大慶直胤の重要刀剣、同工最盛期の『天保打ち』、健全無比、古作備前物に見紛う程の地刃の出来、師伝の『復古造法論』を体現した究極の一振りです。 直胤は、荘司箕兵衛と言い、安永七年(一七七八)、出羽国山形に生まれ、『大慶』と号しました。寛政十年(一七九八)頃、同郷の水心子正秀を頼って江戸へ出て門下に入り、文化初年(一八〇四~一八)頃に独立すると、師と同じく、秋元家に仕えました。文政四年(一八二一)には『筑前大掾』、嘉永元年(一八四八)には『美濃介』へと転じ、師の提唱した『復古造法論』を最も良く実践し、師に次いで多くの門人を輩出しました。 作は、寛政末年ころから安政三年頃まで残されており、安政四年(一八五七)、七十九歳にて没、師正秀、源清麿と共に、『江戸三作』と呼ばれました。 作風は、五ヶ伝全てを巧みにこなし、山城来、大和保昌、備前景光、相州正宗、相伝備前長義、美濃志津写しなどの傑作が残されています。 五十歳を過ぎた天保頃より、三度の長旅に出て各地で鍛刀しており、その地名を『東(江戸)』、『都(京都)』、『ナニワ(大坂)』、『イセ(伊勢)』などと茎に刻印、又は切り付け銘として残しています。 本作は、天保六年、同工五十八歳の頃の作、同工が最も得意とした備前伝の中でも傑出した出来映えを示した名品です。 寸法二尺三寸六分弱、腰反りやや深めに付いた鎌倉末期の美しい太刀姿を示しており、地刃この上なく健やかで、研ぎ減りを微塵も感じません。 本作は、いわゆる『天保打ち』と呼ばれるもので、一般的にも高く評価されています。実際この頃の作には、心技体全てに於いての充実振りが窺えるような名品が多く残されており、同工重要刀剣指定品の内、実にその半数が『天保打ち』であることもその裏付けかと思われます。 互の目乱れを主体とした焼き刃は、小互の目、丁子、尖り風の刃が入り乱れ、刃縁に沸匂いが厚く付いて明るく冴え、刃中金筋、砂流し頻りに掛かり、地にも細かな飛び焼きが見られます。帽子も焼き刃のままに烈しく金筋、砂流しが掛かって強く掃き掛けるなど、同工が最も得意とする備前伝に、沸の煌めきと美しさが加味された優品です。 図譜には、『この刀は、出入りがあって華やかな乱れを表した直胤の備前伝の作として称揚されるものであり、特に金筋、砂流し等の刃中の働きは見事である。』とあります。 刃と地の境目が判然とせず、焼き頭が匂いで尖って地に溶け込んで行く感じは、新々刀期の刀工にはまず見られません。 『刀はすべからく鎌倉期へ回帰せよ。』と提唱した師の『復古造法論』が見事に体現された究極の一振り、大慶直胤の『天保打ち』、同工備前伝の最高峰と言える名刀です。
直胤は、安永七年に出羽国山形に生まれ、本名を庄司(荘司)箕兵衛(美濃兵衛)と称し、 大慶と号した。文政四年頃に筑前大掾を受領し、嘉 永元年に上洛して美濃介に転じている。 彼は若年の折に江戸に出て、 水心子正秀の門に入り、後に、師と同様に秋元侯に仕え、 細川正義と共に 水心子門下の逸材となった。 水心子入門の時期については明らかでないが、彼が二十三歳の時の作刀に「庄司直胤 寛政十三年正月日」の銘が あることから、これより二、三年前の寛政十一、二年頃と推定され、文化初年頃に独立したと考えられる。安政四年五月七日、七十九歳で歿し ている。 この刀は、板目に地沸が微塵についた鍛えに地景が入り、淡く映りが立ち、刃文は、互の目を主体に尖り刃・丁子風の刃など交じり、出入り があって華やかに乱れ、足・葉さかんに入り、刃中さかんに沸づいて、処々に湯走り状の細かな飛焼交え、金筋・砂流しさかんにかかる出来口 を示している。出入りがあって華やかな乱れを表した直胤の備前伝の作として称揚されるものであり、特に金筋・砂流し等の刃中の働きは見事 である。







