吉包は筑州住源信国吉包と銘し、助左衛門と称し、元禄六年(一六九三)、子の重包が二十一歳の年に歿した。彼は博多にあって筑前信国派の代表鍛冶の一人として鍛刀した。同派は説明書が京信国派にさかのぼる新刀期の一門で、慶長から明治初年まで福岡藩黒田家の抱え鍛冶として活躍した。その系譜は明確な形で記される。始祖ともいうべき吉貞が黒田長政の招きに応じて豊前から博多に移住し、以後一門は代々家督を継承し、代表鍛冶として吉貞・吉政・吉次・吉包・重包が挙げられる。吉包は吉次の子であり、新刀期からは信国を姓として「信国何某」と名乗るのが通例であったため、その指定五口の刀はいずれも太鏨の大振りな長銘の中に個銘を刻む。
この小ぶりな作中には二つの意図的な手が通い、その際立つ一つが相州伝への志向である。流れて強く柾がかった板目の地に地沸つき細かに地景入り、小のたれに互の目を交え角ばる刃をまじえ、匂深く沸厚くよくつき、細かな砂流しさかんにかかり金筋入り、僅かに湯走り風の飛焼を交える。帽子は乱れに従い乱れ込み、突き上げて先尖り深く返り、頻りに掃きかける。この手を最もよく示す刀につき、説明書は「彼の狙いが明らかに相州伝にあった」と記し、技量の高さが理解される意欲的な作とする。これは一派の常の作域とされる互の目主調の乱れではなく、別個の意図された風であり、二つの手を結ぶのは、指定五口すべてに見られる、湾れの下の互の目である。
地鉄は両様の手を支える確かな地である。鍛えは板目、よくつみ、ときに詰んだ小板目となって、総体に流れ肌を交え、裏に強く流れて柾状を呈し、地沸微塵につき細かに地景入る。一派の丁子を焼く作では、明るい地鉄に鮮明な乱れ映りが立ち、説明書はこれをその丁子の手の通例とし、流れ肌と立つ映りがともに現われると記す。締まった備前地ではなく、この流れて柾に寄る板目こそが、筑前の地を京信国の源に結ぶ山城系の地鉄であり、刃の変化を読む際の不変の地となる。
今一つの確かな手は、説明書が筑前信国派の見どころと呼ぶ丁子乱れである。詰んだ小板目の地に、丁子を主に尖り刃・互の目・小丁子・小互の目を交え、焼頭をほぼ揃えて小模様に乱れ、処々逆ごころを見せ、足・葉よく入り、小沸つき、細かに砂流しかかり、匂口明るい。一口の刀はこれをさらに推し進める。表裏で刃文の調子を異にし、表は焼きに高低のある華やかな丁子乱れ、裏は小模様で焼頭の揃った丁子となる、いわゆる「児手柏の作柄」である。説明書はこれを同工中ただ一口の作とし、華やかな表に同国福岡石堂と相通じる風味を読み、その縁を、二代吉政の刀に福岡石堂守次が彫を施した遺例によって裏づける。この作につき説明書は、一派の見どころを顕現するものと結ぶ。
吉包を分かつものは、近隣との対比によるよりその自らの確かな見どころから引くのがよい。すなわち二つの意図を高い出来で並べ持つ工であり、流れる板目に匂深く沸厚く砂流し・金筋をかけた相州伝の手と、焼頭の揃った、流れ肌が立てる乱れ映りを伴う一派の丁子とである。児手柏の刀の裏、すなわち高低なく焼頭の揃った小模様の丁子を、説明書は筑前信国一派の特色ある丁子乱れの典型と呼び、かくて一口が一派の典型の手とその最も稀な変化とを併せ持つ。茎は指定作いずれも生ぶに切り、目釘孔の下棟寄りに太鏨大振りの長銘を据え、一口には以南蛮鉄作之の添銘があって、舶来の鉄をもって鍛えたことを記す。
吉包は藤代の極めで上作、第一級というより地方新刀工としての堅実な格であり、指定の記録は小ぶりにして悉く在銘である。指定は重要刀剣五口、重要文化財・国宝の格には及ばず、その作は文化財として永く市を離れるものではなく、重要刀剣以下の作として世に見える。一口は皇室の所持にかかる伝来をもち、これがこの工に付された唯一の名だたる伝来であって、他は私蔵の手を経る。指定を受けた作は実に数少なく、待つに値するのはその二つの意図がともに実を結んだ一口であり、説明書が彼への最上の評にいう、「地刃共に冴え冴えとする」、新刀信国派においても高い技術を示した傑出した出来映えをそなえた作である。さような作が市にかかるのは折に触れてのことであり、現われればそれは、その屈指の手が相州と古き山城の双方を顧みる、堅実な一地方の名門の佳き代表となる。