説明書は兼光の項を常に一つの定文で起こす。すなわち「景光に続く長船派の嫡流である」と。光忠・長光・景光と続く長船嫡流の四代、景光の子であり、南北朝期の備前を代表する刀工である。現存する年紀作は鎌倉時代末期の元亨元年(一三二一)から南北朝期の貞治に及ぶ約四十五年の長きに亘り、応安に及ぶとして約五十年と数える記載もある。あまりに長いこの作刀期間から、初代・二代の存在を考える説が古くから提起され、その分岐点には定説がない。後代の作者は世に「延文兼光」と称される。
作風は貞和・観応(一三四五〜五二)を境に二分される。康永頃までの作品は太刀・短刀共に姿が尋常で、直刃調に互の目を交えるか、父より継いだ片落ち互の目を焼き、指定書の繰り返す評語のとおり「総じて父景光風を踏襲した感」のものである。貞和・観応頃から姿が大柄となり、以後はほとんどの指定書が同じ一文を繰り返す。「それまでになかったのたれ主調の刃文が出現し、文和・延文頃にこれが多く見られる」と。大どかなのたれと角互の目は共に「兼光の得意とするところ」とされ、ある特別重要刀剣の説明は角互の目を主体とした焼刃を「兼光が終始得意とした構成」と記す。前代までの丸く返る帽子に対し、本工の帽子は乱れ込み、しばしば突き上げて先が尖る。
大柄の作においても鍛えは崩れない。地鉄は板目に杢を交え、元から先まで肌のゆるみや荒れを見せず、地沸が微塵に厚くつき、細かな地景が入り、乱れ映りが鮮明に立って鉄が冴える。初期の生ぶ在銘作では、よくつんだ小板目に直ぐ映りや棒映りが立つ。刃文は総じて匂勝ちに小沸がつき、腰元に金筋・砂流しがかかり、処々に小さな飛焼や湯走り風の働きを交え、足・葉がよく入る。彫物もまた本工の見どころで、梵字・護摩箸・素剣に加え、とりわけ「草の倶利伽羅」は兼光と倫光の作にまま見られる独特の構図と記される。
後期作の現存の多くは大磨上無銘の刀である。身幅広く元先の幅差が目立たず、大鋒に結ぶ延文・貞治型の体配がそれで、傍らに身幅広く重ね薄い寸延び平造の短刀・小脇指が立ち、さらに指表に銘を切り当初から打刀として造られた平造長寸の作があって、上杉家伝来の「水神切」がその記録に残る例である。大磨上の多い作域としては在銘が存外に多く、ここに集う指定作では在銘百十口に対し無銘九十八口、長銘は「備前国長船住兼光」「備州長船住兼光」と切り、年紀を添えるものが多い。後期の強い沸について説明書は留保を付して「相州伝の影響を受けてか」と記し、「沸も強調していることから、世に相伝備前と称されている」と続ける。古い指定書はさらに一歩を、ただし問いとしてのみ進める。のたれへの転換に「相州正宗との関係と、初・二代の交替が考えられる」と。正宗門人の伝は課題として開かれたまま、事実としては断じられていない。大磨上無銘の多くには本阿弥光徳・光遜らの金象嵌極めが付され、審査はその多くを首肯している。
備前のうちでの位置は、継いだものと開いたものとで定まる。片落ち互の目は長船嫡流中、景光から兼光へとのみ受け継がれた軸であり、のたれは本工自身の加えたもの、備前鍛冶として本工が切り開いた大どかな乱れである。その盛期の作風は門下・周辺を通じて長船後期に伝わり、説明書は関連作を兼光周辺の作刀と読み、本工の好んだ草の倶利迦羅は倫光に再び現れる。
藤代の格付は最上作。指定を受けた作は二百三十七口に上る。国宝はないが重要文化財は十三口を数え、名のある作はそこに集まる。説明書に「名物大兼光や上杉景勝御手選び三十五腰の太刀」と挙げられる二口(共に重要文化財)、そして金象嵌に羽柴岡山中納言秀詮すなわち小早川秀秋の所持を伝える名物「波游兼光」である。特別重要刀剣は四十口で刀工中最多、重要刀剣を合わせれば二百二口に達する。伝来も深く、六十九口に来歴が録され、足利尊氏・上杉謙信・上杉景勝・豊臣秀吉・藤堂高虎、黒田家・伊達家・細川家・前田家・尾張徳川家の名が連なる。杉原伯耆守重長の遺物として徳川家光に納められた一口、長州藩永代家老の益田家に伝来した一口もある。重要文化財・重要美術品の諸作は神社・美術館・旧家に文化財として収まり、徳川美術館・佐野美術館・永青文庫が記録上の所蔵者に見える。蒐集家にとってこの工は、同位の名工に比べれば全く手の届かぬ存在ではなく、特別重要・重要の諸作は時に市場に現れる。しかしその多くは秘蔵されて動かず、在銘年紀の一口が現れることは稀であって、現れれば刮目すべき機会となる。