重要刀剣 川部儀八郎藤原正秀 4月 26, 2022 商品名 第11回 重要刀剣 川部儀八郎藤原正秀 銘 川部儀八郎藤原正秀 応長谷川次則需作之 寛政元年8月日 作者 水心子正秀 時代 江戸時代後期 伝来 指定 昭和36年10月25日 鑑定書 重要刀剣 価格 刃長 2尺3寸5分(71.2cm) 反り 4分5厘(1.36cm) 元幅 9分8厘(2.97cm) 元重 先幅 6分8厘(2.06cm) 鋒長 1寸1分(3.33cm) 茎長 7寸8分(23.6cm) 茎反り 形状 鎬造、庵棟、反り浅く、中鋒。 鍛 小板目肌よくつみ、地沸よくつく。 刃文 広直刃調に浅くのたれて足入り、匂深く、小沸よくつき冴える。 帽子 直ぐに先小丸、掃きかけかかる。 彫物 茎 生ぶ、先刃上栗尻、鑢目筋違、化粧鑢かかる、目釘穴二、一ッは忍穴、指表に長銘、裏に注文主銘及び年紀がある。 説明 水心子正秀は川部儀八郎と称し、姓は藤原、始め武州下原鍜治吉英に学んで鈴木宅英又英国と称したが、安政3年正秀と改め、正日出、正日天、などと洒落銘もある。山形秋元家に仕え、後に江戸浜町に移った。正秀はいわゆる復古刀の説を唱えて、刀はすべて鎌倉の昔に復すべきであるとし、自らも備前伝或いは相州伝の作を試みているが技倆は弟子の大慶直胤に及ばない。天明・寛政・享和のころは主として、大阪新刀に私淑し、或いは津田助廣の濤瀾乱れとか、或いは井上真改の直刃丁子などを焼いて大いに成功している。この刀も真改写しの傑作で殆んど本科に迫るものがある。強いてその相違点を挙げれば、水心子の作は一般に平肉が乏しくペシャンとした感じがあり、必ず鋒が延びごころとなり、また地がねも綺麗ではあるが、黒ずんだ荒沸がつき、めくらがねに近く、刃も匂深く明るく冴えてはいるが、どこかに荒沸がつくところがあるなどの点にある。 このフィールドは空白のままにしてください 江州屋刀剣店 更新情報メール登録 受信ボックスか迷惑メールフォルダを確認して購読手続きを完了してください。 Please check the Inbox or Junk Email and complete the subscription process. Prev Previous 重要刀剣 無銘 延寿 Next 重要刀剣 金象嵌銘 兼光 Next お問い合わせ ご購入・鑑定・買い取り・売買については、以下の番号もしくはメールまでお問い合わせください。 0749-42-2736 090-3162-7641 お問い合わせフォーム 読み物と知識 刀剣を鑑定する方法について 刀剣鑑定書の種類とランク 日本刀の取り扱い方法 日本刀の所持について 日本刀の種類 プライバシーポリシー カテゴリー 刀剣 鐔 太刀 刀 脇差 縁頭 重要美術品 特別重要刀剣 重要刀剣 保存刀装具 特別貴重小道具 最近の投稿 特別保存刀剣 刀銘 水心子正次(花押) 天保十二年仲春 特別保存刀剣 脇差銘 江州住人佐々木入道源一峯 特別保存刀剣 刀銘 (金粉銘)包友 光遜花押 甲種特別貴重刀剣 脇差銘 井上和泉守国貞 (菊紋)寛文七年三月日 井上和泉守国貞 (菊紋)寛文十一年八月日
水心子正秀は川部儀八郎と称し、姓は藤原、始め武州下原鍛治吉英に学んで鈴木宅英又英国と銘したが、安政三年、正秀と改め、正日出、正日天などと洒落銘もある。山形秋元家に仕え、後に江戸浜町に移った。正秀はいわゆる復古刀の説を唱えて、刀はすべて鎌倉の昔に復すべきであるとし、自らも備前伝或いは相州伝の作を試みているが技術は弟子大慶直胤に及ばない。天明・寛政・享和の頃は主として、大坂新刀に私淑し、或いは津田助広の濤瀾乱とか、或いは井上真改の直刃丁子などを焼いて大いに成功している。この刀も真改写しの傑作で殆んど本科に迫るものがある。強いてその相違点を挙げれば、水心子の作は一般に平肉が乏しくペシャンとした感じがあり、必ず鋒が延びごころとなり、又地がねも綺麗ではあるが、黒ずんだ荒沸がつき、めくらがねに近く、刃も深く明るく冴えてはいるが、どこかに荒沸が叢につくところがあるなどの点である。