直胤は、安永七年に出羽国山形に生まれ、本名を庄司(荘司)箕兵衛(美濃兵衛)と称し、 大慶と号した。文政四年頃に筑前大掾を受領し、嘉 永元年に上洛して美濃介に転じている。 彼は若年の折に江戸に出て、 水心子正秀の門に入り、後に、師と同様に秋元侯に仕え、 細川正義と共に 水心子門下の逸材となった。 水心子入門の時期については明らかでないが、彼が二十三歳の時の作刀に「庄司直胤 寛政十三年正月日」の銘が あることから、これより二、三年前の寛政十一、二年頃と推定され、文化初年頃に独立したと考えられる。安政四年五月七日、七十九歳で歿し ている。 この刀は、板目に地沸が微塵についた鍛えに地景が入り、淡く映りが立ち、刃文は、互の目を主体に尖り刃・丁子風の刃など交じり、出入り があって華やかに乱れ、足・葉さかんに入り、刃中さかんに沸づいて、処々に湯走り状の細かな飛焼交え、金筋・砂流しさかんにかかる出来口 を示している。出入りがあって華やかな乱れを表した直胤の備前伝の作として称揚されるものであり、特に金筋・砂流し等の刃中の働きは見事 である。
Taikei Naotane (shinshinto, Suishinshi Masahide line, Yamagata / Edo) · 武蔵 · 1801-1837頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位10%
現在15点販売中
大慶直胤は水心子正秀第一の門人にして、師に次ぐ新々刀の中心的存在である。安永に出羽国山形に生まれ、通称を庄司箕兵衛、号を大慶といい、若年の折に江戸に出て正秀の門に入り、師同様に秋元侯に仕え、細川正義と共に水心子門下の逸材となった。二十三歳の作刀に「庄司直胤」と寛政十三年の年紀があることから、説明書は入門をこれより数年前、独立を文化初年頃とする。文政四年頃に筑前大掾を受領し、嘉永元年に上洛して美濃介に転じ、約五十年に亘る作刀ののち安政四年七十九歳で歿した。正秀が復古刀論の理論家であったのに対し、直胤はその実践者であり、説明書はその技術が師を凌ぐに至ったと評し、ある相州伝の刀について「その技術が師を凌ぐと評せられた」[[c:1]]と記す。
本工の本領は備前伝で、説明書はこれを彼の得意とするところとし、端的に「丁子乱れの巧みさは新々刀第一の定評がある」[[c:2]]と述べる。よくつんだ小板目、時に梨子地風の地に丁子乱れを焼き、これに角張った角互の目・尖り刃・互の目を交え、足は長く、しばしば刃先に抜けるほどに入る。総体に後期長船の逆がかりを示して丁子も逆足も寝かせ、匂勝ちに小沸つき、匂口明るく冴える。姿は鎌倉の太刀を彷彿とさせ、腰反りないしやや高く中鋒となり、説明書はその角がかった刃と逆がかりを、鎌倉後期長船の景光・兼光を意識した範と読む。
この刃の下にあって終始変わらぬのが地鉄である。よくつんだ小板目に地沸つき、最上の備前伝では腰元に乱れ映りが鮮明に立ち、上作では映りが刃の焼頭に繋がる。新々刀には本来の古刀の映りはなく、ゆえに乱れ映りを意図して甦らせたこと自体が古備前への遡りの証で、説明書はこれを長船をねらいとした証として特筆する。同時に、これが古刀ではなく新々刀である所以についても明快で、兼光・景光に倣ったと極められた備前伝の刀について「純然たる匂出来ではな」[[c:3]]く、全体に沸づくとし、これを「古作と新々刀との相達」[[c:4]]と評する。帽子は乱れ込んで先尖りごころに掃きかけ返り、あるいは直ぐに小丸となる。
直胤は古刀各伝を手がけ、その記録は明瞭な調子に分かれる。賞される第二の手は相州伝で、備前伝より稀にして正宗・貞宗・志津に範を求める。流れて大杢目を交えた板目、上作では独特の渦巻肌を交えた地に、説明書がこれを相伝の見どころとする地に、湾れに互の目を交え、地沸厚く地景入り、沸荒めに叢となり、砂流し・沸筋縞がかって金筋長く入る。ある相州伝の脇指を説明書は放胆として、その叢づく沸と頻りなる掃きかけに「野趣が感ぜら」れるとする。第三の小調子として、より穏やかな大和の手と直刃が残る。ある天保の刀を本工に比較的珍しいとし、直刃調を浅くのたれて小互の目を交えるとし、真田家伝来の大小では大を大和伝の総柾鍛えに相州伝の湾れ・互の目を加味したものとして、一刀に二伝を交える。在銘にして年紀の多い工ゆえ、直胤における鑑定の問題は極めにあらず、その位置にある。
