意図された風であり、二つの手を結ぶのは、指定五口すべてに見られる、湾れの下の互の目である。
地鉄は両様の手を支える確かな地である。鍛えは板目、よくつみ、ときに詰んだ小板目となって、総体に流れ肌を交え、裏に強く流れて柾状を呈し、地沸微塵につき細かに地景入る。一派の丁子を焼く作では、明るい地鉄に鮮明な乱れ映りが立ち、説明書はこれをその丁子の手の通例とし、流れ肌と立つ映りがともに現われると記す。締まった備前地ではなく、この流れて柾に寄る板目こそが、筑前の地を京信国の源に結ぶ山城系の地鉄であり、刃の変化を読む際の不変の地となる。
今一つの確かな手は、説明書が筑前信国派の見どころと呼ぶ丁子乱れである。詰んだ小板目の地に、丁子を主に尖り刃・互の目・小丁子・小互の目を交え、焼頭をほぼ揃えて小模様に乱れ、処々逆ごころを見せ、足・葉よく入り、小沸つき、細かに砂流しかかり、匂口明るい。一口の刀はこれをさらに推し進める。表裏で刃文の調子を異にし、表は焼きに高低のある華やかな丁子乱れ、裏は小模様で焼頭の揃った丁子となる、いわゆる「児手柏の作柄」である。説明書はこれを同工中ただ一口の作とし、華やかな表に同国福岡石堂と相通じる風味を読み、その縁を、二代吉政の刀に福岡石堂守次が彫を施した遺例によって裏づける。この作につき説明書は、一派の見どころを顕現するものと結ぶ。
吉包を分かつものは、近隣との対比によるよりその自らの確かな見どころから引くのがよい。すなわち二つの意図を高い出来で並べ持つ工であり、流れる板目に匂深く沸厚く砂流し・金筋をかけた相州伝の手と、焼頭の揃った、流れ肌が立てる乱れ映りを伴う一派の丁子とである。児手柏の刀の裏、すなわち高低なく焼頭の揃った小模様の丁子を、説明書は筑前信国一派の特色ある丁子乱れの典型と呼び、かくて一口が一派の典型の手とその最も稀な変化とを併せ持つ。茎は指定作いずれも生ぶに切り、目釘孔の下棟寄りに太鏨大振りの長銘を据え、一口には以南蛮鉄作之の添銘があって、舶来の鉄をもって鍛えたことを記す。
吉包は藤代の極めで上作、第一級というより地方新刀工としての堅実な格であり、指定の記録は小ぶりにして悉く在銘である。指定は重要刀剣五口、重要文化財・国宝の格には及ばず、その作は文化財として永く市を離れるものではなく、重要刀剣以下の作として世に見える。一口は皇室の所持にかかる伝来をもち、これがこの工に付された唯一の名だたる伝来であって、他は私蔵の手を経る。指定を受けた作は実に数少なく、待つに値するのはその二つの意図がともに実を結んだ一口であり、説明書が彼への最上の評にいう、「地刃共に冴え冴えとする」[[c:4]]、新刀信国派においても高い技術を示した傑出した出来映えをそなえた作である。さような作が市にかかるのは折に触れてのことであり、現われればそれは、その屈指の手が相州と古き山城の双方を顧みる、堅実な一地方の名門の佳き代表となる。
吉包の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
山城伝 · 山城
現在28点販売中
信国派は山城国京都に興った名門で、その流れは南北朝時代に遡る。一派の祖と仰がれる信国は了戒系の京鍛冶で、血脈の上では来の伝統を承けながら、修業の上では相州貞宗の門に入って貞宗三哲の一人に数えられた。来の系譜と相州伝という二つの根がこの一門の作のすべてを導く。銘鑑は祖を建武に置くが、説明書はこれを繰り返し退ける。建武年間の作は残らず、現存最古の延文・貞治の年紀作が貞宗に直結することから、本会は延文・貞治の工をもって初代と見做す。