水心子正秀は川部儀八郎と称し、姓は藤原、始め武州下原鍛治吉英に学んで鈴木宅英又英国と銘したが、安政三年、正秀と改め、正日出、正日天などと洒落銘もある。山形秋元家に仕え、後に江戸浜町に移った。正秀はいわゆる復古刀の説を唱えて、刀はすべて鎌倉の昔に復すべきであるとし、自らも備前伝或いは相州伝の作を試みているが技術は弟子大慶直胤に及ばない。天明・寛政・享和の頃は主として、大坂新刀に私淑し、或いは津田助広の濤瀾乱とか、或いは井上真改の直刃丁子などを焼いて大いに成功している。この刀も真改写しの傑作で殆んど本科に迫るものがある。強いてその相違点を挙げれば、水心子の作は一般に平肉が乏しくペシャンとした感じがあり、必ず鋒が延びごころとなり、又地がねも綺麗ではあるが、黒ずんだ荒沸がつき、めくらがねに近く、刃も深く明るく冴えてはいるが、どこかに荒沸が叢につくところがあるなどの点である。
Suishinshi Masahide (shinshinto founder of the revival-sword movement, Yamagata / Edo) · 武蔵 · 1777-1817頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位11%
現在9点販売中
水心子正秀は、寛延三年(一七五〇)出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ、初め鈴木宅英、のち英国と銘し、武州下原の鍛冶吉英に学び、安永三年正秀と改め、山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って、文政八年七十六歳で歿、作刀は約五十年に及んだ。彼は新々刀の祖にして、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動の主唱者である。その物語で最も重きをなすのは、彼が育てた者たちであろう。多くの門弟のうちに、復古刀論を実地に示した大慶直胤、のちの二代正義細川守秀が立つ。説明書は正秀自身の才のありかについて珍しく率直であり、それは彼が唱えたことで知られる理論にはなかった。
その典型の手は大坂写しで、壮年の頃まで大坂新刀の名工に私淑して作ったものであり、説明書はこれを彼の最も優れた作と呼ぶ。よくつんでしばしば無地風に約む小板目に地沸厚くつき、その上に津田助広の濤瀾風の大互の目を波のごとくに焼き、多く直ぐに長く焼出し、足入り、匂深く匂口明るい。いま一つの大坂の作風は、井上真改・直改に倣う直刃・広直刃調で、匂深く沸よくつき、稀に一竿子忠綱を思わせるものもある。最上の写しにも終始あらわれる見どころは変わらない。無地風の地へ刃中から黒味がちの荒い粒の沸がこぼれるのである。説明書は真改をねらった一口にこれを「彼の手癖が見られる」[[c:1]]と名指し、助広の濤瀾の一口には「これにもその手癖が示された典型的な一口」[[c:2]]と記す。
地鉄はこのすべての変わらぬ地である。小板目が細かによくつみ、しばしば無地風の平らかさに近づき、地沸がよくつき、処々やや叢となる。説明書は鉄を綺麗で冴えると称え、すぐにそれを限定する。真改写しについて、地がねは綺麗ながら「黒ずんだ荒沸がつき」[[c:3]]、「めくらがねに近く」[[c:4]]、地肌があらわれぬ盲人がねに近いと書く。その地の上に刃文は匂深く沸よくつき、多く荒めで、帽子は直ぐに小丸、時に焼深く丸く、稀に玉を一つ焼く。本来の古刀の映りは彼の引出しにはなく、乱れ映りは初期の一口にのみ名指されるに留まり、後に弟子が地に甦らせたごとき確かな映りではない。
その記録は二つの面に明瞭に分かれ、説明書はその区分に語らせる。前者の大坂写しを彼の強みとし、後者の理念の歳月の復古刀をより冷静に扱う。備前伝は終始焼刃が浅く、のたれに互の目・時に尖りごころの刃を交え、一口は箱がかったのたれに矢筈風の刃を交え僅かに飛焼かかる。相州伝は五郎正宗に私淑して五郎正秀と称した敬意に示されるとおり、流れてやや肌立つ板目の上にのたれに互の目を交え、砂流しかかる。正直な時代色はそのすべてを貫き、古備前のごとき純然たる匂出来ではなく総体に荒い沸がつく。ある助広写しについて極めは、初期の大坂写しと晩年の復古刀との間で、「出来はむしろ前者に佳作を見る」[[c:5]]と記す。在銘・有年紀で、楷書にも草書にも切り、年ごとに変化に富むその銘は、彼を新々刀の名工のうちでも最も正確に知り得る一人とする。