彼を分かつのは、極めの自ら言うところである。明るい乱れ映り、角互の目と逆足を伴う逆がかりの丁子、そして意図的な長船写しが、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から彼の備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。彼は正秀の直下に立ち、自らの門人の先に立つ。刀身の彫物はしばしば水心子門下の彫物師本庄義胤の手になり、高弟澤原重胤らがその大慶の作風を幕末へと伝える。説明書はその上作を同工の筆頭に置き、ある備前伝の刀を「彼の備前伝の作中の筆頭に置くべきものである」[[c:5]]とし、茎に和歌を切った一刀を傑作中の傑作と称え、天保の相州伝の刀を同工の右翼として師の相州伝をも凌ぐとする。
収集の観点では、直胤は新々刀復古の在銘の大名跡である。藤代の極めは最上作、刀剣銘鑑の位列もその上位近くにある。国宝・重要文化財はなく、その指定は戦前の重要美術品と現代の特別重要刀剣・重要刀剣を通じ、約四十口の指定作がいずれも在銘で文化から嘉永の年紀をもって残る。その作は来歴と銘文の確かな名家に伝わる。真田家伝来の大小、太政殿下の台命により造られて皇室に伝わる御太刀の副作、津藩の渡辺脩が注文した刀、そして製鉄業の太田政恭のために良質の原材料を吟味して鍛えられ、説明書が「会心の一口」と称える一刀がある。戦前の重要美術品には井手慶四郎・須藤宗次郎・鈴木清助の旧蔵がある。指定文化財として封じられた作はなく、また作刀が多いため、在銘の直胤は古刀の大名跡よりは世に出やすいが、その最上の特別重要刀剣・重要刀剣はなお取引されるより秘蔵されることが多い。私蔵の一口が収集家の前に現れるのは時折のことであり、説明書が新々刀第一とする備前伝の確かな傑作ともなれば、世に出れば一個の画期である。
直胤の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
現在75点販売中
水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
NBTHK公式サイト刀剣、刀装具、骨董等1点ものにつきましては、キャンセル待ちのお客様がおられる場合がございますので、ご返品のご連絡は商品到着後3日以内、ご返送は8日以内にお願いいたします。ご返金は商品ご返送到着後即日に致します。
大慶直胤の重要刀剣、同工最盛期の『天保打ち』、健全無比、古作備前物に見紛う程の地刃の出来、師伝の『復古造法論』を体現した究極の一振りです。 直胤は、荘司箕兵衛と言い、安永七年(一七七八)、出羽国山形に生まれ、『大慶』と号しました。寛政十年(一七九八)頃、同郷の水心子正秀を頼って江戸へ出て門下に入り、文化初年(一八〇四~一八)頃に独立すると、師と同じく、秋元家に仕えました。文政四年(一八二一)には『筑前大掾』、嘉永元年(一八四八)には『美濃介』へと転じ、師の提唱した『復古造法論』を最も良く実践し、師に次いで多くの門人を輩出しました。 作は、寛政末年ころから安政三年頃まで残されており、安政四年(一八五七)、七十九歳にて没、師正秀、源清麿と共に、『江戸三作』と呼ばれました。 作風は、五ヶ伝全てを巧みにこなし、山城来、大和保昌、備前景光、相州正宗、相伝備前長義、美濃志津写しなどの傑作が残されています。 五十歳を過ぎた天保頃より、三度の長旅に出て各地で鍛刀しており、その地名を『東(江戸)』、『都(京都)』、『ナニワ(大坂)』、『イセ(伊勢)』などと茎に刻印、又は切り付け銘として残しています。 本作は、天保六年、同工五十八歳の頃の作、同工が最も得意とした備前伝の中でも傑出した出来映えを示した名品です。 寸法二尺三寸六分弱、腰反りやや深めに付いた鎌倉末期の美しい太刀姿を示しており、地刃この上なく健やかで、研ぎ減りを微塵も感じません。 本作は、いわゆる『天保打ち』と呼ばれるもので、一般的にも高く評価されています。実際この頃の作には、心技体全てに於いての充実振りが窺えるような名品が多く残されており、同工重要刀剣指定品の内、実にその半数が『天保打ち』であることもその裏付けかと思われます。 