1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。






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水心子正秀 · 武蔵 · 1777-1817頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位11%
現在8点販売中
水心子正秀の最古の年紀作は安永六年(一七七七)で、五郎正宗に私淑して「五郎正秀」と称した銘を切り、説明書はこれを「安永六年紀は、経眼中、最も古い年紀である」[[c:1]]とする。正秀は寛延三年(一七五〇)羽州赤湯に生まれ、川部儀八郎と称した。初め鈴木宅英、次いで英国と銘し、武州下原の吉英に学び、後に相州綱広の門にも入ったという。安永三年に正秀と改めて水心子と号し、山形秋元家に仕え、後に江戸浜町に移った。多くの門弟を育て、著書も多く残している。作刀歴は安永から文政までほぼ五十年に及び、文政元年あるいは二年頃(説明書により異なる)天秀と号し、同八年に七十六歳で歿した。
正秀は復古刀の論者として知られ、「刀はすべて鎌倉の昔に復すべきである」[[c:2]]と説いた。しかし説明書は、彼自身の佳作がその論以前にあることを率直に記す。天明・寛政・享和の頃は大坂新刀に私淑し、津田助広の濤瀾乱れや井上真改の直刃を焼き、「この時代のものに寧ろ傑作がある」[[c:3]]。よくつんで無地風に近づく小板目に地沸が厚くつく。濤瀾は元に長い直ぐの焼出しを置き、大互の目が大波のごとく打ち寄せ、足太く入り、匂深く匂口明るい。真改風は沸匂深い広直刃で、稀に一竿子忠綱風のものもある。最上のものは「殆んど本科に迫るものがある」[[c:4]]とされ、若打ちの一口は「いわゆる大坂写しの傑出の一口である」[[c:5]]と評される。
本科との相違も説明書は同じく的確に記す。平肉は「平肉が乏しくペシャンとした感じがあり」[[c:6]]、鋒は必ず延びごころとなる。地がねは綺麗であるが「黒ずんだ荒沸がつき」[[c:7]]、「めくらがねに近く」[[c:8]]地肌があらわれない。刃中にも処々荒沸が叢につく。一竿子写しの一口について説明書は「無地風の鍛えに、黒味がちの数の子沸がこぼれて、彼の手癖が見られる」[[c:9]]とし、助広写しでは「多く刃中より地へこぼれる荒目の沸が見られ」[[c:10]]るとする。帽子は概ね直ぐに小丸となる。
晩年には論を実践に移し、説明書はその作を終始焼刃の浅い備前伝とし、相州・美濃伝も試みたとする。晩期の備前伝の刀は匂出来の丁子乱れに足さかんに入り、匂口締まりごころに明るく、「丁子を破綻無く焼き」[[c:11]]ながら、腰元のうるみに正秀の特徴を見せ、茎には子の貞秀が鍛錬した旨を切る。本間による御物台帳は三口の年紀作によってこの変遷を追う。四十八歳の寛政十年の刀は「この頃はなお大阪新刀風の作である」[[c:12]]とされ、大湾れに匂口冴え小沸厚い。文政元年の脇指はゆったりとして地がねがことに宜しく、台帳は「貞宗などを写したものであろうか」[[c:13]]と記す。七十歳の文政二年には小丁子に互の目を交え匂口の締った小沸出来のものが多く、地がねも無地鉄風となる。この頃の彫物は「恐らくその殆どすべてが弟子本庄義胤の手になる」[[c:14]]という。
二つの時期について判者の序列は明らかである。重要美術品の享和三年紀の刀について説明書は、後者は当時の世相を示して刀剣史上意義があるが、「出来はむしろ前者に佳作を見る」[[c:15]]とする。復古の作については「その技は弟子の大慶直胤に及ばない」[[c:16]]と明言する。銘振りも変化に富み、享和の正秀銘は楷書・草書の両様に切り、洒落銘も用いた。寛政十年からは「日天」の文字を剣形に図案化した刻印を茎に打ち、その破損・修理の状態によって製作年代と真偽が明らかとなり、文政二年のものは「正秀一代五種の刻印中の最後のもの」[[c:17]]である。門人として説明書は大慶直胤と、後の二代正義細川守秀の名を挙げる。
正秀の記録はことごとく在銘である。重要刀剣二十四口、戦前の重要美術品一口、本間による御物台帳所載の三口で、指定を受けた作は二十八口である。国宝・重要文化財はない。享和三年(一八〇三)紀の重要美術品の刀は、昭和十六年の認定時に滋賀の下郷共済会の所蔵であった。説明書はその大小を「正秀の大小は珍しく、貴重であり」[[c:18]]と賞し、仙台十代国包ら門人との合作も好資料とする。細川守秀との合作の刀については「両人の合作は極めて珍しく好資料である」[[c:19]]と記す。在銘・有年紀で比較的数も多いため、正秀は私の蒐集家にとって手の届かぬ工ではない。大坂写しの重要刀剣は時に市に現れ、江戸の作刀を古作へと向け直した当人の在銘の手を伝える。
正秀の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在70点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や本間による御物台帳に所載の御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。 詳しく見る →
新々刀 復古の運動
1800年前後、水心子正秀は著述をもって、鍛刀は古作の法に立ち返るべしと説いた。復古刀の運動である。最大の後継者直胤は、数百年絶えていた備前伝と相州伝を確信をもって再現した。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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