南北朝の末期には永徳・至徳・明徳の代替りの信国が続き、同銘数工があったと見られる。室町初期には左衛門尉・式部丞を冠する応永信国が栄え、これを通常三代と数える。一派は後に豊前へ、さらに筑前へ移り、慶長の頃より明治初年まで福岡藩黒田家の抱え鍛冶として吉貞・吉政・吉次・吉包・重包の代々を出し、新々刀期まで栄えた。 一派に通う語法は、まず地鉄に現れる。鍛えは杢を交えた板目で、刃寄りに流れて柾となりやや肌立ち、地沸を厚くとり地景が頻りに入り、よくつんだ作には淡い沸映りが立つ。刃寄りに流れる鍛えは了戒系の所伝を首肯せしめる証とされ、厚い地沸と頻りの地景は貞宗に学んだ相州伝の痕跡として読まれる。刃文は文様の如何を問わず沸で焼かれ、砂流し・金筋が絶えず働き、匂口は明るい。その作域は二様を基とする。一つは来派の伝統を示した直刃で、中直刃・細直刃に小沸つき、細かにほつれ喰違刃・二重刃ごころを交えて京物の格調を伝える。いま一つは貞宗風ののたれ乱れで、小のたれに互の目・小互の目を交え、足・葉入り、沸厚く明るく、刃縁にほつれ湯走りがかかり、最も多く出会う作域をなす。帽子はのたれ込みまたは乱れ込んで小丸となり掃きかける。御家芸とも言うべき濃密な彫物も貞宗譲りで、梵字・素剣・護摩箸・三鈷剣・倶利迦羅を重ね彫りにし、刀身に八幡大菩薩の神号を切る作もあって、彫物によって一門を見分けうる。代を下ると差異が明瞭となる。南北朝末期の後代は一派に初めて太刀を生み、二様に加えて互の目主調の乱れ刃を新たに見せ、互の目が二つ宛連れたものを腰の低い小のたれで繋ぐ矢筈状の刃を見どころとする。応永信国は左衛門尉が「国」の字のクニ構えの中を左字に作る点を大きな鑑別点とし、直刃と互の目乱れの双方に冴えた沸を宿す。筑前に移った吉包・重包は相州伝の志向と、流れ肌の乱れ映りを伴う一派の丁子乱れとを高い技倆で並べ持ち、重包は名物写しの名手として石堂風に紛う華やかな丁子を、地沸・地景・刃中の沸の顕著さによって石堂と分かった。 鑑定の勘所は明快である。刃寄りに流れる柾がかった肌、厚い地沸と頻りの地景、沸で焼いた直刃と貞宗風ののたれ乱れ、重ね彫りの宗教彫物が一門を束ね、相州の同門とも後世の備前丁子とも分かつ拠りどころとなる。無銘極めも代の弁別も延文三年紀の作との照合によって決せられ、後代は連れ互の目と矢筈刃で、応永信国は逆字の銘で、筑前の工は流れ肌の乱れ映りで読み分けられる。藤代の極めは初代信国を上々作とし、後代から応永信国まで京古刀の上位に列し、筑前の吉包・重包は地方新刀の堅実な工として上作の評を得る。在銘作は祖において短刀・小脇指に限られて稀であり、それゆえ年紀のある後代の太刀・薙刀は何よりの好資料として貴ばれる。伝来は大名家と社寺に厚く、黒田家・浅野家・山内家・佐竹家らの蔵刀に加え、本願寺名物や富士山本宮浅間大社に奉納された式部丞の脇指がある。上位指定の多くは公私の蔵に秘められて市に現れず、在銘の信国が世に出ること自体が稀であって、現れた時は南北朝以来の山城物の蒐集で特筆すべき機会となる。
銘が正しい、または無銘でも年代・国・系統を確実に指摘できる、保存に値する真正の作と鑑定されたものです。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイトNo cooling-off period or returns; refund only if the purchased sword is proven fake, capped at purchase price (excludes commission sales, accessories, auction items).