延文三年(一三五八)紀の短刀を最古として、康安元年の脇指、さらに貞治五年・応安五年に至る年紀作が、本会が初代と見做す山城国信国の活躍期を画する。銘鑑は初代を建武とするが、説明書は繰り返しこれを退ける。建武及びその近辺の年紀は皆無で、そこまで遡ると鑑せられる作も見当たらず、現存最古の延文・貞治年紀の作風が貞宗と直結することから、「今日では延文・貞治を初代と見做すのが通説となっている」。彼には二つの系統が合流する。血統上は了戒系で、了久信(了戒の子)の子或は孫と記される来系の刀工であり、修業上は相州貞宗の門人で「貞宗三哲の一人」に数えられ、「南北朝期を代表する刀工」と位置づけられている。
その作風について本会は「その作風は大要、二様があり、一つは直刃、一つは貞宗風ののたれを主とする乱刃である」と明記する。二様を貫くのは地鉄である。「鍛えが直刃・乱れ刃に拘らず、刃寄りに流れる」点が了戒系の所伝を首肯せしめる証とされ、第十回特別重要の脇指では「刃寄りに柾がかって流れる肌合には彼が了戒系であることが示唆されている」と記される。鍛えは板目に杢を交え、地沸厚く、地景頻りに入り、多くの作に沸映りが立ち、刃縁には二重刃が現われる。相州伝の地刃に立つこれらは京物の名残であり、相模の工との分かれ目となる。
現存作の主流は貞宗風である。小のたれに互の目・小互の目を交え、足・葉入り、沸厚く明るく、金筋・砂流しが絶えず働き、刃縁にほつれ、湯走りがかかる。黒田家伝来の脇指では湯走りが刃に沿って断続的に連なり「一種の二段刃状を呈す」。帽子はのたれ込み、または乱れ込んで小丸となり、掃きかける。師との分かれ目は細部に引かれ、土佐山内家伝来の有銘脇指は「貞宗に比すると、やや互の目のめだつ感があり、そこにまた信国の見どころが示されている」と評される。「御家芸とも言うべき彫物」も貞宗譲りで、梵字・素剣・護摩箸・三鈷剣・倶利迦羅を重ね、ある刀は「彫物も大進坊風にかさねて巧みである」と讃えられる。
いま一つの作域が「来派の伝統である直刃」である。最古の年紀作がこれを担い、在銘の特別重要短刀は「京物の伝統を墨守した格調高い直刃」と評される。中直刃・細直刃に小沸がつき、匂口は締りごころ又は深く、刃縁細かくほつれ、喰違刃・二重刃ごころを交え、その下には同じ刃寄りに流れる鍛えと沸映りがある。体配は「延文・貞治型」と名指される、身幅広く寸延びて重ね薄い平造・三ツ棟の脇指・短刀が主体で、刀・太刀はほぼ大磨上無銘、中鋒延びごころから大鋒となり、時に輪反りが深い。菖蒲造の一口は「一見大和物に紛うような造込み」の変り出来である。有銘作は目釘孔下中央の二字銘で、年紀作は裏に年紀を添える。指定作中、在銘二八口に対し無銘四〇口である。
名跡は継承された。南北朝最末期には永徳・至徳・明徳年紀の代替りの信国があり、室町初期には左衛門尉・式部丞を冠するいわゆる応永信国が活躍する。各代のたれ刃と直刃を得意とし、南北朝末期より応永にかけて互の目主調の乱れ刃の作域が加わる。一派は後に豊前、さらに筑前に移り、新々刀期まで繁栄した。その長い継承の中で初代は規準であり続け、無銘極めも代別の鑑別も、延文三年紀の作との銘字・作風の照合によって決せられている。
藤代の極めで上々作。公の指定記録に六九口を数え、重要文化財四口、特別重要刀剣七口、重要刀剣五二口である。伝来は大名家を連ねる。「黒田長政の指料と伝え」る金象嵌入りの脇指は将軍家・堀田家を経て秋田佐竹家に伝わり、本願寺名物の小脇指は「蓮如上人の遺愛と伝える」。「号荒尾信国」の脇指は芸州浅野家伝来で万治元年本阿弥光温折紙を伴い、ほかに信州松代真田家・土佐山内家・田村家の伝来があり、弘化二年に将軍家より尾張家へ下賜された太刀もある。現所在の知られるものは徳川美術館・京都国立博物館ほか公私の蔵に収まる。重要文化財の四口は文化財として永く守られ、特別重要・重要の五九口も多くは秘蔵されており、初代信国の在銘脇指が市に現れることは稀で、現れれば南北朝山城物の蒐集における特筆すべき機会となる。