互の目乱れを主体とした焼き刃は、小互の目、丁子、尖り風の刃が入り乱れ、刃縁に沸匂いが厚く付いて明るく冴え、刃中金筋、砂流し頻りに掛かり、地にも細かな飛び焼きが見られます。帽子も焼き刃のままに烈しく金筋、砂流しが掛かって強く掃き掛けるなど、同工が最も得意とする備前伝に、沸の煌めきと美しさが加味された優品です。 図譜には、『この刀は、出入りがあって華やかな乱れを表した直胤の備前伝の作として称揚されるものであり、特に金筋、砂流し等の刃中の働きは見事である。』とあります。 刃と地の境目が判然とせず、焼き頭が匂いで尖って地に溶け込んで行く感じは、新々刀期の刀工にはまず見られません。 『刀はすべからく鎌倉期へ回帰せよ。』と提唱した師の『復古造法論』が見事に体現された究極の一振り、大慶直胤の『天保打ち』、同工備前伝の最高峰と言える名刀です。
直胤は、安永七年に出羽国山形に生まれ、本名を庄司(荘司)箕兵衛(美濃兵衛)と称し、 大慶と号した。文政四年頃に筑前大掾を受領し、嘉 永元年に上洛して美濃介に転じている。 彼は若年の折に江戸に出て、 水心子正秀の門に入り、後に、師と同様に秋元侯に仕え、 細川正義と共に 水心子門下の逸材となった。 水心子入門の時期については明らかでないが、彼が二十三歳の時の作刀に「庄司直胤 寛政十三年正月日」の銘が あることから、これより二、三年前の寛政十一、二年頃と推定され、文化初年頃に独立したと考えられる。安政四年五月七日、七十九歳で歿し ている。 この刀は、板目に地沸が微塵についた鍛えに地景が入り、淡く映りが立ち、刃文は、互の目を主体に尖り刃・丁子風の刃など交じり、出入り があって華やかに乱れ、足・葉さかんに入り、刃中さかんに沸づいて、処々に湯走り状の細かな飛焼交え、金筋・砂流しさかんにかかる出来口 を示している。出入りがあって華やかな乱れを表した直胤の備前伝の作として称揚されるものであり、特に金筋・砂流し等の刃中の働きは見事 である。







直胤は、安永七年に出羽国山形に生まれ、本名を庄司(荘司)箕兵衛(美濃兵衛)と称し、 大慶と号した。文政四年頃に筑前大掾を受領し、嘉 永元年に上洛して美濃介に転じている。 彼は若年の折に江戸に出て、 水心子正秀の門に入り、後に、師と同様に秋元侯に仕え、 細川正義と共に 水心子門下の逸材となった。 水心子入門の時期については明らかでないが、彼が二十三歳の時の作刀に「庄司直胤 寛政十三年正月日」の銘が あることから、これより二、三年前の寛政十一、二年頃と推定され、文化初年頃に独立したと考えられる。安政四年五月七日、七十九歳で歿し ている。 この刀は、板目に地沸が微塵についた鍛えに地景が入り、淡く映りが立ち、刃文は、互の目を主体に尖り刃・丁子風の刃など交じり、出入り があって華やかに乱れ、足・葉さかんに入り、刃中さかんに沸づいて、処々に湯走り状の細かな飛焼交え、金筋・砂流しさかんにかかる出来口 を示している。出入りがあって華やかな乱れを表した直胤の備前伝の作として称揚されるものであり、特に金筋・砂流し等の刃中の働きは見事 である。
Taikei Naotane (shinshinto, Suishinshi Masahide line, Yamagata / Edo) · 武蔵 · 1801-1837頃
藤代 最上作 · 刀剣大鑑 上位10%
現在15点販売中
大慶直胤は水心子正秀第一の門人にして、師に次ぐ新々刀の中心的存在である。安永に出羽国山形に生まれ、通称を庄司箕兵衛、号を大慶といい、若年の折に江戸に出て正秀の門に入り、師同様に秋元侯に仕え、細川正義と共に水心子門下の逸材となった。二十三歳の作刀に「庄司直胤」と寛政十三年の年紀があることから、説明書は入門をこれより数年前、独立を文化初年頃とする。文政四年頃に筑前大掾を受領し、嘉永元年に上洛して美濃介に転じ、約五十年に亘る作刀ののち安政四年七十九歳で歿した。正秀が復古刀論の理論家であったのに対し、直胤はその実践者であり、説明書はその技術が師を凌ぐに至ったと評し、ある相州伝の刀について「その技術が師を凌ぐと評せられた」[[c:1]]と記す。
