大慶直胤は安永八年(1779年)出羽山形に生まれ、通称を荘司箕兵衛、号を大慶という。若くして江戸に出て、同郷の先輩で復古刀の主唱者である水心子正秀の門に入り、のち師と同じく秋元侯に仕えた。説明書は細川正義と共に水心子門下の逸材の一人とする。二十三歳の作に荘司直胤の名と寛政十三年正月の年紀を切ったものがあるので、入門はその二、三年前、独立は文化初年頃と推定される。文政四年(1821年)から筑前大掾を受領し、嘉永元年(1848年)に上京して美濃介に転じ、安政四年(1857年)に七十九歳で歿した。正秀が復古刀論の理論家とされるのに対し、直胤はその実践者とされ、説明書は繰り返し、大成して「その技術が師を凌ぐと評せられた」と記す。
直胤は古刀の各伝に取組み、説明書は備前伝と相州伝を得意とし、特に備前伝に見るべきものが多いとする。そして「丁子乱れの巧みさは新々刀第一の定評がある」という。ただ記録そのものでは、丁子はその定評ほど常に現れるわけではない。四十口の説明のうち丁子乱れと明記するものは七口、刃中に何らかの丁子を交えるものは十四口である。備前伝はむしろ互の目を主調とする乱れに角がかった刃・片落ち互の目・尖り刃・丁子を交えることが多い。足長く入って処々刃先に抜け、刃は逆がかり、説明書はこれを鎌倉後期の長船景光・兼光をねらったものと読む。匂口は明るく冴え、匂勝ちに小沸つき、姿は腰元に反りのつく中鋒の、鎌倉時代の太刀を思わせる。
備前伝の地鉄は小板目よくつみ、地沸細かにつき地景入る。上作には乱れ映りが鮮明に立ち、文化十二年紀の刀では映りが処々焼頭に繋がる。説明書はこの甦った映りを長船を範とした証とする。一方で新作である所以も明言する。逆丁子が見事で乱れ映りの鮮明な文化十三年紀の刀について、「残念乍ら純然たる匂出来ではなく、全体に沸づくところが、古作と新々刀との相達である」と記す。帽子は乱れ込んで尖りごころに掃きかけて返り、あるいは直ぐに小丸となる。
相州伝は記録のもう一つの面で、説明書は備前伝より稀とし、正宗・貞宗・志津をねらうとする。地鉄は大板目が肌立って大杢を交え、強い作には渦巻肌が入り、説明書はこれを相伝の作の見どころの一つとする。その上に湾れに互の目・大互の目を交え、匂深く沸厚く、むらづいて荒沸を交え、砂流しや沸筋が縞がかり、金筋長く入る。文政十三年紀の脇指について、説明書は放胆で「野趣が感ぜられる」と評する。さらに小さく大和伝・直刃の手も残る。天保五年紀の刀は直刃調に小互の目を交え、説明書は本工に比較的珍しいとし、天保七年紀の大小の大は大和伝の総柾鍛えに相州伝の湾れ調に互の目を加味している。
直胤は江戸で鍛えるほか諸国を旅した。茎の刻印には伊勢・信濃・久居・浪華・備中の地名が見え、天保八年紀の備中打の刀の説明は、同年の別の一口に門人重次・重行・勝永の名があることを引き、門人を伴った旅であったとする。彫物の多くは水心子一門の彫物師本荘義胤によるもので、文化年間の脇指の添銘について説明書は資料的価値を認める。弘化五年の京都での作には「都」の刻印があり、銘文の如く太政殿下のために作った太刀の副作とされる。
藤代の評価は最上作。国宝・重要文化財はない。指定を受けた作は四十口で、特別重要刀剣一口、重要刀剣三十五口、戦前の重要美術品三口、本間による御物台帳に所載の、浪華の刻印と天保八年紀をもつ脇指一口である。いずれも在銘で、多くは年紀を有し、文化二年(1805年)から安政四年に及ぶ。杉原の注文による重要美術品の備前伝の刀は、本間の言として「彼の備前伝の作中の筆頭に置くべきものである」とされ、同じく天保五年紀の相州伝の刀は「水心子の相州伝にもこれ程の出来はない」とされ、「直胤の相州伝の傑作で同工の右翼といえる一口である」と評される。天保三年紀の久居打の備前伝の刀は「直胤会心の一口」とされ、太田政恭の需めによる天保八年紀の備中打の刀は、材を精選したためか常の作を凌ぐとされる。津藩渡辺脩の注文作もあり、天保七年紀の大小は「藩政時代は真田家に伝来した」。作が多いだけに偽物も多いと説明書は注意し、在銘の直胤は古刀の名工に比べはるかに見出しやすい。それでも特別重要刀剣・重要刀剣の作は売買されるより所蔵されることが多く、個人の蒐集家の手に入るのは時折のことである。