南北朝の戦乱は、山城の精緻を支えた公家社会を疲弊させた。来派最後の巨匠たちをもって古典の系譜は閉じ、長谷部と信国が新しい相州風を都に持ち込んでいる。






Yamashiro (Kyoto), Nobukuni school · 山城 · 1356-1368頃
藤代 上々作 · 刀剣大鑑 上位8%
延文三年(一三五八)紀の短刀を最古として、康安元年の脇指、さらに貞治五年・応安五年に至る年紀作が、本会が初代と見做す山城国信国の活躍期を画する。銘鑑は初代を建武とするが、説明書は繰り返しこれを退ける。建武及びその近辺の年紀は皆無で、そこまで遡ると鑑せられる作も見当たらず、現存最古の延文・貞治年紀の作風が貞宗と直結することから、「今日では延文・貞治を初代と見做すのが通説となっている」[[c:8]]。彼には二つの系統が合流する。血統上は了戒系で、了久信(了戒の子)の子或は孫と記される来系の刀工であり、修業上は相州貞宗の門人で「貞宗三哲の一人」に数えられ、「南北朝期を代表する刀工」[[c:9]]と位置づけられている。
その作風について本会は「その作風は大要、二様があり、一つは直刃、一つは貞宗風ののたれを主とする乱刃である」[[c:10]]と明記する。二様を貫くのは地鉄である。「鍛えが直刃・乱れ刃に拘らず、刃寄りに流れる」[[c:11]]点が了戒系の所伝を首肯せしめる証とされ、第十回特別重要の脇指では「刃寄りに柾がかって流れる肌合には彼が了戒系であることが示唆されている」[[c:12]]と記される。鍛えは板目に杢を交え、地沸厚く、地景頻りに入り、多くの作に沸映りが立ち、刃縁には二重刃が現われる。相州伝の地刃に立つこれらは京物の名残であり、相模の工との分かれ目となる。
現存作の主流は貞宗風である。小のたれに互の目・小互の目を交え、足・葉入り、沸厚く明るく、金筋・砂流しが絶えず働き、刃縁にほつれ、湯走りがかかる。黒田家伝来の脇指では湯走りが刃に沿って断続的に連なり「一種の二段刃状を呈す」[[c:13]]。帽子はのたれ込み、または乱れ込んで小丸となり、掃きかける。師との分かれ目は細部に引かれ、土佐山内家伝来の有銘脇指は「貞宗に比すると、やや互の目のめだつ感があり、そこにまた信国の見どころが示されている」[[c:14]]と評される。「御家芸とも言うべき彫物」[[c:4]]も貞宗譲りで、梵字・素剣・護摩箸・三鈷剣・倶利迦羅を重ね、ある刀は「彫物も大進坊風にかさねて巧みである」[[c:15]]と讃えられる。
いま一つの作域が「来派の伝統である直刃」[[c:5]]である。最古の年紀作がこれを担い、在銘の特別重要短刀は「京物の伝統を墨守した格調高い直刃」[[c:16]]と評される。中直刃・細直刃に小沸がつき、匂口は締りごころ又は深く、刃縁細かくほつれ、喰違刃・二重刃ごころを交え、その下には同じ刃寄りに流れる鍛えと沸映りがある。体配は「延文・貞治型」と名指される、身幅広く寸延びて重ね薄い平造・三ツ棟の脇指・短刀が主体で、刀・太刀はほぼ大磨上無銘、中鋒延びごころから大鋒となり、時に輪反りが深い。菖蒲造の一口は「一見大和物に紛うような造込み」[[c:17]]の変り出来である。有銘作は目釘孔下中央の二字銘で、年紀作は裏に年紀を添える。指定作中、在銘二九口に対し無銘四〇口である。
名跡は継承された。南北朝最末期には永徳・至徳・明徳年紀の代替りの信国があり、室町初期には左衛門尉・式部丞を冠するいわゆる応永信国が活躍する。各代のたれ刃と直刃を得意とし、南北朝末期より応永にかけて互の目主調の乱れ刃の作域が加わる。一派は後に豊前、さらに筑前に移り、新々刀期まで繁栄した。その長い継承の中で初代は規準であり続け、無銘極めも代別の鑑別も、延文三年紀の作との銘字・作風の照合によって決せられている。
藤代の極めで上々作。公の指定記録に七〇口を数え、重要文化財四口、特別重要刀剣七口、重要刀剣五三口のほか、戦前の重要美術品五口があり、本間による御物台帳にも脇指一口が所載される。伝来は大名家を連ねる。「黒田長政の指料と伝え」[[c:18]]る金象嵌入りの脇指は将軍家・堀田家を経て秋田佐竹家に伝わり、本願寺名物の小脇指は「蓮如上人の遺愛と伝える」[[c:19]]。「号荒尾信国」の脇指は芸州浅野家伝来で万治元年本阿弥光温折紙を伴い、ほかに信州松代真田家・土佐山内家・田村家の伝来があり、弘化二年に将軍家より尾張家へ下賜された太刀もある。現所在の知られるものは徳川美術館・京都国立博物館ほか公私の蔵に収まる。重要文化財の四口は文化財として永く守られ、特別重要・重要の六〇口も多くは秘蔵されており、初代信国の在銘脇指が市に現れることは稀で、現れれば南北朝山城物の蒐集における特筆すべき機会となる。