本工の本領は備前伝で、説明書はこれを彼の得意とするところとし、端的に「丁子乱れの巧みさは新々刀第一の定評がある」[[c:2]]と述べる。よくつんだ小板目、時に梨子地風の地に丁子乱れを焼き、これに角張った角互の目・尖り刃・互の目を交え、足は長く、しばしば刃先に抜けるほどに入る。総体に後期長船の逆がかりを示して丁子も逆足も寝かせ、匂勝ちに小沸つき、匂口明るく冴える。姿は鎌倉の太刀を彷彿とさせ、腰反りないしやや高く中鋒となり、説明書はその角がかった刃と逆がかりを、鎌倉後期長船の景光・兼光を意識した範と読む。
この刃の下にあって終始変わらぬのが地鉄である。よくつんだ小板目に地沸つき、最上の備前伝では腰元に乱れ映りが鮮明に立ち、上作では映りが刃の焼頭に繋がる。新々刀には本来の古刀の映りはなく、ゆえに乱れ映りを意図して甦らせたこと自体が古備前への遡りの証で、説明書はこれを長船をねらいとした証として特筆する。同時に、これが古刀ではなく新々刀である所以についても明快で、兼光・景光に倣ったと極められた備前伝の刀について「純然たる匂出来ではな」[[c:3]]く、全体に沸づくとし、これを「古作と新々刀との相達」[[c:4]]と評する。帽子は乱れ込んで先尖りごころに掃きかけ返り、あるいは直ぐに小丸となる。
直胤は古刀各伝を手がけ、その記録は明瞭な調子に分かれる。賞される第二の手は相州伝で、備前伝より稀にして正宗・貞宗・志津に範を求める。流れて大杢目を交えた板目、上作では独特の渦巻肌を交えた地に、説明書がこれを相伝の見どころとする地に、湾れに互の目を交え、地沸厚く地景入り、沸荒めに叢となり、砂流し・沸筋縞がかって金筋長く入る。ある相州伝の脇指を説明書は放胆として、その叢づく沸と頻りなる掃きかけに「野趣が感ぜら」れるとする。第三の小調子として、より穏やかな大和の手と直刃が残る。ある天保の刀を本工に比較的珍しいとし、直刃調を浅くのたれて小互の目を交えるとし、真田家伝来の大小では大を大和伝の総柾鍛えに相州伝の湾れ・互の目を加味したものとして、一刀に二伝を交える。在銘にして年紀の多い工ゆえ、直胤における鑑定の問題は極めにあらず、その位置にある。
彼を分かつのは、極めの自ら言うところである。明るい乱れ映り、角互の目と逆足を伴う逆がかりの丁子、そして意図的な長船写しが、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から彼の備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。彼は正秀の直下に立ち、自らの門人の先に立つ。刀身の彫物はしばしば水心子門下の彫物師本庄義胤の手になり、高弟澤原重胤らがその大慶の作風を幕末へと伝える。説明書はその上作を同工の筆頭に置き、ある備前伝の刀を「彼の備前伝の作中の筆頭に置くべきものである」[[c:5]]とし、茎に和歌を切った一刀を傑作中の傑作と称え、天保の相州伝の刀を同工の右翼として師の相州伝をも凌ぐとする。
収集の観点では、直胤は新々刀復古の在銘の大名跡である。藤代の極めは最上作、刀剣銘鑑の位列もその上位近くにある。国宝・重要文化財はなく、その指定は戦前の重要美術品と現代の特別重要刀剣・重要刀剣を通じ、約四十口の指定作がいずれも在銘で文化から嘉永の年紀をもって残る。その作は来歴と銘文の確かな名家に伝わる。真田家伝来の大小、太政殿下の台命により造られて皇室に伝わる御太刀の副作、津藩の渡辺脩が注文した刀、そして製鉄業の太田政恭のために良質の原材料を吟味して鍛えられ、説明書が「会心の一口」と称える一刀がある。戦前の重要美術品には井手慶四郎・須藤宗次郎・鈴木清助の旧蔵がある。指定文化財として封じられた作はなく、また作刀が多いため、在銘の直胤は古刀の大名跡よりは世に出やすいが、その最上の特別重要刀剣・重要刀剣はなお取引されるより秘蔵されることが多い。私蔵の一口が収集家の前に現れるのは時折のことであり、説明書が新々刀第一とする備前伝の確かな傑作ともなれば、世に出れば一個の画期である。
直胤の位置づけを、日本刀全体および伝統・時代・時期ごとに示します。各位(随一・屈指・有数・著名)は、NBTHK および文化庁による指定に加え、三作や名物帳などの歴史的栄誉を加味したものです。
