室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
Kyotoku era (A.D.1453, early Muromachi period) Moto-haba (Width at Ha-machi) approx. 2.82cm Engraving: "Bo-hi" maru-dome on the both sides Calligraphy on the Shirasaya written by Hon'ami Shigeyoshi (Ringa) Inro kizami kuro ishime-ji "Kumo"(cloud pattern) nuri saya, aikuchi koshirae




















備前伝 · 備前 · 1430-1453頃
永享から享徳にかけての長船則光は、年紀作四口によって知られる。永享二年の短刀、永享十年と文安二年の太刀、そして享徳二年の太刀で、最後の一口は第四十三回重要刀剣に指定された翌年、特別重要刀剣に指定された。説明は則光の初代を長光門下と伝え、嘉元三年紀の短刀が現存するとしたうえで、「銘鑑では、これを初代とし、二代を延文頃、三代が応永で家助の子とし、四代が永享頃、五代が長禄・寛正頃で、以後室町末期まで名跡の継承があったことを記している」[[c:7]]と述べる。
この系譜の中で、本工は四代に当てられる。室町初期の応永頃までの作例は僅少であり、別の説明は「その後は名跡が絶えて、室町時代に至って復活している」[[c:1]]とする。これに対し享徳の太刀の作者は「本作の作者は、銘鑑でいう四代に該当する則光と思われ、作例も比較的多く、祐光と並んで永享備前の双璧として名高い」[[c:2]]とされる。文安の太刀の説明は「この文安の則光はその四代目にあたり、五郎左衛門を名のっている」[[c:8]]と記す。
太刀の作風には一貫したものがある。享徳の太刀は小板目肌よくつみ、地沸微塵につき、地景細かに入り、乱れ映り鮮明に立つ。刃文は腰の開いた互の目を主調に、角張る小互の目・小丁子・尖り刃など交じり、足・葉よく入り、匂口やや締まりごころに小沸つき、処々飛焼かかる。帽子は乱れ込み、表は小丸ごころ、裏は尖って返り、共に細かに掃きかける。説明は則光の特色がよく表示されているとし、「常以上に焼の高低・足・葉の変化の目立つ同作中の傑作で」[[c:3]]と称える。
文安の太刀も地に乱れ映りが立ち、腰開きの互の目に丁子ごころ交じり、足・葉入り、帽子は乱れ込んで尖って返る。説明はこれを「応永備前の作風を継承したものであり、匂口が明るく冴えている」[[c:4]]と評する。永享十年の太刀は磨上げながら長寸で、板目流れて杢交じり肌立ちごころ、刃文は互の目に丁子・小丁子交じり匂い深い。説明は「この太刀は姿・作柄にいまなお応永備前の風を保ち、地刃の出来が見事である」[[c:9]]とする。
永享二年の短刀は趣を異にする。平造、無反りで重ねやや厚く、表裏に梵字を彫る。板目肌よくつみ棒映り立ち、刃文は中直刃の匂出来に僅かに小沸つく。説明はこれを代表作の一本とし、「地刃にこの時代の備前長船物の特色がある」[[c:5]]と記す。
享徳の太刀には同時代の黒漆太刀拵、鉄の太刀釧、紺地重菊文様銀襴太刀袋、朱塗太刀箱が附属する。説明は拵を「南北朝様式を伝えた古調な兵仗の黒漆太刀拵の貴重な作例であり」[[c:6]]とし、太刀袋を室町期に遡り得る日本製の銀襴として誠に貴重とする。
則光の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
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在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
備前伝 · 備前