ゆえに彼を分かつのは鑑定の難問ではなく、系統のうちの率直な位置である。彼は復古の頭に立つ師であり、説明書はその役を飾らない。備前伝・相州伝について「その技は弟子の大慶直胤に及ばない」[[c:6]]と明記する。その見どころはほかにある。典型の明るく華やかな濤瀾と広い真改の直刃、そして近い大坂写しの背後にも連衆の手を読ませる地へこぼれる荒い沸である。最上の写しは本科に近く、説明書はこれを「殆んど本科に迫るものがある」[[c:7]]とし、ある天明の一口を「いわゆる大坂写しの傑出の一口」[[c:8]]と呼ぶ。理念よりもこの写しの精緻さこそ、記録の称えるところである。
収集の観点では、正秀は鑑定の難問ではなく、在銘・有年紀の開かれた一書である。藤代の極めは上々作。国宝はなく重要文化財もなく、その記録は重要刀剣と戦前の重要美術品を通じ、約二十五口の指定作のうち二十四口が重要刀剣の級にあり、いずれも安永から文化に亘る在銘・有年紀の作である。来歴の知れるものは僅かで、嘉永ならぬ享和三年紀の重要美術品の刀一口は皇室・宮内省を経て滋賀の財下郷共済会に伝わり、その藩工としての務めは山形秋元家に結びつく。説明書はその傑作を名指し、初期天明の刀を「いわゆる大坂写しの傑出の一口」[[c:8]]と呼び、金象嵌の双龍の銘をもつ珍しい大小を「同作中の優品」とし、仙台十代国包やのちの二代正義細川守秀との珍しい合作を好資料として賞する。多作にして在銘ゆえ、正秀は鎌倉の大名跡のごとく手の届かぬものではない。在銘・有年紀の大坂写しは時に上級に世に出るところで、その一口を得ることは、江戸の作刀が古作へと向き直ったその時を、向き直らせた人の手のうちに蔵することである。
正秀の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在75点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト重要刀剣 川部儀八郎藤原正秀 4月 26, 2022 商品名 第11回 重要刀剣 川部儀八郎藤原正秀 銘 川部儀八郎藤原正秀 応長谷川次則需作之 寛政元年8月日 作者 水心子正秀 時代 江戸時代後期 伝来 指定 昭和36年10月25日 鑑定書 重要刀剣 価格 刃長 2尺3寸5分(71.2cm) 反り 4分5厘(1.36cm) 元幅 9分8厘(2.97cm) 元重 先幅 6分8厘(2.06cm) 鋒長 1寸1分(3.33cm) 茎長 7寸8分(23.6cm) 茎反り 形状 鎬造、庵棟、反り浅く、中鋒。 鍛 小板目肌よくつみ、地沸よくつく。 刃文 広直刃調に浅くのたれて足入り、匂深く、小沸よくつき冴える。 帽子 直ぐに先小丸、掃きかけかかる。 彫物 茎 生ぶ、先刃上栗尻、鑢目筋違、化粧鑢かかる、目釘穴二、一ッは忍穴、指表に長銘、裏に注文主銘及び年紀がある。 説明 水心子正秀は川部儀八郎と称し、姓は藤原、始め武州下原鍜治吉英に学んで鈴木宅英又英国と称したが、安政3年正秀と改め、正日出、正日天、などと洒落銘もある。山形秋元家に仕え、後に江戸浜町に移った。正秀はいわゆる復古刀の説を唱えて、刀はすべて鎌倉の昔に復すべきであるとし、自らも備前伝或いは相州伝の作を試みているが技倆は弟子の大慶直胤に及ばない。天明・寛政・享和のころは主として、大阪新刀に私淑し、或いは津田助廣の濤瀾乱れとか、或いは井上真改の直刃丁子などを焼いて大いに成功している。この刀も真改写しの傑作で殆んど本科に迫るものがある。強いてその相違点を挙げれば、水心子の作は一般に平肉が乏しくペシャンとした感じがあり、必ず鋒が延びごころとなり、また地がねも綺麗ではあるが、黒ずんだ荒沸がつき、めくらがねに近く、刃も匂深く明るく冴えてはいるが、どこかに荒沸がつくところがあるなどの点にある。 このフィールドは空白のままにしてください 江州屋刀剣店 更新情報メール登録 受信ボックスか迷惑メールフォルダを確認して購読手続きを完了してください。 