信國の位置づけを、日本刀全体および伝法・時代・時期ごとに示します。各区分(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
山城伝 · 山城
現在22点販売中
信国派は山城国京都に興った名門で、その流れは南北朝時代に遡る。一派の祖と仰がれる信国は了戒系の京鍛冶で、血脈の上では来の伝統を承けながら、修業の上では相州貞宗の門に入って貞宗三哲の一人に数えられた。来の系譜と相州伝という二つの根がこの一門の作のすべてを導く。銘鑑は祖を建武に置くが、説明書はこれを繰り返し退ける。建武年間の作は残らず、現存最古の延文・貞治の年紀作が貞宗に直結することから、本会は延文・貞治の工をもって初代と見做す。南北朝の末期には永徳・至徳・明徳の代替りの信国が続き、同銘数工があったと見られる。室町初期には左衛門尉・式部丞を冠する応永信国が栄え、これを通常三代と数える。一派は後に豊前へ、さらに筑前へ移り、慶長の頃より明治初年まで福岡藩黒田家の抱え鍛冶として吉貞・吉政・吉次・吉包・重包の代々を出し、新々刀期まで栄えた。 一派に通う語法は、まず地鉄に現れる。鍛えは杢を交えた板目で、刃寄りに流れて柾となりやや肌立ち、地沸を厚くとり地景が頻りに入り、よくつんだ作には淡い沸映りが立つ。刃寄りに流れる鍛えは了戒系の所伝を首肯せしめる証とされ、厚い地沸と頻りの地景は貞宗に学んだ相州伝の痕跡として読まれる。刃文は文様の如何を問わず沸で焼かれ、砂流し・金筋が絶えず働き、匂口は明るい。その作域は二様を基とする。一つは来派の伝統を示した直刃で、中直刃・細直刃に小沸つき、細かにほつれ喰違刃・二重刃ごころを交えて京物の格調を伝える。いま一つは貞宗風ののたれ乱れで、小のたれに互の目・小互の目を交え、足・葉入り、沸厚く明るく、刃縁にほつれ湯走りがかかり、最も多く出会う作域をなす。帽子はのたれ込みまたは乱れ込んで小丸となり掃きかける。御家芸とも言うべき濃密な彫物も貞宗譲りで、梵字・素剣・護摩箸・三鈷剣・倶利迦羅を重ね彫りにし、刀身に八幡大菩薩の神号を切る作もあって、彫物によって一門を見分けうる。代を下ると差異が明瞭となる。南北朝末期の後代は一派に初めて太刀を生み、二様に加えて互の目主調の乱れ刃を新たに見せ、互の目が二つ宛連れたものを腰の低い小のたれで繋ぐ矢筈状の刃を見どころとする。応永信国は左衛門尉が「国」の字のクニ構えの中を左字に作る点を大きな鑑別点とし、直刃と互の目乱れの双方に冴えた沸を宿す。筑前に移った吉包・重包は相州伝の志向と、流れ肌の乱れ映りを伴う一派の丁子乱れとを高い技倆で並べ持ち、重包は名物写しの名手として石堂風に紛う華やかな丁子を、地沸・地景・刃中の沸の顕著さによって石堂と分かった。 鑑定の勘所は明快である。刃寄りに流れる柾がかった肌、厚い地沸と頻りの地景、沸で焼いた直刃と貞宗風ののたれ乱れ、重ね彫りの宗教彫物が一門を束ね、相州の同門とも後世の備前丁子とも分かつ拠りどころとなる。無銘極めも代の弁別も延文三年紀の作との照合によって決せられ、後代は連れ互の目と矢筈刃で、応永信国は逆字の銘で、筑前の工は流れ肌の乱れ映りで読み分けられる。藤代の極めは初代信国を上々作とし、後代から応永信国まで京古刀の上位に列し、筑前の吉包・重包は地方新刀の堅実な工として上作の評を得る。在銘作は祖において短刀・小脇指に限られて稀であり、それゆえ年紀のある後代の太刀・薙刀は何よりの好資料として貴ばれる。伝来は大名家と社寺に厚く、黒田家・浅野家・山内家・佐竹家らの蔵刀に加え、本願寺名物や富士山本宮浅間大社に奉納された式部丞の脇指がある。上位指定の多くは公私の蔵に秘められて市に現れず、在銘の信国が世に出ること自体が稀であって、現れた時は南北朝以来の山城物の蒐集で特筆すべき機会となる。 詳しく見る →
南北朝時代の山城
南北朝の戦乱は、山城の精緻を支えた公家社会を疲弊させた。来派最後の巨匠たちをもって古典の系譜は閉じ、長谷部と信国が新しい相州風を都に持ち込んでいる。
弊社の過失により、本来の状態と著しく異なる場合には商品の返品が可能です。クーリングオフは商品到着後一週間以内です。