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備前国邑久郡長船の地に興り、鎌倉時代中期から室町時代末期に至るまで連綿と鍛刀を続けた、刀剣史上最大の流派である。事実上の祖は光忠で、近忠の子と伝えるが近忠の作刀が知られないため、長船本流の起点はこの工に置かれる。古伝はその源を古備前正恒の一類が長船に移り住んだことに求め、光忠はその流れを承けて一門を興したと説く。すなわち本流派は、古備前の地盤の上に、丁子を主調とする華麗な作風をもって自立した備前鍛冶の本系である。光忠の下に長光、真長、景光らが輩出し、以後、相伝備前の兼光・長義・元重、室町初期の応永備前を経て末備前に至るまで、備前伝の中核を担い続けた。 作風は備前伝を基盤とし、よく錬れて杢を交えた板目に地沸が微塵につき、地景が細かに入り、地に乱れ映りが鮮明に立つ鍛えを共通の地とする。この乱れ映りこそ、在銘無銘を問わず一門の作を備前へ繋ぎ止める最も確かな標である。刃文には世代ごとの軸がある。草創の古長船にあって光忠は蛙子丁子を看どころとし、子の長光は頭の丸いふくらみのある丁子を加え、孫の景光は片落ち互の目を完成して逆がかりの足を看どころとした。この光忠、長光、景光の三代が長船嫡流の背骨をなし、近景がその影として景光をほぼ完璧に映し、真長は同じ地に締まる匂口の直刃を得意とした。南北朝期に入ると兼光が嫡流を承けつつのたれ主調の大模様を加え、相州伝を摂取した相伝備前の作風が現れる。長義は耳形の刃を看どころに兼光以上に相州伝を強調し、長重と兼長がこれに連なり、義景は匂口の沈むところに、元重は焼頭の揃った角ばる刃と青江気質に、それぞれ別系の個性を示した。体配もまた時代を映し、鎌倉の腰反り高い太刀から、南北朝の身幅広く大鋒の延文貞治型へ、さらに応永備前では古作への復古を志して優美な太刀姿と丁子刃が甦る。康光と盛光を双璧とする応永備前は、腰の広く開いた互の目とローソクの芯と称する尖り返る帽子を看どころとし、その腰開き互の目と棒映りは末備前へと受け継がれた。長光景光以来の梵字、三鈷剣、倶利迦羅、八幡大菩薩などの刀身彫もまた、末備前まで絶えず継承された一門の標である。 鑑定にあっては、まず鮮明な乱れ映りで一門を備前と読み、次に世代と系統の看どころで工を分かつ。蛙子丁子は光忠、丸い頭の丁子は長光、逆がかる片落ち互の目は景光、のたれと角互の目は兼光、耳形の刃は長義、角ばり逆がかる刃と蝉の羽根の肌は元重、ローソクの芯の帽子は応永備前という具合に、看どころが系統と時代を指し示す。嫡流の光忠、長光、景光、兼光は藤代の最上作に列し、なかでも長光は重要文化財の指定数が全刀工中最多で、嫡流の作には名物大般若長光や小龍景光をはじめ、織田信長、徳川家康、上杉謙信ら天下を握った者の手を経た作が多い。相伝備前の長義や兼長、応永備前の康光や盛光もそれぞれ重きをなし、別系の元重もまた南北朝備前の大きな名を保つ。嫡流の在銘作が市に現れることは稀で、大半は大磨上無銘の極めとして伝わるが、長光のごとく銘を惜しまなかった工の作はなお蒐集家の手の届く範囲にある。後世への影響は計り知れず、本流派の作風と刀身彫の伝統は末備前を通じて室町備前の主流をなし、備前伝そのものの規範となった。 詳しく見る →
室町時代の備前
室町の長船は輸出産業であった。明との勘合貿易はおよそ十二万八千振の日本刀を海の彼方へ運び、国内では戦国の軍勢が買い手となった。注文主の俗名を銘に刻む注文打ちが、兵卒用の数打ち物と並んで鍛えられている。
保存刀剣のうち、出来が一層優れ、保存状態も良好と認められたものです。再刃や、室町・江戸期の多くの無銘作は対象外となり、保存刀剣より高い基準が課されます。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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