Please check the Inbox or Junk Email and complete the subscription process. Prev Previous 重要刀剣 無銘 延寿 Next 重要刀剣 金象嵌銘 兼光 Next お問い合わせ ご購入・鑑定・買い取り・売買については、以下の番号もしくはメールまでお問い合わせください。 0749-42-2736 090-3162-7641 お問い合わせフォーム 読み物と知識 刀剣を鑑定する方法について 刀剣鑑定書の種類とランク 日本刀の取り扱い方法 日本刀の所持について 日本刀の種類 プライバシーポリシー カテゴリー 刀剣 鐔 太刀 刀 脇差 縁頭 重要美術品 特別重要刀剣 重要刀剣 保存刀装具 特別貴重小道具 最近の投稿 特別保存刀剣 刀銘 水心子正次(花押) 天保十二年仲春 特別保存刀剣 脇差銘 江州住人佐々木入道源一峯 特別保存刀剣 刀銘 (金粉銘)包友 光遜花押 甲種特別貴重刀剣 脇差銘 井上和泉守国貞 (菊紋)寛文七年三月日 井上和泉守国貞 (菊紋)寛文十一年八月日
水心子正秀は川部儀八郎と称し、姓は藤原、始め武州下原鍛治吉英に学んで鈴木宅英又英国と銘したが、安政三年、正秀と改め、正日出、正日天などと洒落銘もある。山形秋元家に仕え、後に江戸浜町に移った。正秀はいわゆる復古刀の説を唱えて、刀はすべて鎌倉の昔に復すべきであるとし、自らも備前伝或いは相州伝の作を試みているが技術は弟子大慶直胤に及ばない。天明・寛政・享和の頃は主として、大坂新刀に私淑し、或いは津田助広の濤瀾乱とか、或いは井上真改の直刃丁子などを焼いて大いに成功している。この刀も真改写しの傑作で殆んど本科に迫るものがある。強いてその相違点を挙げれば、水心子の作は一般に平肉が乏しくペシャンとした感じがあり、必ず鋒が延びごころとなり、又地がねも綺麗ではあるが、黒ずんだ荒沸がつき、めくらがねに近く、刃も深く明るく冴えてはいるが、どこかに荒沸が叢につくところがあるなどの点である。




水心子正秀は川部儀八郎と称し、姓は藤原、始め武州下原鍛治吉英に学んで鈴木宅英又英国と銘したが、安政三年、正秀と改め、正日出、正日天などと洒落銘もある。山形秋元家に仕え、後に江戸浜町に移った。正秀はいわゆる復古刀の説を唱えて、刀はすべて鎌倉の昔に復すべきであるとし、自らも備前伝或いは相州伝の作を試みているが技術は弟子大慶直胤に及ばない。天明・寛政・享和の頃は主として、大坂新刀に私淑し、或いは津田助広の濤瀾乱とか、或いは井上真改の直刃丁子などを焼いて大いに成功している。この刀も真改写しの傑作で殆んど本科に迫るものがある。強いてその相違点を挙げれば、水心子の作は一般に平肉が乏しくペシャンとした感じがあり、必ず鋒が延びごころとなり、又地がねも綺麗ではあるが、黒ずんだ荒沸がつき、めくらがねに近く、刃も深く明るく冴えてはいるが、どこかに荒沸が叢につくところがあるなどの点である。
Suishinshi Masahide (shinshinto founder of the revival-sword movement, Yamagata / Edo) · 武蔵 · 1777-1817頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位11%
現在9点販売中
水心子正秀は、寛延三年(一七五〇)出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ、初め鈴木宅英、のち英国と銘し、武州下原の鍛冶吉英に学び、安永三年正秀と改め、山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って、文政八年七十六歳で歿、作刀は約五十年に及んだ。彼は新々刀の祖にして、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動の主唱者である。その物語で最も重きをなすのは、彼が育てた者たちであろう。多くの門弟のうちに、復古刀論を実地に示した大慶直胤、のちの二代正義細川守秀が立つ。説明書は正秀自身の才のありかについて珍しく率直であり、それは彼が唱えたことで知られる理論にはなかった。