各項目を選ぶと評価方法が表示されます。
在銘年紀作が示す、確実に活動していた年代
新々刀 · 武蔵
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水心子正秀派は、十八世紀末から十九世紀初頭の江戸に興り、刀はすべて鎌倉の昔に復すべしとする復古刀運動を中核に据えた新々刀の一門である。開祖水心子正秀は、寛延三年に出羽国赤湯に川部儀八郎として生まれ[[c:1]]、武州下原の鍛冶吉英に学んだのち山形秋元家に仕え、のちに江戸浜町に移って約五十年に及ぶ作刀生活を送り、文政八年に七十六歳で歿した。彼は新々刀の祖と称され、古作の伝法を意図して甦らせることを唱えてその理論を世に広めたが、説明書は正秀自身の才のありかをむしろ壮年までの大坂写しに見いだす。この一門の物語で最も重きをなすのは、彼が江戸に糾合し育てた門人たちであろう。復古刀論を実地に示した第一の門人大慶直胤、二代正義細川守秀がその直下に立ち、さらに直胤の門から養子となった次郎太郎直勝、直胤の女婿と伝える水心子正次、正義の嫡子正守、米沢上杉家に仕えた長運斎綱俊、水戸藩工直江助政が連なって、出羽・江戸を中心に各藩へと広がった。 この一門を貫く共通の語法は、古刀各伝の意図的な復興にある。よく約んだ無地風に近い小板目に地沸を厚くつけ、その地の上に相州伝ののたれ・互の目、あるいは備前伝の丁子・互の目を焼くのが基調で、技術論的かつ教導的な性格がこれを支える。正秀の典型は津田助広に私淑した大坂写しの濤瀾乱れと井上真改風の広直刃にあり、地へこぼれる黒味がちの荒い沸が終始の手癖をなした。これに対して門人たちは古備前への遡りをいっそう深め、新々刀には本来失われた映りを意図して甦らせた。直胤はよくつんだ小板目に乱れ映りを鮮明に立て、後期長船の逆がかりを示す丁子乱れを焼いてこれを得意とし、説明書はその丁子乱れの巧みさを新々刀第一と評する。直勝は兼光に範をとった片落ち互の目を主体に、直胤よりも豪壮な姿と低く静かな焼きで古調を醸し、正次と正守はともに直胤・正義の二伝を忠実に承けて相州伝と備前伝を均しく再現し、綱俊は丁子に互の目を交えた備前伝を主調とした。一方で正秀みずからの備前伝・相州伝は終始焼刃が浅く荒い沸を交え、説明書はその技が門人直胤に及ばないと明記する。差異は資料の支持する範囲で明瞭で、直胤の備前・相州の両伝、直勝の長船写しに見る逆がかりと大杢目、助政の真改風直刃に偏した作域がそれぞれを分かつ。 鑑定の勘所は、まずこの意図的な映りと逆がかりに置かれる。明るい乱れ映りと角互の目を伴う逆がかりの丁子は、映りも逆がかりも持たぬ一般の新々刀から備前伝を分かち、相州伝は独特の渦巻肌と叢づき縞がかる沸の働きによって示される。位列としては正秀を上々作、直胤を最上作の在銘の大名跡とし、正義に次ぐ正守、綱俊、助政らがこれに続く。この一門は在銘・有年紀の作を数多く遺したため、その鑑定の問題は極めの難ではなくむしろ系統内の位置にあり、年ごとに変化する銘がその発展を正確に辿らせる。伝来は真田家伝来の大小や皇室に伝わった御太刀の副作、各藩工としての藩命作にうかがわれ、正秀が向き直らせた江戸の作刀は直胤を介して直勝・正次らへ受け継がれ、兼光・景光をねらった長船復古として幕末の十九世紀作刀に広く及んだ。
特別保存刀剣の中から、特に出来が優れ、国認定の重要美術品に準ずると判断された名品です。年に一度の重要刀剣審査で選ばれます。
極めて選別的で、日本に登録された約250万口の刀剣のうち、重要刀剣に達したものは12,307口(約203口に1口)にすぎません。
日本美術刀剣保存協会(NBTHK)は、1948年に設立され、文化庁の監督を受ける公益財団法人で、東京・刀剣博物館に本部を置きます。専門の審査員が出品作を直接審査し、美術的・歴史的価値に応じた鑑定書を発行します。NBTHKの鑑定書は、日本刀および刀装具の真正性を示す最も広く認知された基準です。
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