その典型の手は大坂写しで、壮年の頃まで大坂新刀の名工に私淑して作ったものであり、説明書はこれを彼の最も優れた作と呼ぶ。よくつんでしばしば無地風に約む小板目に地沸厚くつき、その上に津田助広の濤瀾風の大互の目を波のごとくに焼き、多く直ぐに長く焼出し、足入り、匂深く匂口明るい。いま一つの大坂の作風は、井上真改・直改に倣う直刃・広直刃調で、匂深く沸よくつき、稀に一竿子忠綱を思わせるものもある。最上の写しにも終始あらわれる見どころは変わらない。無地風の地へ刃中から黒味がちの荒い粒の沸がこぼれるのである。説明書は真改をねらった一口にこれを「彼の手癖が見られる」[[c:1]]と名指し、助広の濤瀾の一口には「これにもその手癖が示された典型的な一口」[[c:2]]と記す。
地鉄はこのすべての変わらぬ地である。小板目が細かによくつみ、しばしば無地風の平らかさに近づき、地沸がよくつき、処々やや叢となる。説明書は鉄を綺麗で冴えると称え、すぐにそれを限定する。真改写しについて、地がねは綺麗ながら「黒ずんだ荒沸がつき」[[c:3]]、「めくらがねに近く」[[c:4]]、地肌があらわれぬ盲人がねに近いと書く。その地の上に刃文は匂深く沸よくつき、多く荒めで、帽子は直ぐに小丸、時に焼深く丸く、稀に玉を一つ焼く。本来の古刀の映りは彼の引出しにはなく、乱れ映りは初期の一口にのみ名指されるに留まり、後に弟子が地に甦らせたごとき確かな映りではない。
その記録は二つの面に明瞭に分かれ、説明書はその区分に語らせる。前者の大坂写しを彼の強みとし、後者の理念の歳月の復古刀をより冷静に扱う。備前伝は終始焼刃が浅く、のたれに互の目・時に尖りごころの刃を交え、一口は箱がかったのたれに矢筈風の刃を交え僅かに飛焼かかる。相州伝は五郎正宗に私淑して五郎正秀と称した敬意に示されるとおり、流れてやや肌立つ板目の上にのたれに互の目を交え、砂流しかかる。正直な時代色はそのすべてを貫き、古備前のごとき純然たる匂出来ではなく総体に荒い沸がつく。ある助広写しについて極めは、初期の大坂写しと晩年の復古刀との間で、「出来はむしろ前者に佳作を見る」[[c:5]]と記す。在銘・有年紀で、楷書にも草書にも切り、年ごとに変化に富むその銘は、彼を新々刀の名工のうちでも最も正確に知り得る一人とする。
ゆえに彼を分かつのは鑑定の難問ではなく、系統のうちの率直な位置である。彼は復古の頭に立つ師であり、説明書はその役を飾らない。備前伝・相州伝について「その技は弟子の大慶直胤に及ばない」[[c:6]]と明記する。その見どころはほかにある。典型の明るく華やかな濤瀾と広い真改の直刃、そして近い大坂写しの背後にも連衆の手を読ませる地へこぼれる荒い沸である。最上の写しは本科に近く、説明書はこれを「殆んど本科に迫るものがある」[[c:7]]とし、ある天明の一口を「いわゆる大坂写しの傑出の一口」[[c:8]]と呼ぶ。理念よりもこの写しの精緻さこそ、記録の称えるところである。
収集の観点では、正秀は鑑定の難問ではなく、在銘・有年紀の開かれた一書である。藤代の極めは上々作。国宝はなく重要文化財もなく、その記録は重要刀剣と戦前の重要美術品を通じ、約二十五口の指定作のうち二十四口が重要刀剣の級にあり、いずれも安永から文化に亘る在銘・有年紀の作である。来歴の知れるものは僅かで、嘉永ならぬ享和三年紀の重要美術品の刀一口は皇室・宮内省を経て滋賀の財下郷共済会に伝わり、その藩工としての務めは山形秋元家に結びつく。説明書はその傑作を名指し、初期天明の刀を「いわゆる大坂写しの傑出の一口」[[c:8]]と呼び、金象嵌の双龍の銘をもつ珍しい大小を「同作中の優品」とし、仙台十代国包やのちの二代正義細川守秀との珍しい合作を好資料として賞する。多作にして在銘ゆえ、正秀は鎌倉の大名跡のごとく手の届かぬものではない。在銘・有年紀の大坂写しは時に上級に世に出るところで、その一口を得ることは、江戸の作刀が古作へと向き直ったその時を、向き直らせた人の手のうちに蔵することである。
正秀の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在75点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト